第六節の3 その後のつみきみほ

●その後のつみきみほ


 西暦一九九九年、つみきみほは、映画『新・唐獅子株式会社』で本格的に女優復帰する。

 この映画を私は、中野武蔵野ホールという小さな映画館で、観客三人という状態で見た。前田陽一監督の遺作となった喜劇だが、残念ながら、一箇所も笑うことができなかった。撮影中からすでに前田監督は体調がひどく悪く、撮影半ばで亡くなったのを、助監督・長濱英孝と、長く前田監督の助監督を務めた南部英夫監督がどうにかまとめたものだからだ。喜劇という微妙なセンスが要求される分野で、このような作り方は残念ながら成功しなかった。誰もが佳作を遺して世を去ることはできない、という残酷な事実の前に、頭を垂れるのみである。

 その中で、つみきみほは、変わってはいなかった。はつらつと振る舞い、主人公の赤井秀和を襲う(性的に)、といったシーンもある。あくまで能動的な役柄を貫いているのだ。

 そして〇一年、つみきみほは東陽一監督の『ボクの、おじさん』に出演した。

 この映画は、それこそ格闘して自分を磨かなければ、把握できない映画だと私は思った。

 九州の小さな街で、一四歳の、自分を持て余した少年・細山田隆人が、郵便局に仮面をつけて押し入り、強盗未遂で保護監査処分になる。だが、彼の内心のもやもやは、何ら解消されない。そこへ、祖父の葬儀で、叔父の筒井道隆が帰ってくる。二九歳の彼は、仕事のトラブル、都会で暮らしへのいらだちなどを抱えている。その二人が交流することによって、新しい人生のステージへ乗り出す、かもしれない、といった話……だろう、と思う。

 そこへ、仮面を付けたサトリの妖怪が現われたり、現実と幻想が同じ質で描かれたりして、不思議さをかもし出している。また、さまざまな象徴が現われ、深い意味を持っているように思う。しかし、そうした不思議や象徴、そしてストーリーをも、この映画は一切説明しない。全体が、緑の色調で統一された美しい画面の中で、観客に、考えることを要求する映画である。

 つみきみほは、筒井道隆の彼女として登場し、最後には海外青年派遣隊の一員として旅立つが、この役も、何を考えているのか明瞭ではない。一つ一つの細かい演技や表情を解読するのには、やはり何度か見返し、考えねばならないように思う。


 この二本の映画に共通するのは、男のふがいなさと、それに対するつみきみほの潔さである。主人公を含めた男性たちは、自分の心の問題でうじうじ悩んでいたり、世間のしがらみなどにからめ取られて、身動きが取れなくなっている。その間につみきみほは、はつらつと振る舞い、さっさと自分の行く先を決めて、走り出していく。

 それは、ある意味で、30代を迎え、そうした役を演じるようになったつみきみほの、歳相応のりりしさであるのかもしれない。「少女」から「女」に変貌しようと、つみきみほは、あくまで「りりしい」役を貫き通している、と言える。

 つみきみほを原理と考えるならば、それもまた、少女ヒーローの延長と捉えるべきなのではないか、と今の私は思っている。

 かつて、つみきみほのような女の子と一緒に走ることを夢見た少年は、五〇を過ぎ、もはや日常生活では走ることはおろか、階段の上り下りでも息が切れるほど、くたびれたおじさんになってしまった。それでも、自分が信じてきたつみきみほが走り続ける限り、せめて観客としてでも、追いかけていきたいのである。

 つみきみほはやはり、私にとって、永遠の少女ヒーローなのだ。


(この節、続く)


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