終章 『Q10』 (まだ、ここでは終わりません)
■終章/『Q10』
「今は見えなくても、自分を信じろ。
いつか目の前にお前が信じたものが、カタチをもって現われるその日まで」
『Q10』より
『すいか』『セクシーボイスアンドロボ』脚本家・木皿泉の日テレ土九枠作品として、一〇年一〇~一二月に放映されたのが、『Q10』である。
このドラマは、最後のひとことが、たまらない。
最終話のクレジットが終わった後、エンドロールで、以下のような文章が表わされる。
『このドラマはフィクションですが、あなたがいると信じる限り、登場人物達は、誰が何と言おうと、どこかで生き続けています』
正直、やられた、と思った。これは、私が日々、物語を書きながら、思っていることなのだから。いや、思っているだけではない。私は、自作の代表作『水淵季里シリーズ』の主人公・水淵季里に、独立した人格を与え、ブログ*まで書かせているのだから。
それは、韜晦でも妄想でもなく(雑誌『シナリオ』によれば、脚本の木皿泉は妄想と考えているようだが)、同じ『Q10』のシナリオブック(双葉社)あとがきに書かれていることの実現だ、と思うからだ。即ち……。
私たちが死んでしまった後に、この本を開いている人もいるかもしれない。そんな人たちのために言っておきたい。
こんなささやかなドラマを見て、慰められた人もいたということ。このドラマを作るために多くの人が、泣いたり笑ったり怒ったり怒られたり、一生懸命だったり、死ぬほど考えたり、でも最後にやって良かったと思ったりしたこと。
二〇一〇年、私たちは、まだ物語の力を大真面目に信じていたということを。
少なくとも、私は、慰められた。
木皿泉は同じあとがきで、この物語のテーマは『愛』だ、と言っている。私が一番嫌いな言葉である。それでも『Q10』を見続けられたのは、愛の描き方と、その丹念な繰り返しのせいだった。
物語に登場する、ほとんどの愛は、実らない。両親が蒸発して幼い弟を育てるため、バイトをすることになり、学業を続けられなくなった藤丘誠(柄本時生)に、「オレたちってさ、何もできねーんだよなぁ」、と「現実」の言葉を吐くしかない同級生たち。そこに、ロボットのQ10(前田敦子)が言う。
「歌が伝える言えない気持ち。さあ、今日も、フジオカのために歌いましょう*」
主人公の深井平太(佐藤健)がきく。
「藤丘のためって――」
Q10は答える。
「みんなのココロを届ける、ダヨ?」(表記はシナリオブックに従う)
この言葉によって、平太たちクラスメイトは、藤丘のアパートの前で、一緒に歌うはずだった『さらば恋人』を合唱する。当然だが、近隣住民の怒りを買う。また、歌で心が伝わったとはいえ、藤丘が学校へ戻れるわけもない。切ない現実がたちはだかる。岸本校長(小野武彦)は警官にぺこぺこ頭を下げるだけだ。
それでも、その「事実」は少しだけ、みんなを変えてくれる。きのうより、ちょっとだけましな明日を信じることができる。
七〇年代のドラマなら、例えば生徒たちの心情が、校長の言葉によって住民たちに通じ、温かいものが流れる――といった展開が、あっただろうと思う。しかし、ここでは「現実」は動いてくれない。それに、時代遅れのひとことで片づけられてしまうだろう。私だって家の前でやられたら、いやだ。
しかし、この回の最後で、平太はつぶやく。
「ぽっかりあいた空洞は、いつまでたっても満たされない。だけど、それは大切な人がいた証拠だ。大切な人のために生きた証拠だ。全てが満たされていた、と思っていた子供時代には、もう戻れないのかもしれないけど、オレは、それでいい」
それは、藤丘に対してではなく、未来から平太に逢いに来たQ10について語っているのだが、この群像劇では、すべてがほとんど、「めでたしめでたし」では終わってくれない。藤丘は学校へ戻れない。河合恵美子(高畑充希)と影山聡(賀来賢人)は、一生に一度というぐらいの大恋愛をするが、いざつきあってみると、なんとなくうまく行かず、影山がカナダへ行くことになって、河合は身を退く。バンドをやっている山本民子(蓮佛美沙子)は担任の小川訪(爆笑問題の田中裕二)に音楽プロデューサーを紹介されるが、どうやらうまく行かないらしい(描かれていないので、憶測だが)。それでも、ドラマ全体を見渡す位置にいる柳栗子教授(薬師丸ひろ子!)は言う。
「世界中の人が、何とか食べてゆけて、最悪の事態を避けることができますように」
それこそが「世界平和」だ、と柳は言うのだが、これは一〇年代の今、最もリアルな願いだ、と思うのだ。突如現われたロボット・Q10に振り回されながら、次第に価値観を変えていく平太は、はっきりとした恋愛感情を、Q10に対して抱くようになる。それでも、ドラマはQ10と平太との恋愛を成就させない。その代わり、ハッピーな結末が、最後には待っている。それは、八八歳になった平太自身からの手紙によってもたらされる。八八歳の平太は言う。
「一八歳のオレに言いたい。キュート(Q10)を愛したように、世界を愛せよ。今は見えなくても、自分を信じろ。いつか目の前にお前が信じたものが、カタチをもって現われるその日まで」
平太とQ10との出逢いは、他人にとってはささやかなものだが、ふたりが別れないと、「五六〇万人の人間が死ぬ」、と未来から来た富士野月子(福田麻由子)は言う。それを信じられるかどうかは、想像力の問題だ。
しかし、平太は敢えて、Q10を未来へ返す。自分に信じられる、未来のために。
代わりに平太は、人類全体の歴史から見ればささやかだが、平太にとっては、また、このドラマを見た人にとっては、幸せな結末を、手に入れることができるのだ。
いいことばかりではない。『Q10』における前田敦子の演技は、信じられないほど、ひどいものだ。ただの大根かどうかを確かめるために、『もしドラ*』を見てみたが、まあまあ普通のタレント並みには演じられている。
何がいけないかと言うと、ロボットとしての「棒読み」の台詞が、シーンによってトーンが違うのだ。意図的なものではなく、連続したシーンで、高くなったり低くなったりするので、それだけで忌避する人もいるだろうし、そのせいでボーイ・ミーツ・ガールのストーリーが群像劇になった……というのは、邪推かもしれない。棒読みというものは、意識的にやろうとすると、困難なものなのだなあ、と感心? もした。
けれど私は、それでもこのドラマの力を信じたい。ささやかでも、昨日より少しはましな明日を思い描くために。
「少女ヒーロー読本」の旧稿は、ここで終わっていた。
しかしその後、まだ紹介すべき作品があるのを多数見つけた。
本稿の最後は、それらを列挙して終わりとしたい。
*「歌が伝える~」──Q10がテレビを見て、覚えた文句。
*ブログ──水淵季里のブログは、完結しており、現在はない。
*『もしドラ』――正式タイトルは、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』。タイトルの通りの内容(『マネジメント』は経営学の本)だが、コメンタリーを聴いてみると、監督(田中誠)が原作・脚本(監督との合作)の岩崎夏海に「このシーンの意味は?」ときいたりする、驚天動地の話が聴ける。
本として出た『少女ヒーロー読本』(原書房)では、ここが終わりとなっていた。
しかし、その後、新作や見逃しといった物がたくさん見つかっている。
ただ、私の方も、ちょっとばかり忙しくなってきた。ここから先は、見つけたら、あるいは見終わったら少しずつ出していきたい。
よろしくお願いいたします。
(この章、終わり)
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