その絶倫なる身体能力を、文句の付けようもなく合同自主トレで披露していた丹菊は、当然に一軍キャンプに招聘されており、恐らくはそんな丹菊とペアで扱っておきたいと言う首脳陣の心積もりも有って、紫桃もひとまず一軍の方へ呼ばれていた。

 そこで、同じく一軍キャンプに参加する藍葉は、現地にて紫桃としょっちゅう顔を会わせることになったのだが、特に接触密度の高くなるポジション別の練習メニューにおいて、彼女は、意外なことに、尋常に藍葉とコミュニケーションを取ってくれるのだった。藍葉さん、……いや、藍葉君で良いですか、同い年だよね? との切り込みから、リード論や打撃論、守備論など、様々なことを質問として持ち掛けてくる彼女の様子に、逆に怪訝なものを感じた藍葉は、時よりつい言葉を詰まらせては、「何?」と、不思議そうな表情で、紫桃から顔を覗き込まれることすら有ったのだ。あの、汚物を見下げるような敵意が、どこにも見られなくなっている。

 二月においても温暖なキャンプ地で、汗にまみれる紫桃は屡〻、拗けた前髪を額へ貼り付けていた。普通ならこんな光景は、暑苦しくなったりむさ苦しくなったりしそうなものだが、凛とした女の顔つきが、そこに泛かんだ疲労の色や頬の紅潮とよく調和して絵になっており、汗に混じる女性的な臭気も、つい、藍葉を心地よく思わせたりしている。

 そんな紫桃は、別に藍葉にだけこだわるのではなく、例えば、同じく捕手である峯井にも話しかけたりしていた。「峯井さん、確か沖縄出身だったよね、やっぱりこの辺詳しかったりする?」のような、他愛もない語り。紫桃の同い年――藍葉、丹菊、三合、国好くによしなど――の中で、この峯井だけ「さん」付けだったので、恐らくは敬意の為の敬称ではないのだろうと、藍葉は想像した。

 つまり、の紫桃は、藍葉のことを特に好くのでも嫌うのでもなく、同ポジションとして普通な扱い、即ち、ライヴァルの一人のような大事な仲間のような煮え切らない微妙な人間、そんな中の一人としてしか扱ってこなかったのである。この変化を、藍葉は解釈出来ないでいた。自分を露骨に嫌ってくるなら今まで通りだし、逆に擦り寄ってくるなら、何か企んでいるのだろうと思われるが、今回のような、中途半端な扱いはなんなのだろう。

 

 そんな落ち着かぬ春季キャンプも半ばに差し掛かった頃、藍葉はアーリーワークに向かう最中、紫桃や丹菊と出会した。自然と同じ室を宛てがわれていると言う彼女らは、ホテルの壁に凭れつつ缶飲料を啜り、睦まじくトレーニングウェア姿で何かを語り合っている。139センチの丹菊が懸命に顔を見上げ、174センチの紫桃がやはり一仕事のように下方を向いているのだが、この様子を見せられた彼は、この様にものを語り合うのすら苦労するだけでなく、アスリートとしておよそ共通点を持たぬであろう程の体格差の二人が、固い友誼を結んでいるのを不思議に感じた。

「あれ、藍葉じゃん。やっほい。」

 そうしなければ相手の目に入りにくいという、経験知が有るのだろう。車道を渡る子供のように、殆ど真っすぐ持ち上げて丹菊は手を振るのであった。

「ああ、二人共おはよう、」

「元気が無いねえ相変わらず、もっと、腹の底から声を出したら?」

 そう絡んで来たのも丹菊の方で、まだ、笑むだけで黙っている紫桃は、遙かに社交性が高いのは自分の方である筈なのに、親友の方へ発言権を譲る傾向が有った。

 果たして、三人並んで歩き始めた時、最初に口を開いたのも丹菊で、

「藍葉って、最近何やらされてんの? 例えば、昨日のメニューとか、」

「何って、そっちの紫桃さんと同じだけど、」

「……ああ、そっか。藍葉あんたもキャッチャーだったっけ。」

 藍葉より多少低い程度の背丈を持つ紫桃は、彼と共に丹菊を挟むことで、まるで娘を連れた夫婦のような絵面を作っていたが、その彼女が笑いつつ、

「御挨拶だよねぇ、全く。いや、贔屓だった筈のプロ球団の、一軍先輩捕手を捕まえて、見憶え無かっただなんてさ。」

 この率直な指摘を受けても、丹菊は言い訳もせずに平然としているので、代わりに藍葉が少し顔を顰めた。

「まぁ、二軍に居たり控え捕手だったりした時の方が長かったのは事実だし、今年は、ちゃんと世に名前を憶えてもらえるよう頑張るよ。」

 これを聞いた紫桃は突然、神妙な顔つきとなり、歩きながらも彼の顔を良く見据え始めた。つい、藍葉の方も身構えてしまう。何か、以前の周回で彼へ向けてきたあの鋭い悪意の、その原因を、この瞬間に紫桃が見つけ出したのかと不安になったのだが、結局、彼女はすぐに相好を崩して、

「なんか、……藍葉って、普通の野球屋っぽくないよね。不思議。なんでだろ?」

「阪神か何処かに、野球よりも釣りの方が好きなんじゃないかってキャッチャーも居たんだし、捕手ってのはそんなものなんじゃない?」

との丹菊の語りへ、紫桃は呆れたように、

「お馬鹿、偉大な選手を捕まえて何を言っているの。あれだけキャッチャーらしいキャッチャーも、そうは居なかったでしょ?」

「あれ?」難癖の口実を見つけた丹菊が、嬉しそうに、「つまり、枝音の話を綜合すると、藍葉はまともなキャッチャーじゃないってこと?」

「……あれ、そうなるの?」

 顴骨の辺りを搔きながら、自分の吐いたことを整理しようとする、整った紫桃の顔が絵になっているのを、ぼんやり眺めてしまった藍葉は、丹菊の指摘が誤っている気はするのだが、具体的に何がどう誤っているのか解釈しきれないことに気を取られたのも有り、二人の間に挟んでいた彼女が、出遅れているのに気付けなかった。

 数歩置き去りにしてから、同時に「「あれ」」と呟いて振り返ると、さっきまで五月蝿いくらいに元気だった丹菊が、そこに蹲っている。

 色を失った紫桃が、すぐさま駈け寄った。屈み、覆うようにして丹菊の小さい背に腕を回してやっている。

「嘘、……何で今、」

 紫桃は、そう呻く丹菊を黙らせる為のような、毅然としてかつ優しげな、つまり看護の使命を帯びた者の様な態度で、

「いつもの?」

「うん、」

 老婆のそれのようにしわがれた声を何とか絞り出したという風情の丹菊は、そこに刃物を突き刺されたかの如く、球団意匠の、きつい青のトレーニングウェアに刻まれた「B」の一文字を絞り上げつつ、左胸を押さえている。荒く、それでいて今にも途絶えそうに不安定な息が、その小さな体躯に比して大き過ぎる口で為されていた。

 思わず歩み寄ろうとする藍葉を、屈んだままの紫桃が、きっと睨み付けることで留める。竦んで退きかけた彼へ、「あ、御免、」と、申し訳なさそうに述べてから、視線を逸らしつつ、

「先、行っててくれる? あと、これも御免だけど、このことは内緒にしてね。」

 仕方なくきびすを返した彼の背へは、ごそごそと、何かポーチを漁るかのような音や、友を労る紫桃の声が、優しげに洩れ浴びせられた。


 結局その後、気も漫ろな藍葉が、素振りのバットをすっぽ抜かしてチームメイトから揶揄われた頃に、紫桃と丹菊は漸く現れた。キャンプ中で時間や道具を惜しんでいるのか、そういうことにとんと興味の無い藍葉にすら、化粧の手が抜かれていると分かる両者の顔は、しかし、患いの色も無く平然としている。

 そりゃ自由参加だが、随分今更だな、もうじきに全体練習だぜ、との、三合キャプテンの、恐らく嫌みではない素直な感想には、「ああ、御免なさい三合君。ちょっと、詠哩子が偶〻貧血起こしちゃってさ、」と、紫桃が豁達とした態度で返している。あんたらは良く知らないだろうけど、女身は色々大変なんだぜ、という含みで反論を封じつつ、この先また丹菊が倒れても、突然の話にはならなくすると言う、実に巧者な言い訳だったが、三合はただ朴訥にその魁偉な体の肩を竦めただけで、甲斐が有ったのかは怪しかった。

 結局二人は、時間に追われてか、軽くストレッチをするくらいでことを済ませてしまう。そこで藍葉らは、沖縄の黄色い旭を浴びて金のように光っている、彼女がちゃんと携えてきた、丹菊特註の一メートル弱の超長物バットが、その小さな体によってどのように振られるのかを眺め損ねたのであった。

 全体練習の場所へ向かう最中、その、身長の七割強に渡るバットを運んでいる丹菊を見かねた三合は、代わりに持ってやったりしないのか?、という疑問を紫桃へ零したが、彼女は、一瞬ぽかんとしてから、

「……ああ、全然そんな発想無かった。いや、だって、私より詠哩子の方がずっと力有るんだもの。」

「バッターとしては、私より枝音のがずっとパワー有るだろうけどねー。」

 当たれば、と、皆に聞こえるような潜め声で付した丹菊が、うるせえ、紫桃に返される。彼女の実力をよく分かっていない他の者は、笑い声を上げていいのか分からずに苦笑して誤魔化したのだが、藍葉だけは、この遣り取りを複雑に聞いた。

 彼は思う。打者としての紫桃の実力を知悉している筈の丹菊が、こんなことを述べるのは、冗談にしても少し奇妙だ。紫桃のバットが滅多に当たるまじと言う、およそ事実に即さぬ皮肉は、あまりにも不粋だろう。すると、一体、……そもそも、新春のあれも、

「とにかく!」丹菊が声を張り上げたことで、彼の思索は中断せしめられた。「自分で註文した、自分が試合で振り回す為の物なんだから、お気兼ねされる筋合い無し! ……まぁ実際、網棚とか、チビなせいで困ることは時々有るけど、その時は素直に頼るので、その時は皆様どうかお助けお願い致しますー。」

 末尾において、彼女があからさまな猫撫で声で演じた鄭重さについては、皆、屈託なく笑うことが出来た。しかしその中で、藍葉だけはまた異端な思いを覚える。取ってつけられた慇懃の中の、「その時は」「助け」などという言葉により、今朝の丹菊の余喘を保つ有り様を彼は思い出したのだったが、当の丹菊も動揺に想起させられたらしく、彼の方を盗み見て、申し訳なさそうに、左手を立てつつのウィンクをくれるのだった。

 

 藍葉はその夜、茶畑へ聯絡を取った。同室者を始めとする他人に内容を知られる訳には万一にも行かないので、ホテルのトイレ個室に立て籠もって文字チャットを交わしている。

「デイジーが、なんか病気有るかって?」

 藍葉は、送られてきたその横文字が、丹菊詠哩子を意味する――daisyの和訳が雛であることと、ピーチ姫と呼ばわれる紫桃との対照――ことを、少し苦労して思い出してから、

「うん。今朝、苦しそうに座り込んじゃったんだよね」

「苦しそうって、具体的にどこがどう悪いって?」

「それは分からない。紫桃に追い払われちゃったからさ」

 逡巡を表すような、間の後に、

「少し臭うね」

 藍葉が、熊が「何が?」と喋っている画像を送り付けると、

「普通、そんな苦しそうに倒れたなら、助けを呼んできてくれとか救急車呼んでくれ、とかじゃん。それを、どっか行けだなんて、ちょっとおかしいよ」

「そこは、なにか、紫桃が男の視線を憚ったのかと思ったんだけど」

「そんな訳ないと思う。女の私が言うんだから、多分間違いないよ。もしも性別を気にするならさ、むしろ、『男なんだから頼りになって助けろ!』、とかになるんじゃないの?」

 そんなものか、と藍葉が思う内に、茶畑から畳み掛けられたのは、

「そりゃ、見られたくないことが有るなら別かもよ? 吐いちゃってるとか、あるいは、服破いてAEDをくらわせないといけないとか」

 あ、

 そう思った藍葉は、

「AEDって言葉で思い出した」

「……なにを?」

「うずくまった丹菊、胸許を押さえていたんだ。あれ、もしかすると心臓が悪いのかな」

 少しの間の後、

「まぁ一応、ありえなくはないだろうけど」

「それに、これも思い出したんだけど、確か紫桃は『いつもの?』みたいな言葉を彼女に書けてたんだよね」

 あ、誤字った、と思った藍葉だったが、そのまま次の言葉を、親指を躍らせてチャットへ打ち込んでいく。

「心臓の発作とかなら、説明付く気がしてきた」

 すぐに茶畑から、

「なんで?」

「ああいうのって確か、最中は死ぬほど苦しくても、頓服薬を服用すればあっさりと良くなったりするらしいんだよね。丹菊の心臓がそういう病気を持っているって紫桃が分かっていたなら、『さっさと行け』って僕を促したのも、分かる気がするんだ」

「……なるほどなるほど。ピーチ姫が、精々で服薬の助けをしてやればいいだけだと思っていたならば、藍葉君を追い払いたくなった気持ちは分かるね。何せ、他の奴が居ても大して役に立たないんだし、それに、この私が知らないってことは、その『いつもの』と称される丹菊の何か、全然世に知られてないよ。多分、秘密なことなんだと思う。そうだとすれば、なおさら人は払いたいよね」

 これに対する返事を彼が書いていると、向こうから割り込まれた。

「たださ、」

 先んじかねない藍葉の発言を抑制するための、急がれた短文であることが瞭然だったので、彼はただ暫く待機した。

 その結果、

「おかしいんだよね。心臓が壊れかけているってのなら、例えばさ、デイジーってちょっと走ったら死にそうになったりするの?」

「あ、」と、藍葉は肉声を漏らしてしまった。

 改めて、「あ、」と打ち込んでから、

「いやぁ、……無いだろうね。走ったら命にかかわる人間が、バントヒットなんか狙う訳ないし」

「そうでしょ? だいたい、投手とかならまだしも、そんな外野手が居たらバカだって」

「でも、そこ以外は辻褄が合うんだけどなぁ、」

 溜め息が聞こえるような、間が置かれてから、

「じゃあ、協力するよ。そういうのは私のが得意だろうし、藍葉君にうつつを抜かされて二軍落ちなんかされたら、堪ったものじゃない。そういう、外野守備が勤まるような心臓の病態が有るかどうかこっちで調べておくから、藍葉君は、観察とか野球の練習に精出して」

「助かる、ありがとう」

「いたしまして。……それじゃ早速だけど、なんか、他にヒントとか無いの?その、丹菊の病気(?)に関してさ」

「ええっと」

 藍葉が、少し悩んでから発言を重ねた。

「『どうして、今』、みたいなことを、丹菊が漏らしてた気がする」

「……『どうして、』か。時刻とかタイミング次第で、覚悟できたりする話なのかな?」

 その後続いた何往復かの遣り取りの後に、チャットルームを閉じた藍葉は、端末の通知として、紫桃や丹菊に関するニュースが届いているのに気が付いた。タップして開き、内容を確認すると、練習している最中に何か大笑している二人を切り取った写真が、大写しになっただけの、大して中身の無い記事である。少なくともこういう形で、既に客寄せパンダのような仕事は期待通りにこなしつつあるのだろうな、と藍葉は思いながら、その写真をよくよく眺めはじめた。

 そもそも何故此奴らは練習中にそんな笑っているのかと、藍葉は訝ったが、ピントの合っていない、柁谷かじたにらしき人影が、紫桃らが見ているのと同じ方向へ指を指していることで、この時に何が有ったのかを彼も思い出した。確か三合が、また何かしょうもないことをしていたのだ。遠くて自分には良く見えなかったが、今長が犠牲になって、ベルトを馬鹿のように引き上げられていた気がする。

 キャンプテンシー、で良いのだろうか、とにかくあのようにチーム内をほぐそうとする三合の所業は、担わされた役目を果たさんとするという見上げたものなのだろうが、果たして、これはそのままの値打ちで褒めてしまっていいものだろうかとも、藍葉は少し怪しんだ。つまり、三合は押しも押されもせぬ強打者な上に、試合に三人も先発出来る外野屋であり、なんなら、経験の有る三塁や、取り敢えず送球を受けられれば大して文句の無い一塁を担うことも出来る以上、彼が出場機会を故障以外で失うことは、向こう数年はまず有り得ない訳で、ならば、皆を公平に盛り立てようと言う任務を蟠屈なく行うことは、戦力構想漏れの恐怖と無縁な彼にとって、普通の選手よりも遙かに容易なことだろう。勿論その事実で彼の貢献度が毀たれる訳ではないが、しかし、とにかく藍葉が気になるのは、この先紫桃にお株を奪われた後で、彼はその手の素晴らしさを尚も維持出来るのだろうか、という点だった。本来の目的には全く関係のない話であったが、それでも、横浜の青に染まった彼は、興味を断つことが出来なかったのである。

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