第六節の4 そして、2015年……

 【この段落新稿】気の早い方は、この二〇一五年までの報告を読んで、私がつみきみほを見捨てた、と思うかも知れない。私が再び、つみきみほと「出逢い直す」体験は、この後に新たに書き加えたので、そこまでは読んでいただきたい。


 ここまでの原稿を書いたのは、二〇〇四年のことだ。

 二〇一〇年前後から、つみきみほはまた、映画やドラマに多く出演するようになった。私は、可能な限り、それを追った。『仮面ライダーフォーゼ』や『アナザー』、『相棒』での出演を見た人もいるだろう。

 認めたくないことだが、ブラッドベリ風*に言うと、そこには見知らぬ女性がいた。私が三十年近く追いかけていた少女像は、正直に言って、彼女の姿からは消えていた。

 しかし、そんなのは、私の身勝手なのである。

 勝手に思い入れて、勝手に追いかけたのだから、そのイメージと変わったから*、という理由で、つみきみほを悪しく言う人に災いあれ。私の中には、三〇年のつみきみほが、映像として生きている。

 ここでようやく、正しい意味での「原動力」が始まる。私は、ビデオテープに録った『JAPOP'86』から、私にとってのつみきみほを再発見していく。

 ……というか、私も、もう五〇代半ばなのだから、世知辛い現実を、映像鑑賞や創作の上では忘れ、没頭すべきものに没頭してもいいんじゃないだろうか。

 現実のつみきみほは、ブログで、絵付けの仕事で生計が立てられるほどだ、と言っており、これからは「みほ」としても「つみきみほ」としても生きて行きたい、というような、意味深長な発言をしている(「アナログな人間なので」ブログは閉鎖するとのことだ)。

 私も、ノスタルジイの波に、身を任せるべきなのかもしれない。

 ただ、私が自作でよく書くことだが(原点となるのは、大林宣彦監督の映画にもなった、福永武彦『廃市』)、「その夏」を、また初めからやり直すことはできない。その事実をどう認識するかは、私の、次なる方向を示しているのだろう。

 二〇二〇年現在、私はあの夏のつみきみほをイメージした小説を、いまも書いている。そして『ハウス』は、アメリカ・クライテリオン社のブルーレイソフトによって、遙か彼方に観たあの夏の空を、見事に再現した。大林宣彦監督は、AKB48のミュージックビデオで六〇分を超す大作を、「CDのおまけ」に付けてみせ、ペースメーカーを埋めながらも、エネルギッシュに働いている。

 ――私の夏は、終わらない。夏が私の中にある限り。

 そして、己が認めようが認めまいが、私のつみきみほは、私の中で生き続ける。私が走り続ける限り。

 【この段落新稿】冒頭に述べたように、私は二〇二〇年、再びつみきみほに出逢うのだが、この章に入れるには長くなるので、節を改めることにした。そちらをぜひ、読んでいただきたい。



*ブラッドベリ風――レイ・ブラッドベリの短篇『みずうみ』(『黒いカーニバル』早川文庫)。

*イメージと変わったから――いますよね、「あんなのボクの××じゃない」って言う人。


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