「良く考えたら既婚者の紫桃は寮に入らんし、そうなると丹菊一人の為だけに女用の設備は設けられん。つまり二人とも入寮しないことになったんだが、実は、そうすると、……部屋が来年も余るんだよな。」と、すっかり荷造りとアパート探しを終えてから伝えられた藍葉は、一笑してから、「天の思し召しだと思って、素直に退寮しますよ。」と、年末の内に引っ越しを済ませていた。

 ’16年一月九日。長めの帰省から戻った翌朝、一軍定着の願を掛けて横須賀ではなく横浜に構えていた住処にて、移動疲れで前夜早く寝ついていたことも有り、彼は、うっかり暁闇の内に目覚めてしまった。新居らしく清潔感の有るカーテンを引き開けて、低い建築物が暗く並ぶ琥珀色の光景を眺めた藍葉は、再び寝つく気にもなれず、しぶしぶ躰を起こす。そのまま半ば無意識に、煖房を付けた。

 さあ、今日はどうしようか。スポーツマンらしく早く起きたし、殊勝な気持ちのまま走りにでも行こうか。それとも、もう一日くらい休むか? 他の家事は多少蔑ろにしても良かろうが、躰の資本となる自炊だけは、ちゃんと準備や練習をせねばならないし……

 そんなことを思いつつ目を擦った藍葉は、食卓になる予定のローテーブルに、球団の年間予定表を抛り出していたことを思い出した。今は、契約期間外の完全オフなのだから、わざわざ読む必要は無いのだが、一応拾い上げてぼんやり眺めてみると、本日に相当する箇所が空行でなかったことに気が付かされる。


   ・新人合同自主トレ@横須賀


 ……ああ、今朝からだったのか。

 今までの周回でも、情報収集の一環として、どこかの記者――茶畑の時も有った――がその光景を纏めたウェブ記事は読んでいたりしたのだが、しかし、藍葉が直截この合同自主トレを見に行ったことは無かった。折角気が付いたのだし観察に行こうか、とも思うが、コーチか誰かに見つかったら「自分の練習をしていろ」とどやされそうでもある。大選手ならばいざ知らず、一軍二軍を往復している自分では、生意気に写るだろう。

 藍葉は、そこから少し悩んだ後、マップアプリを開いて、件の練習場近くにバッティングセンターや走り込むのに丁度良さそうな道が有るのを確認し、「自分のトレーニングのついでに、ちょっと立ち寄っただけっす。」との言い訳が通じそうだなと判断してから、いずれにせよまだ早過ぎたので、一旦朝飯のことを考え始めた。


 いの一番に行われるであろう、新任ラミーロ監督による訓辞への興味も無くもなかったが、まぁ別に自分へ向けられたものでもないしなと思った藍葉は、適当な時間に横須賀へ向かうことにした。サングラスやパーカーのフードで目許を隠しつつ、昼過ぎに現地へ到着してみると、金網の向こうから甲高い声が響いてくる。丹菊よりも幾分高い、よく通るこれは、間違いなく紫桃のものだった。

 遠くからだと気合いの哮りにも聞こえた、その女声は、近づいて行く内に、寧ろ悲鳴に近いものだと藍葉は気が付かされた。悲鳴とは言っても、本気で苦しんでいるのではなく、道化て大袈裟な反応を示すような味わいである。どうやら、自分の時の新人自主トレよりも、大分和気靄々としているらしい。いかにも明朗にみえるラミーロ監督が着任したことを考えると、自然な変化だ、と彼は思う。

 見えてきた光景は、本気でない悲鳴に相応しく、楽しげかつ悲惨なものだった。内野の位置でノックを受けている紫桃は、彼女なりの真剣を以て追ってはいるらしいものの、一球たりとまともに球を止められないでいる。……そう、捕る以前に、止められてすらいないのだ。パーフェクトに後逸されていく白球を、見かねた誰かに排置されたらしい丹菊と今長が、一々拾ってやっている。

 走る打球と殆ど逆方向へ、すっ転んだ彼女を、

「おらー、少しはちゃんと取れやー、本当にプロかお前ー、」

と丹菊が棒読みで揶揄うと、立ち上がりつつの紫桃は、息も絶え絶えに、

「キャッチャー、だよアタシは! エクサ、サイズとしては、真面目に頑張るけど、遊撃守備率なんか期待しないで!」

 バットを提げる長池コーチも実際そのようなつもりだったらしく、あまりに不様な紫桃を𠮟るでもなく、寧ろ半ば莞然とした彼は、彼女へのノックを戛々と続けている。俺も捕手だがあの百倍は動けるぞ、と、眺める藍葉は思った。

「甘えんじゃねー、そんなザマなら横須賀に帰れー、」

と棒読みのまま続ける丹菊へ、

「此処が横須賀ですけどね!?」

と即座返す紫桃を見た彼は、今春からの横浜球団名物となる、「Twitter上での紫桃と丹菊の掛け合い」が、実際の二人の会話でも行われていたのだなと感心した。

「背番号の桁数足りないんじゃないのかー、お前ー、」と、ボールを投げ返す丹菊。

「……それ、割と辛辣じゃない?」と、喘ぐ紫桃。巻き込まれた今長は、ただ苦笑している。

 哀れな彼女の纏うビブスには、横浜らしい青地に、「SHITOH」という名前と、「02」という背番号が白字で刻まれていた。二ヶ月半後には、それを見るあらゆる野球人が畏怖することとなる文字列である。

 ノック後、聞いてはいたが本当に打球処理駄目なんだなお前、とコーチに呆れられてから、

「はい、……なので、死ぬ気で捕手ポジション目指します。」

と息も絶え絶えに返した紫桃は、そんな態度をある程度は褒められたようだった。

 その後、ダッシュや遠投でも惨憺たるポテンシャルを見せつけつつ、しかしは音を上げはしなかった紫桃について、コーチ陣の何人かが、評価に困ったような顔をして話し合っていた。偶〻たまたまフェンスに近かった彼らへ藍葉が近づいて盗み聞いた話と、眺めた雰囲気から察されたところでは、丹菊のバーターで拾わされたとはいえ、最低限の体力は有りそうだし支配下枠を消費する以上何かには使いたいが、こうも能力が低いとなぁ。やっぱり女ではなぁ……

 しかし、メニューが進むにつれ、彼女は多少評価を挽回することとなる。キャッチボール時、なんとなく丹菊とペアになりそうだった紫桃は、「どうせなら、ピッチャー相手がいいです。」と志願して今長と組んでいたのだが、彼が緊張でもしたのかとんでもない糞ボールを遙か右方、しかも足許の高さに投げつけた時に、彼女は、魚のようにひょいと飛び込んで拾い上げる軽業を見せつけたのである。

 出来るじゃねえか、と褒められてから、

「打球じゃなくて、投球と送球ならちゃんと止めます!」

と叫びながらボールを投げ返す紫桃を見て、事実藍葉も、自分ではあの動きは出来なかったろうと感心、或いは寒心してしまう。後者は、1.5軍の捕手としてのナイーヴな情感だったが、すぐに、そもそもどうあれレギュラー争いで紫桃に叶う訳が無かったな、と彼は思い直した。直に「大魔王」と称されることとなる彼女が入団してきた時点で、藍葉は、出場機会を失うのが約束されていたのだ。

 しかし、そうならば、何故そもそも自分は捕手を志したのだろう。いや、正確には、進んで志したのではなく、中学の監督に命ぜられたのだったが、最早真剣な野球小僧の気持ちだった自分はついそのまま捕手としての修練を重ね続け、プロ入団までしてしまい、挙句リード技術を評価され、最早他のポジションなど考えられない所まで来てしまったのだった。かの「北の侍」の様な打力でも有れば、他守備位置に移されてでも使われるだろうが、そこまでの力は無いと自負している。夥しい数の生涯で野球を学んで来たという強みは、リード面については多少生かせるが、打撃に於いてはそこまで……

 そんなことを思い憂う藍葉を置き去りにするかのように、紫桃は、その本領たる打撃も、幾らかは評価されたようだった。日の最後に執り行われたトスバッティングで披露された、彼女の、親の敵を打擲するような鋭いスウィングは、然るべき目を持つ指導者陣には能力を計り知らせるものだったらしく、当た男並に飛びそうやな、と話す高洲コーチも、控え捕手兼代打要員に育てられるやろうか、などと、面白そうに続けたのである。

 これを聞き咎めた藍葉は、バットを握った時の紫桃の眼光の鋭さには気が付いていないのだろうか、それとも、気付いてもそこからは魔神の如き打力までは推し量れないのだろうか、と不思議に思った。


 結局丸一日見学してしまった藍葉は、夕食を済ませつつ家に帰り、何か今日のことを呟いていないだろうかと、彼女が唯一大っぴらに利用しているSNSである、紫桃のTwitterアカウントを見に行った。疲れ果ててでもいるのかそれとも単にその気が無いのか、結局合同自主トレについての発言は全く無かったが、しかし、年明け後に呟きが追加されていたのが、彼の目に留まる。

「しとうだゾ」というアカウント名と、「ぷろやきゅうせんしゅ(正確には二月から)」という、脱力的な雰囲気を狙っているプロフィール文。スポーツマンが陥りがちな、つい全身写真をそこに使用してしまって、小さくアイコン化された時に何が何だかよく分からなくなる、という罠に嵌まることもなく、知り合いにでも書かせたらしい微妙な上手さの似顔絵を当てはめている辺りが、多少ウェブ慣れしているのだろうという印象を、見る者に与えるアカウントだった。

 最新の書き込みは、紫桃家に届いた巨大な段ボールに小さな子供がじゃれついている写真を伴っていて、「このクソ寒い中、町田の連中から扇風機が届きました💢 ありがとうございます💢」との文章に、「ウケる」との丹菊のコメントが寄せられていた。「あいつらひどいゾ」と紫桃、「プロになっても元気に振り回して下さいと言う熱い応援メッセージ」と丹菊、そこへ紫桃が、号泣顔の絵文字を送り付けて遣り取りは終わっていた。涙の意味を読む側に委ねる辺りが、無駄に絶妙である。

 こんなじゃれあいや、横須賀での高洲コーチの言葉にも見えていたように、紫桃はいかにも、当た飛びそうという雰囲気の打撃を試みるのだった。藍葉は、この「れば」という含みに安堵や蔑視感を覚える者は、それがどれだけ愚かだったのか開幕後すぐに知ることになるのだろう、と、皮肉げに思いながら、寛いだ姿勢でスマートフォンを繰り続ける。

 彼女と応酬していた丹菊アカウントのアイコンは、樹脂製の安っぽい長ベンチにぽつねんと置かれている、町田の女子野球チームで使っていたと思しき、グレイの野球帽を写真に収めたもので、「Eriko Tangiku」というアカウント名や「外野手」とだけのプロフィール文とも相俟って、短文、下手すれば一文字の文章ばかり端的に呟くこのアカウントの性質をしっかりと表していた。迫力ある雲の狭間から日差しが神々しく射し入る美事な写真に、「空」とだけ付したり、悲壮感溢れるずぶ濡れた野良犬の写真に「犬」と付したり、豚骨拉麺の写真に「蕎麦」と付したり。最後のにおいては、「蕎麦ではないゾ」と紫桃のアカウントがじゃれついて来るのに、「うるせえ」とだけ返信していた。辛辣さを無視して、単に「大盛りじゃないっぽくて驚いた」と寄越す紫桃へは、「この後焼き肉」とだけ返して、「は?」と、恐らく素直に書き込ませている。

 こうして眺めている分には紫桃は愛想が良いよなぁ、と、藍葉は思った。いや、SNS上だけでなく、リアルでも紫桃は殆ど常に莞爾と、敵味方関係なく触れ合っていたようだったし、ほぼ全ての記者に対しても親和的な選手だったのだが、……何故ああも、昔の周回において、自分だけ汚物のように嫌われたのだろうか。春キャンプ以降では、当然に彼女と選手同士として顔を会わすことになり――いや寧ろ、その為にこうして横浜に入団する生涯を苦労して勝ち取ったのだったが、しかし、それが不安にも思われてしまう。二種類の不安、きちんと紫桃の特異性や異能、その他についての情報を得られるだろうかという不安と、チームの正マスクに嫌われてこの先やっていけるのかと言う、本当はどうでも良い筈の不安。

 そのまま惰性で各種SNSを巡っていたところ、南の方へ自主トレに出かけている諸先輩の書き込みを見つけた藍葉は、自分も明日からこそは真面目にトレーニングしようと、つい喰い過ぎてごろごろしている胃袋を反省しつつ、さっさと新品の寝具の中へ潜り込んだのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る