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既にこのカレーに散々厭いていたことと、気も漫ろになっていたことから、味も感じずにいる彼は、「本当に、
藍葉は、不安で仕方ない。折角、永遠とも思えたほどの努力の末にとうとう横浜へ入団し、しかも、自由契約を’16年度まで無事免れつつ、1.5軍の地位を確保しつつあったと言うのに……
我らが横浜球団は、
食堂の空気がすっかり待ち草臥れてきた頃、ドラフト指名が、
横浜球団は、優先権の無かった一巡目においても、見事単独指名を成功させ、期待の左腕、大卒投手
ドラフト場が響めいた後に中継が切り替えられ、しっかりと整った会見会場で、同志らしい女性陣に囲まれた、丹菊の姿がカメラに映される。前例の無い女性NPB選手、それも、日本女子プロ野球機構などではなく、草野球との区別の難しい、関東軟式女子野球連盟という、事実上在野からの指名を横浜が決行するやもしれぬという噂で、散々注目されていた丹菊は、会見会場をわざわざ取っていたことにも表れている用意の良さにより、話す準備も済ませていたらしく、洗煉された言葉を縷々と語って見せた。
「とても光栄ですが、率直に申し上げますと、一応、即答は出来ません。初の女子プレイヤーということで、私側にも、そして恐らく横浜さん側にも戸惑う所が有りましょうから、実際に直截お話してそこがどうなるか、というのが問題ですね。その辺りさえクリア出来れば、はい、憧れの舞台、横浜スタジアム、或いは日本シリーズを目指して、微力ながら全力でプレイしたいと思います。」
この女が、紫桃と最高出塁率を五割台で競うことになるのを知っている藍葉は、「微力」という謙遜に噴き出しそうになったが、他の寮生達の関心はそこではなかった。
「しかしなぁ、こんなちっこいのが、ちゃんと野球出来るんだな。」
「お前だって、リトルの時はチビだったろうよ。」
「俺、その頃はテニス部だったっすわ。」
プロ野球選手としての丹菊詠哩子には、一見して、三つの異常性或いは異端性が挙げられた。一つ目は性別、そしてもう二つは、身長と筋肉量である。139センチと言う、女身にしたって大概に低過ぎる背丈と、それを埋め合わせるが如く、服の上からでも分かるほどに隆々と発達した筋肉。立派過ぎる肩が、低身長ゆえの寸胴体型を強調してしまっているが、もしも喧嘩相手になったら、首後ろの隆起やユニフォームを張り詰めさせる、腿のような上膊の太さに、恐怖を覚えることとなるだろう。とにかく、この筋力量なら、男顔負けのプレイを出来るのではないかと、見る者に期待と納得をさせるところが一応有り、実際、横浜関係者が丹菊の身体能力を実地テストして唸ったと言うのは、公の事実として知られていた。
それら、絡み合う二つの特異体質、病的と称されぬギリギリ程度に成長が乏しかったことと、分泌系の何かがエラーを起こしていて筋量が凄まじいこととが、顔立ちにも反映されており、あどけない目許と精悍な頬が同居した不思議な顔つきで、自分の小ささに不満を覚えているかのように、口を一々大きく開けて話すのが、丹菊の特徴だった。栗毛色にまで色を抜いた短めの髪を僅かウェーヴさせており、それが、そうして大袈裟に話す度にゆらめいている。
大画面のテレヴィに映るそんな女傑を、ぼんやり眺めていた藍葉だったが、突然思い出された、この先の指名がどうなるかという不安で、なにとなく落ち着かなくなってしまい、逃げるようにスマートフォンを操作し始めた。とあるSNSでの、茶畑との秘密チャットを開く。
そこには、「今回も、お菊のいつものタンパあったよ!」と新着メッセージが届いていた。「お菊」とは――秘匿性が怪しいが、一応――丹菊を表す符牒であり、「タンパ」は、ドラフトにおける悪い風物詩、tampering(事前密約)を意味している。
とはいえ、タンパリングはタンパリングでも、丹菊の為したそれは随分可愛いものであり、「
この事件以降、茶畑は、少なくとも幾らかは
時を遡りつつあった意識を手許に取り戻した藍葉が、視線を持ち上げると、横浜の指名は大分先へ進んでいた。一位今長、二位丹菊、三位隈原、四位芝田、五位綾邊、六位大柳、七位埜川、
………………
藍葉は、ふと気が付いた。指名内容がいつもと少し変わっており、具体的には、琴柱の名前が無い。他球団に指名されたのか、それとも、
………………
我らが横浜が埜川を指名したのに続いて、逆順故に、最後に番の回ってきた楽天は、七位として高卒内野手を指名し、そして、直後指名を打ち切った。八位は再び正順であり、すぐさま、横浜球団へ指名順が戻ってくる。
頼む、琴柱を指名せぬまま、ウチも打ち切ってくれ、全て終わってくれ、と祈る藍葉を他所に、次の指名が読み上げられ始めた。ぎゃぁ、とつい悲鳴を上げる彼は食堂の注目を一瞬集めたが、その直後の出来事が、雰囲気をまるきり上書きする。
「紫桃枝音、捕手、町田シャイナーズ」
一瞬の、戸惑いの沈黙の中で、藍葉は一人安堵した。そうか、そうだ、まだ紫桃が指名されていなかったではないか。そして――贅沢千万なことに――横浜としては、不本意にも指名する羽目となった筈の、つまり、ぶっちぎりの最低評価である紫桃が呼ばれたと言うことは、もうこの先の指名、例えば、琴柱の獲得は有りえまい。ああ、良かった。本当に、良かった。
彼がそう嚙み締めている間に、喧騒が食堂に巻き起こり始めていた。
「町田なんたらって、なんだっけ、聞いたこと有るような、」
「さっきの、丹菊ってチビのところじゃねえの?」
「……ってことは、また女!? 二人も入ってくるんすか?」
その後暫くしての、育成指名の最中に、放送スタッフが何か凄まじい努力を為したらしく、紫桃への中継が繫がった。場面は、丹菊の時のような立派なものではなく、屋外の、不潔な湿っぽいコンクリ打ちを背景としての立ち話で、施設の外をぶらついていた紫桃をなんとか奇跡的に捕まえたと言う風情である。いつか茶畑の語ったこと曰く、丹菊の会見時には紫桃も、町田シャイナーズにおけるスタメンクラスのチームメイトということで端に立っていたらしいのだが、全く画面には収められていなかった。
なんら準備をしていなかった筈のインタヴュワーだが、根性と言うべきか手腕と言うべきか、無難な質問を紫桃へ浴びせ掛けてみせる。折角希少な属性、女性野球人を相手にしているのに、尋常な質問ばかりだなと言う憾みは残ったが。
タンパリングを誤魔化す為なのか、それとも指名されるにしてもインタヴューを喰らうとは思っていなかったのか、丹菊と異なり、あまり用意をしていなかったらしい紫桃は、骨張りを隠すかのように内巻きに揃えた、下顎の辺りまでの、丹菊より濃い、競走馬のように艶やかな茶髪の中で、多少舌を惑わせはしていたが、同時に、春から横浜球団の新名物となるトーク力の片鱗を、見せ始めてもいた。
「そう、ですね。指名されたことは驚きと言いますか嬉しいと言いますか、……まぁ詠哩子と一緒にやれるのなら、頑張りたいと思います。横浜は、私もずっとファンでしたし、」
丹菊と異なって素直に女性的で、端正な顔つきの紫桃は、まるで戯れにユニフォームを着てみた女大生のようで、この春に球界を戦かすこととなる人間にはとても見えない。
幾つか、無難な応酬が更に為された後に、
「では、これを最後にしたいと思いますが、……紫桃さんから、ラミーロ新監督に仰言っておきたい意気込みなどは有りますか?」
「そうですね、……um,」
藍葉まで、目を剝くことになった。
「Mr. Ramiro, I'm very proud of reaching the level you require as a baseball player. And I'm very very looking forward to seeing you and joining one of the professional baseball teams. I have to thank you to give me a chance to devote myself to baseball as a professional.」
ぎょっとしたらしいインタヴュワーが、「あ、有り難う御座いました、」と何とか返したところで、映像は再びドラフト会場へ戻った。
例の、揶揄ってきた後輩が、
「やべえっすよ藍葉さん。琴柱じゃなくても、結局ライバル登場、同じく社会人相当の、しかも才色兼備のキャッチャーだ!」
明らかに紫桃を見下しての、皮肉を籠めている諧謔な訳だったが、どうしても彼女を侮れない藍葉は、上手い言葉を返せなかった。
その夜、茶畑に文字チャットで聯絡を取ると、
「え、知らなかったの? あの女、英語ベラッベラのベラだけど、」
年上となった茶畑は、以前の周回では藍葉に向けていた慇懃を省略している。
「あそこまでとは思わなかったし、それに、インタヴューでいきなりぶちかましてくるとは思わなかったなぁ」
「流石の肚の据わり方って、感じかな。ところで、これまでもドラフト指名の時、毎回紫桃ってあんな感じだったけど、視てなかったの?」
「ドラフトの八巡目なんて、普通視ないよ。放送がされていたことすら、前世までは知らなかった。
で、茶畑さん、今、『毎回』と言ったけど、毎度あんな内容だったの? つまり、紫桃は、同じ英文を話していたの?」
「ええっと、……御免、私も英語って言語あまり勉強してないんだよね。まぁ、あんな雰囲気だった気もするけど」
「すると、……今のところ、あまり変わってないのかな」
暫しの、文字的な沈黙の後、
「世界が?」
「うん。」
「にゃるほど、……バタフライエフェクトみたいなのは起こってないかしら、と言う話かな。……ちょい待ってて、藍葉君、」
大人しくその言葉に従っていた藍葉が、何も動かないスマートフォン画面を前にして待ち草臥れ、終わっていない荷造りでも進めようかと膝を起こしかけたところで、これまでの会話表示がポンと持ち上った。茶畑が送信してきた動画の、サムネイルが最下部に出現したのである。
その上に重ねて描画された、薄ぼけた右三角形をタップしようとした瞬間に、新たなメッセージが追加されたことで藍葉は狙いを外した。意図せずに触らされた新着メッセージ、「右がさっきの放送録画で、左が、ライブラリから持ってきた昔の周回のピーチ姫」がブックマークされる。
彼は、眉を顰めてブックマークを解除してから、改めて狙いのサムネイルを触って動画を再生し始めた。ニュース番組のような、無難に洗煉された字幕や帯に彩られた、紫桃の顔を大映す画面が、二つ、立体視絵の様に殆ど同じく並んでいる。それら、動き出した二人の彼女らは、それぞれインタヴュアーの問いをうんうんと、いつもの癖として、脣を口の中へ巻き込んで隠すようにしつつ聞いていたのだが、その後揃って「um」、と呟いた後、例の、藍葉が聞き取れなかった英文を流暢に話し始めたのだった。目配せ、
動画を閉じると、茶畑からの新しいメッセージが届いていた。
「御覧の感じで、今回も同じこと話しているみたい。今のところ、藍葉君の存在は紫桃を揺るがしていなそうだよ。入団後は、流石に影響しちゃうんだろうけどさ」
藍葉は、少し考えてから、
「それは良かった、……んだよね?」
「どちらかと言えば、まぁそうかな。今周回の本意が破綻解決ではなく情報収拾である以上、多少想定外の改変が起こっても良いんだけど、でも、あまりに訳の分からないことになっても面倒だからねー」
改変、という言葉で刺戟された藍葉は、次の発言を打ち込んだ。
「そう言えば、琴柱は?」
「……はい? サスマタのこと?」
この、全く訳の分からぬ返事に首を傾げた藍葉は、検索エンジンを駆使して、「
「違う。コトジじゃなくて、コトハシラ」
「……あー、あー。あのキャッチャー君ね。ええっと」
続く茶畑の書き込みを待つ内に、スマートフォンへ通知が割り込んで来る。後輩の一人からメッセージが届いたことと、その内容が、女流選手の参画を、球団テーマ曲に登場する「勝利の女神を抱く」というフレーズに引っ掛けた下世話な冗談であるという、つまりどうでも良さそうであることを知らせる旨だったので、指をスライドさせて通知を破棄すると、既に、茶畑の次の言葉が画面で待ち構えていた。
「居ないね、どうしちゃったんだろ」
藍葉は、訝しげな顔になりつつ、
「居ないって、何? この世に?」
「というか、ドラフト指名に。横浜だけじゃなくて、どこにも『琴柱』って名前ないなー。育成にも居なさそう」
藍葉は、つい目をぱちくりさせてから、
「なん、だろうね」
「分かんない。どうする? ライター『茶畑』として、本気を出して調べてみるー?」
「ええっと、」
一応自分の中で検討してから、藍葉は続きを送信した。
「あんまりに暇ならお願いしたいけど、そうじゃないなら、別にいいかな」
「了解。実は私も、あまり掘り返すカイが無いかなー、って感じしてるんだよね。それじゃ、そういうことで」
何か向こうに用事でも有ったらしく、そうやって一方的に対話を切られてから、藍葉は、半端に進行した荷造りによって大いに機能性を損なった、乱雑な個室の中で、ぼんやりと物事を考え始め、そしてつい、目を見開いた。
茶畑のメッセージに出てきた、「ピーチ姫」という言葉。あれの意味を、藍葉は文脈から推測する羽目になったのだが、こうして落ち着いてからその瞬間を顧みると、彼はぞっとさせられたのである。麗しい女流スポーツマンに屡〻冠せられる、「〜姫」という軽薄な呼称へ、紫桃の苗字から一文字拾い合わせつつ、ゲームの有名キャラクターに肖ったあの渾名は、日本各地から自然発生して、人口に膾炙する筈のものだった。当然に、以前の藍葉も散々、自然な語彙としてそれを血肉としていたのだが、今や、その意味を、わざわざ推理させられたのである。
喪失、している。この仕事において最も重要な筈の、紫桃に関する記憶を。
続いて藍葉は、自分の記憶機能の具合を確かめるために、今の生涯を振り返り始めた。小学生から野球を始め、中学の部活ではエラーや見逃し三振の度に監督に
そして三年で漸く出場した、輝かしき夏の甲子園。その残忍さによって逆説的に鼓舞して来る、炎夏の日差し。アルプスからの凛然として
そして、入団した横浜球団。憧れだった選手らや伝説の英雄が、何段も上の立場とは言え、しかしとにかく仕事仲間になっていると言う不思議。最下位を独走し続ける球団と、二軍暮らしだったとはいえ――「湘南」と言う別名だったのも悪かったのだろうか――それに対して別に焦りを感じない自分と、本当にそんなことでいいのかと、殊勝にも懐疑するメタ的な自分。球団身売り騒動。その結果就任した中濱監督の檄と合わせて変わっていく、チーム事情。情熱の再興と、去年最下位で終わったことによる、死ぬ程の悔しさ。
藍葉は、或いは、彼は、改めて愕然とした。顧みるに自然と野球
次元汚染の影響が、もの凄まじいことになっている。恐らく、ドラフト指名を勝ち取る為に本気で野球へのめり込んできたことで、心から、真性の野球小僧といつしかなりかけていたのだろう。十二次元の存在である自分が、矮小なる三次元世界に出演しているだけという立場を忘れ、親への感謝に涙し、所属球団の趨勢に、心から一喜一憂するなど……
細かいことを述べれば、彼は、黒瀬と紫桃による、あの悪夢のような本塁打によって世界から弾き出される度に、一々「藍葉」ではなくなるのだから、真っすぐに野球小僧へと染まっていった訳ではない筈だった。つまり、これまでに夥しく費やした――正しく費やした――藍葉の人生からの、彼自体への
藍葉は、縋るように、茶畑とのチャットを読み直し始める。彼女との繫がりこそが、自分を保つ為の、唯一の
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