キャンプもたけなわの二月二十日、オープン戦が始まった。紫桃や藍葉は、仲良く、共に開幕一軍当落線上の捕手であったが、どちらかと言えば紫桃が落ちる寄りで藍葉が残れる寄りと、微妙に立ち位置は異なっている。

 那覇市営奥武山おうのやま野球場で行われた緒戦にて、巨人相手に先発した藍葉は、一安打一四球の打撃成績を残しつつ、守備の方も七回まで無難にこなすことが出来た。初っ端から無理をさせまいという配慮と、まとめて試用したいという都合から、八回からは紫桃がマスクを被ることになっている。

 硬球に慣れることを優先させられていた――ことに少なくともなっている――紫桃は、紅白戦すら出場機会が無く、つまりこれが、紫桃枝音の初の実戦お披露目であり、沖縄までわざわざやって来た報道陣も含めて皆興味津々だったのだが、しかし、その内容は無残なものだった。幾ら硬球での実戦が初めてとは言え、一死を取る間に三捕逸はちょっと多すぎる。

 不慣れと言う事情は理解出来るが、しかし、報道カメラの前でこれはちょっとなぁ、という空気がベンチに瀰漫びまんしかけた頃、紫桃が、突然球審にタイムを願った。勝手に戻ってきた彼女がマスクを外すと、苦しげに眉の寄った顔が蒼白となっている。

「済みません、なんかちょっと、ヤバいです。」

 本能的に額へ手をやった若いトレーナーは、その熱さに戦きつつ、すぐさま、安静にさせることをラミーロ監督へ上申した。通訳された彼は、迷わずに紫桃を降板させ、藍葉の再登板の許可を球審に求めようとする。

 オープン戦故の寛大な規則と雰囲気により、これが敵将の鷹橋たかはし監督にも認められたので、完全にもう見学気分で油断していた藍葉は、急遽せっせと防具を付け始めることとなった。

 そうしながら彼が盗み見ると、ベンチ内の注目を集める彼女がトレーナーに訊問されている。熱は有りそうだが、他の自覚症状は? 気分は? 不調はいつから?

「貰った、鎮痛剤飲んだんですけど、全然頭痛いままで、あと、吐き気も」

 最後の言葉が言霊になったかのごとく、彼女が突然口を手で押さえた。トレーナーの、見てくれるなという仕草によって、皆が所在なしにグラウンドの方を見やる。

 遠くからでも分かる程度に、そわそわと落ち着いていない右翼の丹菊は、さっさと駈け寄ってこなかったのを後悔しているようだった。

 

 三日後、紫桃のTwitterアカウント、「しとうだゾ」が更新された。

「紫桃枝音の義姉です。彼女は髄膜炎の診断を受けて入院しておりますが、ひとまず峠を越えましたことを、代わって皆様にご報告いたします」

 間抜けたアカウント名や、「ぷろやきゅうせんしゅ(宜野湾なう)」というプロフィールが浮き足立っている。

 あの後すぐに救急車へ叩き込まれていた紫桃の診断名を、試合後に聞かされたチームは、ちょっとした大騒ぎとなった。全員がひとまず検温された後に、落ち着かない通達がなされる。首が張っているもの、頭痛が有るものは申し出ろ、感染力が強いものではないが、下手すると命に関わる……。一緒の部屋で寝起きしていただけの丹菊は、何も自覚症状が無いのにも拘らず、脊髄に針を刺すという野蛮な検査を体験させられて恨み節を吐いていた。折角デビュー戦で四打席三出塁したのに、こんな仕打ちだなんて、

 先のTwitter代筆が行われるのに三日掛かったのは、まぁ此処まで恢復すれば死にはしないだろう、という医者の意見が漸く得られたことを背景にしており、殆ど同時に球団からの公式発表も行われていた。逆に言えば、紫桃は危うく命を落とすところだったのである。無論、これまで藍葉の繰り返したでは、毎度彼女は細菌性脳脊髄膜炎から復活していたのだったが、自分と言うチームメイトが注入された摂動が何か致命的な変化をもたらしはしないかと、彼は些か不安に思っていたので、ここに来て漸く安心出来たのだった。

 そこから更に数日後には、Vサインを作る、病床の紫桃の写真が投稿された。尼顔あまがおを憚ったのか、空いている左手で顔の下半分を隠している紫桃は、目許だけでも窶れているように見え、病院着の与える度が過ぎる清潔感により、いつもの元気が嘘のような儚い印象を与えている。

「死ぬかと思ったゾ」

「生きていたか」

「暇でさみしいゾ」

「私らはおみまいが禁止されているからすまんな。横浜で会おう」

「心配してくれる詠哩子ちゃん好き……」

「いつもみたいに『死ね』って送りそうになった、洒落にならん。調子狂うから早く治って」

「治したいけど、頭痛くて吐きそうで死にそうだゾ」

「寝てろや」

「ぶっきらぼうを装って気を使ってくれる詠哩子ちゃん、やっぱ好き……」

「死ね」

 そこから三日後に投稿された写真は、英語ではない何かラテン系の文章の書かれた本の見開きが、大写しになったものだった。狙ったのかどうか微妙なものとして、イヤフォンの刺さったスマートフォンが、写真フレイムに掛かるように写り込んでいる。

「暇過ぎるから、スペイン語勉強してるゾ」

「野球の勉強じゃなくて?」

「キャプテンに触発されたぜ」

「見上げるわ。ますますメジャー行っても大丈夫になるじゃん」

「アメリカは怖いから行かないゾ」

「何でそんな戦前の価値観で、英語勉強したんだこいつ」

「教養だゾ。詠哩子もなんかやろ」

「野球が忙しくてそんな暇ないです」

「でも三合君はやってるゾ」

「人を引き合いに出してのマウント止めて下さい」

「マウントってなんだぜ?」

「英語できるでしょ」

「辞書ひいたら、『交尾の為に雄が雌を押し倒す』って出てきたゾ」

「一番変な意味を選んで拾うな」

「エッチ……」

「死ね」

 そして三月も半ばを過ぎた頃には、やはりVサインを作った、紫桃の全身写真が投稿された。すっかり元気そうな笑顔で、病院の駐車場と思しき場所に佇んでいる。

「退院! ……横浜のみんな、誰も居ないゾ!」

「生きていたか(とっくに関東なう)」

「娑婆、それも沖縄の空気は最高だぜ」

「そっちで少しくらい、骨休ませたり?」

「旦那と倅が心配なので、すぐに帰るゾ」

「心配されるのはあんたの方や」

「そしてばりばりオープン戦頑張るゾ!」

「いや、アタシが決めることじゃないけど、一ヶ月も寝ていた人間なんか、多分試合出さないよ」

「野球をさせろ、野球!野球! アアアアアアアア」

「こわ。大人しく軽い運動あたりから始めて」

「ウイッス。ところで、旅行ついでの見舞いにきてくれた美香から聞いたんじゃが」

「何を?」

「扇風機の首謀者、詠哩子だったって!?」

「いまさら気付いたか」

「今更って、どこにもヒントもなかったゾ」

「あれ組み立てると、パーツの裏に、丹菊詠哩子あての領収書が入っていたはずだけど」

「え? ……紫桃家宛で通販したとかじゃなくて、わざわざ買ってきた扇風機をいったん持って帰ってきて、梱包ほどいて、紙切れ仕込んで包み直して、それから発送して来たの? 何その熱意?」

「みんな、枝音のこと大好きだからね」

「大好きなら、すぐに役立つもの送ってきて欲しいゾ」

「応援エールは役立つでしょ。プロになっても元気に振り回して下さい♥️」

「💢」

 

 以上のような遣り取りは、「仲よすぎだろこいつらwww」「じゃれあいがアスリートのそれではない」「横浜公式百合」「インスタグラムではなくTwitterが似合う選手ベストナイン捕手部門と外野手部門。投手はもちろんダル」「球団に怒られんのかこれ」「ラミちゃんが日本語分からんから好き勝手できている説」「中濱だったらシメられてそう」などと反響を呼び、紫桃のアカウントのフォロワー数は桁が四つ増えていた。

 そんな妙な人気ばかり高まる紫桃であったが、丹菊の方はしっかり野球屋としての名声も得始めていた。オープン戦で脅威の出塁率.630を叩き出し、捕球や肩でも何度か魅せた彼女は、柁谷の故障も有り、殆ど正右翼手の座を獲得していたのだ。リーチの短さを補わんと、ひょいと飛蝗のように横っ飛んでフライを拾い上げる彼女は、そんな守備の華やかさも相俟って、野球ファンの心を良く摑んだのである。

 一方で藍葉も、なんとかそれなりの結果を残し、控え捕手としてではあるが開幕一軍が通達されていた。

「やったじゃん」と、チャットルームの茶畑。

「とりあえずは、なんとか。後は、紫桃がいつ一軍に来るか」

「どうせ、すぐでしょ。万一そうでなくとも、デイジー姫とは仲よくできて、何かしら情報もらえるだろうしね」

「まぁね。ところで、調べてもらえた?」

「何を?」

「丹菊の病気のこと」

 たっぷり、藍葉が数分待たされてから、

「まぁ、正直忘れてた。」

 待たされている間に調達していた、すっ転ぶ狸のイラストを、藍葉が送り付けると、

「もう、藍葉君から聞いちゃえば?病気のこと」

 この言葉で混乱させられた彼は、思ったままに、

「どういうこと?」

「だって、今とかこの先とか、ピーチ姫がデイジーと一緒にいられない日が多くなるんだし、代打と言うか、もう一人デイジーのことを気遣えるチームメイトがいた方が、あの女も助かりそうじゃん」

「なるほど、……まぁ、一応、できそうならそうしてみる。よっぽど信頼してもらえないと、そんなセンシティブな話は無理だろうけどね」

「じゃあ、藍葉君にはバシバシ打ってもらわないと!」

 藍葉は、少し茶畑の言葉の意味を考えてから、

「……ここでいう『信頼』って、試合で頼れるとか、そういう意味なのかな。まぁ、野球も頑張るんだけどさ」

 

 そうして迎えた、対広島、マツダスタジアムでの開幕戦では、途中出場の藍葉も、回ってきた一打席でしっかりヒットを放って、それなりのアピールに成功する。一応何度も一軍の試合に出場してきた藍葉は、今更深い感慨に襲われることは無かったが、しかし、開幕から結果を残せたことについては気分良く感じていた。

 そんな彼よりもずっと注目を集めたのは、やはり、丹菊だった。二番右翼で先発出場した彼女は、初回の攻撃にその名がコールされただけで、外野スタンドの左端に押し寄せられた青い波立ちを、スタンドを埋め尽す赤を押し返さんと言うほどに沸かせてみせる。三振に倒れた一番打者荒浪あらなみに代わって、ネクストバッターボックスを発った丹菊は、特に素振りやストレッチをするでもなく、素直に左打席へ向かっていった。恐らくは、紫桃のように何かこだわりが有る訳ではなく、事情によって大人しくならざるを得ないようである。つまり、彼女は、二本のバットを携えて打席に向かうのだった。

 それぞれ白木な、まともなバットと、一メートル弱の超長バット。後者を、バッターボックスの縦辺に沿わせるが如く叮嚀に置き、残りの尋常な一本を、「お願いしまーす!」と叫んでから構えてみせる。

 クローズドスタンスで、投手から「Tangiku 09」という背表示が半ば見えるような構え。そうしてやたら前へ出されている右足はともかく、他は普通の姿勢の筈なのだが、それでも、140センチに満たない背丈のせいでストライクゾーンの狭さが著しい。「野球は楽しまねば」という紫桃の信念に共感していると語る丹菊は、いつも、打席でそう構えつつ、不敵ににやつくのだった。

 広島の開幕バッテリー、ジョンサンと石原田は、無走者一死で怖じてもいられるか、とばかりに、直球二つでぽんぽんとストライクを取ってくる。外角に決まったそれらに対し、丹菊は、目で追うだけで身動みじろぎもしないのだが、二球目の後には、ちょっとたんまとでも言いたげに左の掌を投手へ向け、もう一本の長過ぎるバットに持ち替えた。

 その後彼女は、オープン戦を通じて既に悪名高かった、ピッチャーへ相対するが如くの、極端なオープンスタンスに構え直す。ツーストライクからバットと構えを変更して、露骨に「追いつめられたから、全部カットして歩くわ」という態度を見せるのが、この、NPB史上初めて打席に立った、女打者のスタイルだった。常人よりもずっと豊かな手首の筋力を、打球を飛ばすことではなく、土壇場のバットコントロールに活かそうという、拗けた姿勢である。

 大いに挑発の狙いも含まれているのであろう、こんな丹菊の挙動に当てられたのかどうかは分からないが、とにかくバッテリーは果敢に攻め立てた。直球が弾かれてファール、直球が弾かれてファール、カーヴを見送られてボール、カットボールを弾かれてファール、高目の直球を見送られてボール、スライダー弾かれてファール、直球が弾かれてファール、チェンジアップを見送られてボール、浮いたチェンジアップ弾かれてファール、……アウトローにすっぽ抜けてボール。

 ツーナッシングから10球投げさせ、欣然と歩いた丹菊は、男と比しても尋常ならざる足を活かし、さっさと盗塁を決めて広島側を苛立たせつつ、四番三合のライト前安打で一気に生還してきた。盗塁時の菊地も、クロスプレーの石原田も、小さ過ぎる体躯へタッチするのに多少難儀した風情である。特に本塁の方は、コリジョンルールが施行されたばかりの不慣れな情況により、ままなっていないようだった。横浜の、というよりはリーグの、今年初得点を上げた彼女は、滑り込んだ本塁から起き上がった後、目を細めて手を叩きながら、騒がしくなったベンチに迎えられる。

 二打席目以降も似たようにとにかく四球を狙って、起点を作ると同時に投手の消耗(と苛立ち)を誘いつつ、守備では、右翼前から、ピアノ線で巻き取っているかのような鋭い返球を本塁へ寄越して補殺を決めるなど、持ち味を存分に見せつけた彼女は、試合後にラミーロ監督から激賞されたのであった。怪我で離脱してしまった柁谷の穴を、埋めてあまり有ると。

 しかし、彼女はそこまで嬉しそうでなかった。

「有り難う御座います、……ですが、明日こそ勝たないとですよね。」

 順当と言うべきか、藍葉らが横浜球団は、昨年六位の勢いのまま開幕戦を落としていた。本来は勝利する筈の日だったのにこうなったのは、琴柱が居ないせいだろうか、と思うと少し恥ずかしくなった藍葉だったが、彼は、敗戦に慣れている様子でない丹菊をベンチ裏通路で見かけると、そのまま捕まえて、

「そんな負け一つに気負っても、しょうがないんじゃないかな。結局、143回もやる試合の一つにしか過ぎないんだし、」

 彼女は、一瞥の後、

「まあね。」

 藍葉が、立ち竦んでしまい、丹菊に置いていかれる。なんだどうした突っ立って、と、急かされて、彼は漸くロッカーへ戻り始めたのだが、その脳裡は、試合後の昂奮を完全に上書きする不穏に満たされていた。

 丹菊の一瞥、身長差の関係で必ず上目遣いになる、普段は他愛もないそれが、先程ばかりは冷たく尖り、藍葉を射貫いていたのだ。彼女の抱いたのであろう、多少複雑であろうが、結局端的に「負け癖野郎」と纏めることが可能であるような、軽蔑の念。言外ながらもそれを真正面から喰らわされた彼は、丹菊を懐柔せねばならないのに、早速失策を犯したことを悟ったのだった。

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