翌。セリーグが開幕しての二日目、平日である以上藍葉らは、ナイトゲームに備えた緩やかな午前中をホテルで送っていたが、片や彼女は朝から元気に活動し、Twitterも更新済みだった。

「うおーーーー! 鎌ケ谷!」

 まるで米国への輩出が球団として最も誇る功績であるかのように、チケット売り場の上方にて、現役メジャーリーガーと出戻りの二人を、最も目立つように掲げた、日本ハムファーム本拠地、鎌ケ谷スタジアムは、紫桃の投稿した写真の中で、春先の陽光を燦々と浴びつつ耀いていた。偶然なのかそれとも執拗に計ったのか、球場名物の、あまりに低空な為に恐ろしいほどの大きさで空翔る自衛隊航空機が、エメラルド緑を基調とするスタジアムへ覆い被さるようになっており、中々の絵である。

「野球だ!」と紫桃が畳みかけた呟きへ、丹菊が、

「今日、初試合?」

「頑張るゾ!」

「死にかけたばかりなんだからあんまり無茶すんなよ、という気持ちと、イースタンなんかでくすぶってないで早く来てくれ、という気持ちが有る」

「心配&期待してもらえて何より」

「期待というか、枝音がいないと困る気がしてさ」

 この末尾の、丹菊による返信だけは、そこまで殆ど連続的だった応酬に反して、結構な時間、四半時間程度の間が前置かれている。恐らく、これは言ってよいものかと逡巡して、彼女なりに毒気を抜く作業を丹菊が施したのではないかと、藍葉は訝った。もしやすれば、「こっちには腑抜けしか居なくて辟易するから、早く一軍に来てくれ」位の本音を、彼女は秘しているのではあるまいか。紫桃と同ポジションである、自分が、あれだけなみされた直後であることに鑑みるに……

 

 そんなぼんやりとした危惧によって、午後一番も晴れぬ気分のままであった藍葉は、ホテルからの球団バスへ乗り込みざま、ぎょっとさせられた。気掛かりのせいで準備に梃子摺って、いつもより出遅れた彼は最後の搭乗であり、最早空いている席が、丹菊の隣にしか無かったのである。皆、女性の横に座るのをなんとなく憚り、そして丹菊も特に「わざとらしくしないで、誰か来いよ、」などと要求しないので、紫桃が居なくなって以降は、毎度彼女の横が最後に埋まるのだった。

「ういっす、」と言いながらそこを占めてみた藍葉は、

「ういっす。」と、スマートフォンを弄り続けるままの彼女に、御座なりに返事された。

 ま、本音がどうあれ、あからさまにそれをぶつけて来るような奴ではないよな、と、走り出したバスの中で藍葉が安心していると、丹菊は矢庭に、

「ねえ、枝音のTwitter見た?」

 油断していた藍葉の返事が、多少出遅れる。

「……ん? 今朝は見たけど、それ以降は、」

 無言で彼女が寄越してくるピンク色の端末を、彼は他にどうしようもなく、ただ受け取った。画面には、紫桃の発言が映っている。

「もうすぐ初試合、うおーーーーー!」との書き込みへ、四時間弱おいてから、一々写真を伴った発言が繫げられていた。「紫桃ちゃんの初打席」との発言には、右打席へ入りしなの、投手を睨む彼女の姿が大写しであるショット。「三連発!」との一言には、三枚の、白球がスタジアム上空を翔り渡っている写真。「盗塁刺二つ!」との呟きには、二塁で触球される走者の写真が二枚。

 そしてそれらの直後、タクシーの中で、Vサインを作っている彼女の写真が投稿されており、

「……と、頑張ってたら、『もう充分だから帰れ』って監督に言われたゾ」

 いつものように、そこへ絡んでいるのは丹菊で、

「そんなこと有る???」

「明日、球受けるのめちゃくちゃ楽しみだったのに…」

「というか、二軍戦のくせになんで写真有るの」

「カナっぺが、鎌ケ谷に来たついでに、ビームキャノンみたいなスゲー望遠カメラで撮ってくれたゾ」

「わざわざ枝音ちゃんのデビュー戦を観に来たってこと?泣ける」

「んにゃ、日ハムファームの応援がメイン」

「東京在住日ハム女子、まだ絶滅していなかったのか…」

「『アンタのせいで防御率がぶっ壊れたんだけど!』って怒られたゾ」

「タクシーの写真を撮っているのも歌奈なら、あんたのお陰で試合途中に帰らされてマジで大変じゃん」

「私も気遣ったら、『アンタのせいで見る気なくなってるわ!とっとと帰るよ!』って怒られたゾ」

「はるばる鎌ケ谷まで来て、可哀想に……」

「実際ちょっと遠いゾ。寮に入っていない者としては辛い」

 その後も二人の会話は続いていたが、追ってはキリがなさそうだと、藍葉はスマートフォンを丹菊へ返しがてら、

「明日の、二軍先発って?」

「さあ? でも、広島こっちへいらしていないのを見るに、三河コーチだったりするんじゃないの?」

「……ああ、成る程。そりゃ、紫桃さんも受けたがるか。」

「普通に横浜ファンだったからね、私も枝音も。」

 昨日此方へ差し向けてきた軽蔑を裏打ちしていたもの、勝利への真摯さと、横浜球団への愛着は矛盾しなかったのだろうかと、失礼なことを藍葉が思っていると、声によって彼の場所を跨がるようにして、先輩内野手の一人が丹菊へ話しかけた。どうやら彼も、自分の端末で紫桃のTwitterを確認したばかりらしい。

「なんだい詠哩子、枝音の奴、今日ホームラン三発打ったってことか?」

 この声が小さくなかったことで、人数ぴたりのバスの中にちょっとしたどよめきが広がる中、丹菊は、朧げな態度で、

「ええっと、多分、そうなんじゃないですか? 私も、公式記録見るまでは断言出来ないですけど、」

 騒めきの中から、藍葉に色々と聞こえてくる。凄いなこれ初打席からの三連発か? そんな奴過去に居たか? そもそもプロ初打席が本塁打なだけで数えるほどしか居ないだろうに。一打席目だけでいいなら実は57人居ますよ。なんで即答出来るんだお前。最後の一人が誰だか知らないですか? 知らん。一昨年の音坂おとさかです。音坂かよ! そういえばそうだ! 音坂おめでとう! 二年前の本塁打おめでとう! いや意味分からん。調べたら、ラペスの一打席目もホームランじゃないですか。おおラペス! さすがラペス! いや待って下さいその時のチャモさん巨人でしょ? 細かいことは良いんだよ! 凄いぜラペス! 訳分かんないことばかり日本語で言うからチャモさんが困ってるでしょ! というかラペスのは日本での初打席であってプロとしての初打席ではないだろ。そもそも紫桃もそうしたら一軍じゃなくて二軍の試合ですよね。だから細かいことは良いんだよ! 凄いぜラペス! おめでとう音坂! ええっと、紫桃の話は? だから細かいことは良いんだよ!

 この渾沌とした馬鹿騒ぎは、バスが球場に近づいたことで打ちきりとなった。具体的には、皆が皆、試合やその直前の練習の為に昂奮し、或いは逆に気を引き締めたので、結局紫桃の密やかな躍進は、真剣に編成を考えねばならない首脳陣を除けば、藍葉と丹菊のみが気にする程度のこととなったのである。

 

 そんな情況だったので、それから二日後の金曜日の、’16年度初の本拠地試合においては、殆ど皆が驚くことになるのだろう、と藍葉は想像した。開幕四日目に裏ローテバッテリーとして、当日付けで一軍に昇って来る紫桃と今長が、まぁ試合に先発するまでは自然なのだが、その内の紫桃を、初っ端から四番捕手としたオーダーが組まれるのだから。我らの新司令官ラミーロの奇策を好む性癖を、選手らも諒解し始めていたので、「直近で最も打っている者を、四番にする。」と言われ、OPSが5.00(※二軍)の打者を提示されたら、まぁ一旦受け入れるかしょうがねえな、という気分にもなれるかも知れない、……と、彼は皮肉げに想像してもいる。

 何故藍葉が想像力を働かせる羽目になっているのかと言うと、……紫桃と入れ替えで、彼は登録を抹消されたのだった。今は編成上色々試行している、近い内に一軍へ戻すからそのつもりで居てくれて大丈夫だ、というコーチの言葉を、どれだけ信用して良いのか、彼は分からないでいる。とにかく、ホーム初試合を欠席することになったのは、少なからず彼にとって残念だった。

 それを茶畑へ、チャットで零すと、

「じゃあせめて、客として観に行く?」

 藍葉は、眉を顰めてから、

「どうやって? こんな誰もが見たい試合、とっくにチケット売り切れているだろ?」

「実はね、一枚余ってるんだ」

「なんで?」

「私の隣の席で、内野の一番良いところ」

「だから、なんで?」

「〝接待〟に使おうと思ってたんだけど、存外相手がつれなかったんだよね。久々に直接私達で会いがてら、藍葉君も、プロになった目で紫桃の初試合を観れば、何か新しく分かることが有るかも知れないし?」

 『接待』という言葉の意味が気になった藍葉であったが、話を進めた。

「試合なら、放送のを録画で観ても悪く無い気がするけど、」

「そんなの後からでも良いけど、リアルを観られるのは一回だけだよ」

「それは、確かにね。……じゃあ、お言葉に乗ろうかな」


 試合開始前。横浜市の薄暮の中で、球場DJが、集った観客達への感謝を五月蝿く語っている中、藍葉から、

「彼が述べるべきは、感謝よりも祝福じゃないかな。」

「何故?」

「今日ここに座れる権利は、そうそう得られたものでなかったのだからさ。」

「でもさ、それってつまり、横浜球団のファンクラブに永らく入っていて、チケットをあがなえる優先権を獲得出来ていたってことでしょ? そうでなければ、藍葉君みたいに、伝手に頼るしかない。或いは、違法を覚悟で転売チケットを馬鹿値で買ったとか?

 いずれにせよ多大な努力を横浜の為に払ったんだから、それに対して、感謝は述べられても良いんじゃないかな。」

「……成る程、そうかもね。

 でも、転売入場券の購入は、寧ろ、横浜が憤るべき所業だろうけど。」

「愛すべきものの為に、それから絶縁される可能性を蹈まえて尚、悪事に手を染めるというのは、これ以上ない献身とも捉えられるんじゃないかな。これはある種の、至上の無私だよ。愛すべきものからの非難や軽蔑と謂う、正しく最悪の事象を、覚悟して行動するのだからね。」

 藍葉は、返事に困り、わざとらしい所作で、先程200円払わされたペットボトル飲料を開栓して誤魔化そうとしたのだが、これを取り出す為に自販機の前で屈んだ時の、「さぞかし美味しいコーラなんでしょうねえ、」という、茶柱の揶揄いを思い出してしまった。この高値が、巡り巡って藍葉の年俸にも些か寄与していることも、彼女は恐らくあげつらってきたのだろうと、彼は信じている。

 年齢が5つほど大きくなっている茶畑が、その分精神的な深みを纏っているだけでなく、以前までの生涯における、垢抜けぬ大学生のような容貌と全く異なった、洒脱に整った髪形や洗煉された着こなしを備えていることもあり、直接会うと、藍葉は、いつもどことなく上手に取られてしまうのだった。その耳朶で揺れる大振りなピアスが、青い横浜スタジアムの余映を反射し、彼女の卵のように白い頬へ複雑な陰映を与えている。

 これを、一瞬でも美しいと思ってしまった自分の状態を、藍葉は危険に感じた。

 とにかく、続いてスターティングメンバーの発表が始まった。まずは無機質に、対戦相手である巨人球団のメンバーが、一番打者からシンプルに発表されていく。スタメン発表と言う前座のイベントの、更に前座、プレリュードでも呼ぶべきこれは、巨人応援団による鳴り物援護を除けば、実に淡々と終了した。

 続いての、横浜スターティングメンバー発表。花形選手の柁谷の名がそこに無いことを知りながらも、周囲の横浜勢が昂奮して出迎えるのを藍葉は感じ取った。あんたらそんな真面目な顔、試合と練習以外で出来たのか、と彼が思うほどに厳粛に恰好つけたスター格選手らと監督の佇まいを素材とした、青く暗い、本日が初お披露目のオープニング映像がBGMと共に流れた後、やはり、打順通りにメンバーが発表されていく。一番センター、荒浪。たったこれだけ情報量が、DJの気合いと伎倆によって膨らまされ、整いつつも日本男子らしい顔つきの荒浪の名も、英語或いはローマ字基調でたっぷりとした衒気と共に読み上げられた。これでいい、この大袈裟こそが球場だ、エンターテイメントだ、と彼が思っていると、隣の茶畑は既に気を緩めていて、抱えたポップコーンを一摑み口へ含んでいる。血塗られたような爪を持つ、白く艶っぽい指先に、焦げた黍皮が一片まつわっていて、まるで、その洒脱な指を得る為に必要だった脱皮の名残のようだと、藍葉は感じた。

「藍葉君も、要る?」

「……いや、外すの面倒だから良いや。」

 別に犯罪を犯している訳ではないが、どこか後ろめたい気分の彼は、サングラスとマスクで変装を行っていた。強いて言うなら、先程のイースタン試合で美事な併殺打を打ったのが後ろめたい。

 続く発表。二番、ライト、エリコ・タンギク。この横浜スタジアムで初めて――実はオープン戦は有ったのだが――呼ばれた、新人選手、それも女の名前だったが、広島戦での八面六臂を知っている観客らは、なんら不満無くこれを出迎えた。横浜のスタメン発表においては、名が呼ばれると同時に、腕を雄々しく組んだ当該選手の胸像が、暗く濃い青を背景として、オーロラヴィジョンへ映るようになっているのだが、幼げに見えてしまう筈の彼女の見てくれが、カメラマンの絶技なのか写真編輯の妙技なのか、とにかくそれなりに見えるようになっているのに、藍葉は感心させられる。

 そうして、意気揚々の順風満帆だったスタメン発表に、しかし、突如な陰りが差す。丹菊に続いて、オーロラヴィジョンへとスウィング姿が見えたのは、魁偉な躰と四角く張った顎が特徴的な、あの頼もしい男だったのだ。横浜勢の観客を襲った、複雑な予感のままに、その男、三合の名前が、三番レフトとして呼び上げられる。無論、皆は盛り上がった。応援団も、腕を組んだハマの大砲の大写しへぶつけるかのように、鳴り物を強烈に打ち鳴らし始める。しかし、……三番?

 四番、キャッチャー、シオン・シトウ。瀰漫する混乱の中、三合に続いて読み上げられたそれへ対する歓声と鼓笛は、比較論ではあるものの明らかに小さくなっていた。果たして、彼女が二日前にファームで散々暴れていたことを知っているのは、今自分を囲繞している横浜勢の何割だろうか、そして、それを知っていたとして、だからってこの栄えある本拠地開幕戦の四番を託すのが然るべきと思えるのは、一握りでも居るのだろうかと、藍葉は疑る。ルーキーの、女で、しかも別に丹菊のような異常な肉体を持つでもなく、挙句、笑顔のVサインをスタメン発表ヴィジョンで晒しているような奴なのだ。

「良く考えると、一人だけあんな写真、良く許されているよね、」と、拍手しながらの藍葉。

「毎度撮影が急遽になるんだろうし、そこへつけ込んで我儘通すのかな?」と、周囲から浮くのを気にせずに、手を組んだままの茶畑。言葉遣いまでもやや油断していて、この世界が何度も繰り返されているのが前提となっていた。

 大写しとなっていた紫桃のVサインは、いつもように、捻られた、中指が殆ど水平となっている、手首が痛そうなものであった。彼女が写真に写る時には決して欠かさない、この、子供っぽい奇妙な仕草には何か意味が有るのだろうかと、藍葉が思う間に、スタメン発表は先へと進んでおり、九番の投手今長のタイミングで、歓呼と拍手が最大となる。同じ新人であろうとも、当人やラミーロへの懐疑ばかり抱かされる紫桃と異なり、このドラフト一位投手に対しては、本当に皆遺憾なく期待しているのだ。

 今生における、本年度の横浜は、開幕試合の勝敗が元来の歴史から覆されたせいで、美事な三連敗中だった。そのせいで横浜ファンは、初お披露目の選手による新たな力を、どうしても期待してしまっているのである。紫桃の放つ胡乱さは、それを補って余り有るようであったが。

 

 初回表、巨人の攻撃。あっさりと先頭二者を叩き切った、今長―紫桃のフレッシュバッテリーが、未知数のギャレッタを除けば巨人打線で最も怖い、主将、坂元を打席へと迎える。通常の観客にとっては、当然、鳴り物と声援の大音声の中で、選手間の遣り取りを聞き取るなど望むべくも無いのだが、しかし、茶畑と藍葉だけは、紫桃と坂元の会話内容を知っていた。それぞれが、かつてこの世界で過ごした、記者としてのにおいて、シーズン終わるまでは内緒ですよ、と釘を刺された上ではあったが、坂元からのインタヴューを得られていたのである。

 彼曰く、まず、紫桃は本塁で出会うなり、「いやー、さっきは有り難う御座いました。」と語ったのだと言う。そもそもこれが初対面ではなく、プレイボールよりもずっと前のタイミング、グラウンド上にて突然、「今日こんにちは、坂元さん。私、横浜の紫桃と申します!」と挨拶されたのだそうだ。坂元は、彼女の話題性と人懐っこさによってそのまま捕まり、何言か交わした後に、「叢田むらたさんにも、是非挨拶させて頂けませんか?」と、強請ねだられたらしい。

 叢田が、かつて横浜から巨人へ来たFA選手であり、それが友好的離脱とはとても言えないものであったのを当然知っている坂元は、打席で紫桃へ、あの後は叢田さんにお礼参りでもしたんですか? と、返したそうだが、彼女はただ、屈託なく、

「まさか! 私元々横浜ファンで、普通に憧れの選手だったので、御挨拶しただけですよ!」

 こんな遣り取りを知っている、藍葉と茶畑には、初球が投ぜられる前に坂元の頬が、僅かに綻んだようにも見えた。

 器用なことに、そんな馴れ馴れしい会話をしながらも、せっせとまともなサインを送っていた紫桃へ、今長から、鋭い直球がアウトローへ投げ込まれる。ストライク。

 気を許しかけた坂元がつい、いやぁ良い球を投げる、と、大きく呟くと、

「ああ、坂元さん。次、顔に行きます。ちゃんと避けて下さいね。」

 耳を疑った彼が聞き直すが、紫桃はそれを、試合中だぞとでも言いたげな、身勝手極まりない冷たさで無視しつつ、マウンドへサインを送るのだった。一瞬、今長の緊張が高まったのが露骨に見えたが、結局、「良い球」が、本当に、整った坂元の顔面スレスレに放り込まれる。海老反る彼と、巨人ベンチからの野次。坂元へのインタヴューだけでは、今長が恐れて多少外したのか、それとも紫桃の方便だったのか迄は分からなかったが、直撃コースは(ぎりぎり)外れていたそれに対して、しかし当然に憤った坂元が、つい、紫桃を睨むのだが、

「済みません、これも戦略ですので。……ああ、お詫びに、次の球お教えしますよ。」

 再び、耳を疑う彼へ、

「インコース中段の、カーヴ。今のを利用して、ストライク取りたいな、って。」

 記者としての、藍葉なり茶畑なりが、「それを言われて、どうしたんですか?」と、坂元へ問うと、彼は面映ゆげな苦笑で述べた。いやぁ、お恥ずかしいことにすっかりムキになっちゃいまして、舐めやがって、絶対に弾き返してやる、と。

 藍葉の場合も茶畑の場合も、そこから、「それで、どうなったのですか?」という質問を重ねるなどせずに、神妙に頷きつつメモを取るに留めたものであった。その結末は聞くまでもなく、実に有名だったのだ。インコースへ放り込まれた、幾らか抜かれたを、坂元のバットが下っ面から打ち上げる。

 三塁側、ファールグラウンドへの凡フライ。打席から微動だに出来ない、坂元の耳朶を打つ声。

「あら、御免なさい。」

 彼が振り返ると、マスクを上げた紫桃が片笑みを泛かべていた。

「今長君ってば、……サイン、憶え違えちゃってるみたいで。」

 その肩が、艶っぽく竦まれる。特にそこから奇跡は起こらず、三塁塁審の拳が叩き振られてスリーアウト。

 素晴らしいデヴューを新人バッテリーに決めさせてしまった、坂元は後にこんなところを語った。そりゃ、まんまとやられた自分が未熟だっただけなんですけど、いや、それにしても、何をいけしゃあしゃあと言っているんだと、思うじゃないですか。

 かつてのインタヴュワーは、いずれも、坂元の言葉の末尾を不思議に思ったが、「あはは、」と適当に流してしまった茶畑に対し、一方の藍葉の場合は、しっかりとそこを捕まえることが出来た。

「……と仰言いますと、もしかして、そうではなかったと思われるのですか? 紫桃さんの言葉は、真率だったと?」

 自分でも話すべきかどうか悩ましかったらしい坂元は、藍葉の耳聡さが促しとなって、ええ、と、語り始めた。守備陣が撤収する時に、自然なこととして、キャッチャーとピッチャーがさっさと出会す訳じゃないですか。褒めあったり、早速反省会をしたりだとかで。で、その時に彼女が、今長君にチョップをくれたんですよね。

「チョップ?」

 はい。いや、冗談のような軽さのものでしたけど、でも、とにかく今長君を軽く𠮟ったと言うか、注意したらしいんですよね。あんな素晴らしい球を投げていた彼を腐さねばならないなんて、……確かに、もしかして、本当にサインミスが有ったのかもなって。

 ――事実今、藍葉の見守る先で、眉を寄せた紫桃は、まず今長の顱頂を一発叩いて、というよりは手荒く触って、一言何か喰らわせてから、漸く相好を崩し、彼を労いつつベンチへ戻って行ったのだった。本当に坂元の言う通りだったんだろうかね、と茶畑へ訊ねかけた彼であったが、彼女とこの情報を共有していたのか自信が無く、マスクの間からコーラを一口飲むのに留めている。

 やたらぺちゃくちゃと喋る捕手、それが、守備プレイヤーとしての紫桃の特徴だった。坂元のように付き合ってしまえば話術に捉えられ、無視すれば無視したで、やはり気を惑わせてくるこの難敵を、この先、セリーグの打者は苦々しく思うことになるのである。

「鈴樹君ってさぁ、ウチの石多君が、最近フォークボール覚えたの知ってた? ……あ、御免、私の勘違いだったかも。試しに、フォークのサイン出してみよっか?」

「山多君って、ホームラン打つのに細いよねー。良くそんな躰で、……ん? いや、確かに今のところ私の方が本数多いけど、こっちの方が公称値でBMI出したら全然大きいし、……て、淑女に何言わせんのさ!」

「大嶋さんも、子持ちで入団したんですよね? ……ええ、はい、私も四歳にもなる倅がいまして。……ああ、いえいえ。ところで、三月に結婚して六月に出産だったらしいですけど、親族の反応ってどんな感じでした?」

「Mr.Biciedo, could I please ask you, do you remember Mr.Komoto? …No? He is the former "No.66 guy" in your team. Doesn't your general manager say anything concerning the number conversion, or number deprivation? Which is correct?」

 丹菊が、「彼奴、外国人選手にちょっかい出す為に色々語学勉強してるんじゃないかと、本気で私は思ってるよ。本当、性格悪いよね。まぁ、味方としては頼もしいんだけどさ。」と評する紫桃は、この先、投手の防禦率を1.5程度良化させる、おぞましい捕手として恐れられることになる。しかし本当に恐ろしいのは、坂元へのビーンボール宣言に代表される、悪辣や卑怯と評されるようなリード(?)でしっかり抑えた上で、次の試合開始時にはけろりとした顔で「今日は!」と話しかけてきたりする図太さと、被害者側の打者がつい受け入れてしまう、愛嬌や人心掌握術なのかもしれない。

 そう思う藍葉であったが、しかし、かつての自分だけはよくもまぁあれだけ嫌われたものだ……

 攻守交代しての一回裏、今年初の本拠地攻撃、まず揚々とDJから送り出された荒浪は、敢え無くショートフライに終わり、二番打者の丹菊が飛び出してくる。その侏儒の如き背丈と、一双のバットを抱えている姿が、巨人バッテリーから奇異の目で見られるのを意に介さぬような素振りで、左打席へ向かい、「お願いしまーす!」の形に口を動かした。広島三連戦も通じ、一打席で十球程度は平気で投げさせようとする難物であることが知られたこの丹菊へ、捕手浴林さこばやしが、今年初登板のパレダを護るべく、穿った球を要求する。こんな奴に真面目な初球を投げることはない、適当に、内角気味の、大して力を籠めぬ直球で良い。

 そんな苦慮を嘲笑うかのように、投手が腕を振り様、丹菊はバットを寝かせた。泡を喰う内野陣へ、深く突き刺すようなドラッグバント。オープン戦を通じて、守備難を詰られていたギャレッタが勢い飛び出して捕球してしまい、空っぽの一塁ベースを丹菊が得意げに駈け抜ける。

 背丈を埋め合わせるかのように、頭のずっと上で両手を打ち鳴らす彼女は、到達した一塁側に自軍のファンが多いと言う情況を初めて体感したこともあって、得意げな笑顔を観客席へ向けていた。

 続く、三番三合が打席に入る。過去三試合で、既に三盗塁を記録していた丹菊は、一塁上からバッテリーに重圧をかけ、チームキャプテンに危なげなく四球を選ばせた。

 ヒュウ、と口笛を吹いた茶畑は、藍葉へ、

「やっぱり、後ろに相棒が控えていると、デイジーちゃんもわざわざ盗塁する気にならないのかな?」

「……ああ。そういうのも、有るかもね。二死かどうかで、丹菊の、過去――というかなんというか――のシーズンの統計を取れば、実際にそういう傾向が有るか判断出来るかも。」

「んー、暇ならやっとく。」

 期待薄だな、と思う藍葉がオーロラヴィジョンを見やると、再びそこに、Vサインを差し向けてくる女の胸像が映し出されていた。

「GO! シオン!」

 しっかりと職務を果たし、殷々と、狂躁的に次打者を送り出す球場DJとは対照的に、応援団は恐らく、四番と言われても、こんな奴へは歌詞も用意していなかったぞと戸惑ったろうが、とにかくこの場はチャンステーマを歌唱すればよいのだと言わんばかりに、ヤケクソな青い熱気を外野スタンドから立ち籠めさせている。

 そんな騒がしい彼らの一方で、当の紫桃は、静々と打席へ向かった。真っすぐ右打席へ入り、す、とバットを持ち上げるのみの彼女は、守備時の多弁さが嘘であったかのように、ただ、軽く開いた口を動かさない。あの煩わしいほどの社交性も、きちんと畳んでベンチに置いてきたかのように、些か眉を寄せつつ、ただじっと、マウンドの方を矯めていた。張り詰められた全身から凛々しく伸ばされた、微動だにせぬ黒塗りのバットが、近くの観客すらをも戦かさんとする威容を放っている。

 球場に居ては聞こえないが、確か中継では解説者から述べられる筈の、「ガチガチに気負ってますねえ。いきなりこんな試合の四番だなんて、可哀想に。ラミーロ監督が何を考えていたのかは知りませんが、あんな状態では打てる球も打てませんよ、」という言葉を、藍葉は今一度嚙み締めた。確かに、打席へ立つ紫桃の肉体は、神主気味の構えにも拘らず緊張の極致であり、自分もプロ並の打撃技術を得てから眺めると、まともな動きが出来るようにはとても見えない。

 プロの野手として、同じくこんな視点を得た筈の浴林は、坂元がを喰らったことも蹈まえてか、左腕パレダへ少々危殆な要求を送ったらしかった。内角から、更に打者へ襲いかかる勢いのスライダー。

 概ねミットの位置へ投げ込まれつつある、その球へ、不動を破って足を上げていた紫桃の、バットが振り下ろされた。衝突。快音。飛翔。左翼方向へ鋭く伸びていく打球を、一塁へ走り始めた彼女が目で追っている。

 懸命に追う外野手の努力を無下にする、今年度横浜スタジアム第一号が、フェンス上端を搔くかのように突き刺さった。

 望むべくも無かった本塁打に、狂ったように沸き立つスタジアム。翼のように堂々と両腕を広げ、交睫こうしょうしつつ天を仰ぎながら、つまり陶然と、二三塁間を巡った紫桃は、その後悄然と佇む浴林の脇を抜けて本塁を踏み、先立った生還者らに歓迎された。園児と戯れる保母のように、腰を屈めて丹菊と両手を結んでくるくる回りつつ、三合から背や肩を叩かれる。ベンチに戻れば、蜂の巣を叩いたような祝福……

 

 こんな紫桃は、二打席目でも、初球からツーランを左翼スタンド浅めへ放り込み、続く、走者一塁(丹菊)で迎えた第三打席でも、やはり一球目を振り抜き、あわや三連発と思われた一撃を、レフトフェンス上方へ叩きつけたのだった。

 そうして到達した二塁で伸びをしていた彼女の元へ、ボールボーイが駈け寄ってから光景は、――主に横浜側の――笑いを少し誘った。何故彼がやって来たのか理解出来なかったらしい彼女は、少し首を傾げた後、漸く気が付いて、焦るように空の両手をぶんぶん振り、それから脳巓を両手で押さえて見せたのである。預けるものは何も無いよ、ヘルメットはあげないよ!、と伝えられたらしいボールボーイは、足許に視線をやって、確かに手袋は愚かレガースも紫桃は使っていなかったのだと漸く諒解し、気恥ずかしそうにベンチ脇へと駈け足で戻って来た。

「素手でホームラン狙ってて、良く手が痛くならないなぁ。」と、藍葉。

「超一流のバッターは、手に肉刺まめが出来ないって聞くけど?」

「それはそうなのかも知れないけど、レガースの方、つまり、自打球は怖くないのかな。」

「自打球と言うか、そもそも紫桃って、ファールボール打ったこと有るの?」

 この茶畑からの問い掛けに、藍葉は少し考えてから、

「そういえば、見たこと無いかも。……無茶苦茶な打者だな。」

「紫桃のアレに、関係あるのかな?」

 『アレ』ってなんだ、と思った藍葉が彼女の方を見やると、茶畑の口の形が「異能」と動いていた。

「ああ、……良くないな。素直に野球の技術だけ考えちゃってた。」

「藍葉君、ちょっと行きすぎてる?」

「かも。……これからも時々君に、冷や水を潜らせてもらった方が良いかもね。」

 結局、紫桃が何者なのかは未だによく分かっていないのだよな、と、藍葉はこれまでを振り返った。黒瀬は、世界に法則を追加するような奴で、’16年シーズン中は、彼の登板した試合が負けにならぬように、森羅万象が従ってしまう。水が低くに流れるが如き、一種の自然法則が働いて、彼を助けるエラーや好打が生まれてしまうのだ。丹菊は、「異能」という言葉が憚られる程に単純で、只管に筋力が著しいと言うだけである。しかし、紫桃は、なんなのだろう。異常な打撃力を持っている、それだけは、確かなのだが……

 試合の方は、ルーキーの躍進、或いは跋扈を受けて横浜打線が発奮し、更には余裕の無くなった巨人の拙守や与四球にも助けられ、紫桃は、そうして満塁で迎えた第四打席にて、ストレートのフォアボールを選んでみせた。その荒れた4球が投ぜられる間、打席で、銅像の如く微塵も動かなかった彼女の不気味さは、守備側を悚然とさせたようである。しかも攻守が換われば、またあの、ひっくり返ったような馴れ馴れしさだ。「ゲッツーなー、ゲッツー取りたいんだよなー。今長君がピンチなんだよなー。……そういえば叢田さんって、正直併殺多い系ですよね。今だと、どこ投げたら引っ掛けてくれます? 内角? 外角? それとも、コース関係なく沈む変化球?」

 そうして既に七打点を挙げ、ソロ三発喰らって三失点の今長を攻撃でも助けるかの如くだった紫桃の、第五打席は、またも満塁下だった。巨人の内野陣や投手コーチがマウンドへ集まって、長々待たせてくるのも構わずに、彼女は尚も打席でただ構え続けている。

 周囲の座席の者がこの異様へ目を奪われる内に、藍葉は一つ、ちょっとしたことを思いついた。後に語り草となる実況台詞を、試合を生で観ながらも堪能しようと企んだのである。彼の五次元ライブラリから、過去の生涯における、本試合のテレヴィ中継音声を引っ張り出して来、スマートフォンと連係させた。右耳だけに付けたワイヤレスイヤフォンから、音声が聞こえてくる。

「彼女、本当に、良くあんなじっとしていられますねぇ。」と、解説の大洋OBが述べたところで、漸く守備陣は散開した。捕手浴林は、構えたままの紫桃に気付いてぎょっとしたようであったが、彼女はにこりともしないで、マウンドなり虚空なりをそのまま睨み続けている。

 プレイの掛かった後、今日当たりに当っている打者相手ではあるが、流石に何度も押し出しを演ずる訳にも行かないという情況の巨人バッテリーは、何か好転を祈るかのように、高めの直球、釣り球を初球に選んだ。

 投球後。前打席で四球を選ぶ間も、そして今の待機中も、石化したように動かなかった紫桃が、断頭台の刃のような威を放ちつつ、左足を上げる。首の高さの糞ボールへ、躍りかからんとする漆黒のバット。その無謀を嘲笑うかのような、一瞬の守備陣の安堵。しかし、それも虚しく、白球は打ち抜かれた。快音。

 実況が、藍葉の右耳で叫ぶ。

「これ以上の、名刺は無い!」

 夜空を翔りて行く打球に魅せられた、大歓声に負けぬよう、藍葉は音量を上げた。

「初めまして! 私の名前は紫桃枝音、 ……’16年の、」

 レフトスタンド手前側で撥ねる打球へ、絶叫でオノマトペを添えるかのように、

「ハマの四番!!」

 またも両腕を広げ、幸福そうに目を細めて塁を回って行く彼女へ、

「11打点! 三発! こんなルーキーがこれまで居たものか! こんな初出場がこれまでに有ったものか! 今、紫桃がホームを踏みます。……見よ、セリーグよ、世界よ、これが今年の、横浜の四番だ!」

 狂躁の内野席の中、二人だけは冷静で、茶畑が相棒へ皮肉を喰らわせる。

「藍葉君の、打点数と本塁打数って、生涯成績で幾つだっけ?」

 彼はつい、吹き出してから、

「……ああ。確か、10点と0本だね。そっか、この一試合で超えられたのか。」

「生涯とは言わねども、去年のシーズン記録を既に超えられた捕手は、横浜に結構居るんじゃない?」

「うん、……大丈夫なのは、峯井くらいかな。残りはやられてそう。」

 三発目で早くも勝手を知ったらしい紫桃は、ベンチ奥へ入る前に自分を抜くカメラを見つけ、例の、捻られたVサインを莞然と見せつけたのだった。

 そうして、14―4で快勝した横浜は、まず、監督インタヴューを執り行った。就任初勝利を得たラミーロであったが、二つほど質問に答えると、早々に、

 ――私のことは良いでしょう。皆さん、お待ちかねの筈ですから。

という言葉を訳させてお立ち台を辞し、主役らを促した。勃然たる大歓声。

 グラウンド上の夜闇の中、その二箇所だけがライトアップされた、ディアーナ――横浜球団チアリーディングチーム――が立ち並んで作る道と、お立ち台。「男女二人だと、ヴァージンロードみたいじゃない?」と茶畑が差し込んでくるのに、藍葉が笑ってしまう間に、ベンチから飛び出してきた本日のヒーロー、紫桃と今長がステージへ到達した。自然な緊張を示す今長と対蹠的に、紫桃は既に悠然と、右手を振って歓呼に応えている。

「さあ、まずは紫桃選手にお聞きしますが、……三本塁打、そして、一試合11打点という日本タイ記録! あまりに鮮烈なデビューとなりましたが、今のお気持ちはいかがですか?」

「あ、そうなんですか、記録なんですか?」と、まず口走ってから、「そうですね、特に過去との比較に興味は無いですけど、敢えて言うなれば、打点と言うものは個人でなく、打線の功績だと思っています。毎打席、走者として出てくれていた上位陣、特に、毎回出塁だった詠哩子には、共にチームの勝利へ貢献出来たと言う意味で、感謝したいと思います。

 私自身に関しては、まず、恥ずかしい所を見せずに済んでほっとしました。とはいえ巨人さんも、私のことは全く研究・警戒していなかった筈ですから、ある程度打てるのは当たり前の、自慢にもならない話でして、この先マークされてからもきちんと勝利に貢献出来るのか、そこが、大事だと思っています。」

 インタヴュワーは、苦笑してから、

「今、『ある程度』とは仰言いましたが、余りにも素晴らしい成績です! どのようなお気持ちで、打席には入られていましたか?」

「ええっと、私、打席に入ると頭真っ白になるんですけど、少なくとも前もっての気概としては、今長君を助けねば、ということでした。

 いえ、試合前、今長君に『この試合で何が欲しい? 防禦率か、三振か、勝ち星か、』と訊ねましたら、『勝ちたい!』と言ってましたので、まぁ多少掩護点を入れてあげないと捕手として恥ずかしいな、ピッチャーを支えてやれていないな、という気持ちが有りました。そこで、ベンチに戻る度に『これで三点! こんだけ有れば足りる?』みたいなことを毎回聞いていたら、六点目くらいからもう今長君が笑ってくれたので、上手くリラックスさせてあげられたかなぁ、とは自負しています。……まぁ、結局、三点じゃ足りなかったですけど。」

 記録や成績への無関心。この程度は当然と言う、謙遜を装った傲慢。独特な捕手観。そして、今長を肘打つような諧謔。恐らく何か、大物っぽく映ろうと衒っているのではなく、自然とこのようなことを述べたらしかった紫桃は、最後には、横浜ヒーローインタヴュー締めくくりでの決まり文句、「We love Yokohama!」を無駄に発音良く叫んだことも含んで、野球ファンの話題を一挙に席捲した。


 そんな彼女は、翌日の五打席でも、本塁打、本塁打、四球、外野フライ、本塁打という成績を叩き出し、「デビュー戦でフルスイングしていたら、交通事故を三回起こした、スーパーハイパーウルトララッキーガール」という、縋るようであった一部の下馬評をあっさりと覆した。その翌日の試合、対巨人三連戦の最後では、「舐められたままで横浜から帰ってくるな!」という司令でも下っていたのか、巨人のいずれの投手も、歩かせるものかと果敢に紫桃へ挑戦してきたのだが、その結果彼女は、本塁打、ストレートの四球、本塁打、本塁打と、第四打席までやはり大当たりとなったのである。そうして迎えた、実況が「三試合連続スリーホーマー、いえ、そもそも、三試合連続マルチ本塁打すら史上初です!」と呻いている中の第五打席、力なく浮いた初球を、再び紫桃が、レフトスタンドへ運び込んだ。飛距離自体は相変わらずの、入るかどうか不安になるスレスレではあったが、この、本日四本目の本塁打により、彼女は、五打数連続ホームランという新記録も打ち立てたのである。しかも特筆すべきは、この三試合の間、彼女は一つもストライクを取られなかった。ファーストストライク、或いはもっと酷い場合では、そもそもボール球すらをも、左翼観客席方向へ力強く運んだのである。

 三試合、10本塁打。

 続く四月一日からの、横浜スタジアム三連戦を迎えることになった阪神球団は、この難敵の打球が、フライアウトも含めて全てレフト、引っ張り方向へ伸びているという事実に頼り、右翼を完全に無防備とする、超左寄りシフトで対抗した。結果、三試合で見事三回ほど、左中間を破るべき当たりをフライとして仕留めたのだが、残りの十打席は、半分ずつ、四球5つの、五本塁打と滅多打ちにされた始末である。その中のとある打席においては、低めの直球を紫桃が見逃して、とうとうストライクが入ったのだが、この際レフトスタンド隅の阪神側によって為された拍手に、何か切実な響きが聞こえたと言うのが、後から広まった評判だった。よくある御挨拶の、声援代わりの拍手ではなく、よくぞストライクだけでも取ってくれたと言う、本気の称賛……

 そうして六連勝の立役者となった紫桃は、阪神三連戦の最終戦、ヒーローインタヴューでこんなことを述べた。

「そう、ですね。明日からの名古屋は、私、帯同しませんので、三合君のリーダシップの下で、皆に頑張ってきて頂きたいと思っています。」

 これにぎょっとした横浜ファン(そして、対戦相手となる中日のファン)の少なからずが、球団公式の声明や、紫桃のTwitterアカウント「しとうだゾ(一軍!)」を覗きに行った。しかし、前者は梨の礫で、後者は、相変わらずの暢気な内容である。

「ホームラン10本打ってたし三月の月間MVP間違いないだろ!家計が潤うぜ!と、旦那と喜んでいたら、三月成績は四月分の参考にしかならないらしくて悲しいゾ」

「六試合ぽっちで、賞とか賞金出せないだろ」と丹菊。

「来年はいっぱいお金もらえると信じてるけど、今年はひもじいぜ」

「確かに(推定)年俸安くて可哀想と思ってたけど、今年もどうせ、実質1430万円までは増えるでしょ」

「なんぞそれ」

「あんた何見てサインしたの?」

「契約書の中身とか、ああいうのって、生命保険の約款みたいなものだと思ってたゾ……」

「第89条の2(NPB協約へのリンクを、丹菊が付した)」

「読んだけど、よくわからんゾ」

「なんで??」

「数字や計算は苦手で……」

「(こいつ、記録や成績に興味が無いんじゃなくて、そもそも数値が読めないのでは?)」

「ホームランいっぱい打てば勝てる、ってことは知ってるゾ」

「今年の横浜のキャッチャー、大味過ぎる」

 

 結局、四月五日の対中日初戦では、今長が七回一失点と好投するも、横浜打線が一点も取れずに敗北した。

 ああ、いつもの世界通りとは言え、気の毒に、と、――紫桃と違って普通に一軍帯同が許されなかった――藍葉が自宅で思っていると、彼のスマートフォンが鳴動した。画面を見ると、ぎょっとすることに、紫桃からメッセージが届いている。確かにキャンプ中、念の為にと聯絡先の交換はしていたが……

「藍葉君、ちょっと相談なんだぜ」

 彼が返事を打つ前に、紫桃から更に二丁畳みかけられた。

「いま私が、『私の今長君がーー!!!』みたいなこと、Twitterでつぶやいたらまずいかな???」

「そこへ詠哩子が『誰のでもねえよ。誰かのだとしたら親か監督のだよ』とか送ってきて、さらに私が『今長君をいただくためには下克上しかないのか。今までお世話になりましたラミーロ監督……』って返そうかなって、いまさっき思いついたんだけどー」

 藍葉は、素直に、

「確かにちょっと面白いけど、まずいんじゃないの? 紫桃さんがナゴヤドームへ帯同していない理由がまだ発表されていないから、『お前が名古屋に来て今長を助けろよ!』って、特に球団外から怒られそう。今日、試合負けてるしね」

「やっぱそうかー。うーん、残念」

 紫桃が東京に残っている理由を知っている藍葉は、そこではない疑問へ取りついた。

「紫桃さんって、Twitterの更新前に、毎度こんなことしてるの?」

「いつもは詠哩子と相談するんだけど、今試合直後で忙しいだろうから、代わりに適当な誰か、……まぁ、一軍戦に行っていない中では藍葉君が頼もしいかなと」

「ああゴメン。聞きたかったのは、そこではなくてさ。つまり、紫桃さんはいつも、どうやってTwitter上でやりとりをするのか、台本書きみたいなことを事前に丹菊さんと?」

「あ、それはまぁ、当然だぜ。いや、あんな漫才みたいにキレイに行ってるの、アドリブで毎度できるわけないじゃん? 話題とか知名度を得る為の、私達の涙ぐましい工夫だゾ」

 Twitter上での奇妙な語尾をわざわざ演じてくれた紫桃に、少し笑ってから、

「じゃあ、あの扇風機事件も?」

「あ、……まぁ、届いてからは、漫才だったよ。でも、こっそり詠哩子達の企画で扇風機がウチへ送りつけられたまでは、マジ。あいつら許さんゾ」

 直後に、「(ちなみに私が1430万円の話を理解していなかったのも、ネタの打ち合わせするまではマジだった。今は、振り込みが楽しみでホクホクしてる)」と追伸が来たが、藍葉は、そっちは無視しつつ、

「それは、……ずいぶん、紫桃さんの古巣は仲が良かったんだね、というかなんというか、」

「良い奴らだよ。そう言えば最近会えてないけど、あいつら元気に軟式やってるのかしら」

「町田シャイナーズ、だっけ」

「そうそう。まぁ、いわゆる草野球みたいなものだし、しかも、あんま強豪とかじゃないけどねー。リーグ内の、千葉のチームとの力量差がヤバ過ぎる。ウチも、由緒はちゃんと有るけどさ」

 そういえば、と藍葉は思った。紫桃と丹菊を輩出した、町田シャイナーズについて、自分はあまり知らないままでいる。以前インターネットで検索したことは有ったが、あまり更新の情熱を感ぜられないホームページが見つかったばかりで、大した情報が得られなかったのだ。今度、直接取材に赴いてみようかな。大体毎週日曜日が、活動日だったっけ……

 そんなことに気を取られながらも、とにかく、チャットを打つ彼は感動していた。あれだけ目の敵にされていた紫桃と、こんな尋常に――いや、裏事情を教えてすらくれたのだから、最早普通以上に、親密な遣り取りが出来ている。苦労して、横浜に入団した甲斐が有ったと言うものだ。あとは、自分も一軍に定着出来れば文句無いのだが……

 流れのついでに、このまま、丹菊の病気についても紫桃へ訊ねてみようかと、一瞬思った彼であったが、そこについては結局差し控えた。それは、紫桃ではなく、丹菊へ訊かねばならない話だ、と。しかし、このまま旨いこと紫桃に近づければ、彼女の盟友である丹菊と打ち解ける助けにもなるだろうな、と、藍葉はそこはかとなく期待した。

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