第六節の1 テレビのつみきみほ(1)
●テレビのつみきみほ(一)
つみきみほはインタビュー集『映画愛 俳優編』の中で、「九一年、九二年はテレビを見ていて面白いドラマがたくさんあったんですよ」「テレビは(映画に比べて)もうちょっと細かい感情の動きとか、そういうものをやれるんです」などと語っている。
一般に、映画のほうが演技の細かさを要求されるように思われる場合もままあるが、映画は存外、細かい演技を要求しないものだ、ということは大林宣彦監督も言っている。
実は、私はテレビでのつみきみほを、そう丹念には追っていない。特に連続ドラマは全くと言っていいほど見ていない。
そんな中でも、いくつかの単発の作品は見ている。それをさらってみよう。
東芝日曜劇場が、まだ単発ドラマをやっていた八八年、TBS系列の毎日放送、北海道放送、中部日本放送、RKB毎日のローカル四局が、「日本列島縦断スペシャル」として、四話連続(一局ごとに一本)で制作したのが、『伝言』である。脚本は市川森一が務めた。
戦後の混乱期、三人の大学生が、行きつけの喫茶店のママが亡くなり、八歳になる娘・奥村千草の後見人になった。ところがどさくさに紛れて、三人は娘が相続した喫茶店のある五十坪の土地を、わずか三万円で買い取り、娘を養護施設に入れてしまう。しかしその後ろめたさはしこりとして残り、結局、土地のことはそれきりになってしまった。
それが「今」、バブルの絶頂期になって、その土地を、三億で買いたい、という人が現われた。権利書を持っている三人は、散り散りになっている。そこで仲介に当たる不動産屋・林田(岩城滉一)は、三通の権利書を買い取るために、まず北海道へと向かった。
権利者のひとり、北見(いかりや長介)はその話を断わり、それをきっかけに、今もどこかで生きているはずの千草に権利書を返そうとするが、心臓の発作で倒れてしまう。そこで彼は、自分自身の娘・北見千草(つみきみほ)に権利書を託し、他の二人の元学生にも、権利書を返して欲しい、と伝言を託す。北見は娘に、かつての奥村千草と同じ名前を付けたのだった。
北見千草は、学校が肌に合わず、家を出て、北海道のバードサンクチュアリで鳥たちと暮らしている、という、やや風変わりな少女である。まっすぐに育った彼女は、何にも臆することなく、北海道から東京、名古屋、佐賀と、伝言を伝える旅に出る。
そんな彼女に会った、かつての学生・白浜(二谷英明)は、千草(つみきみほのほう)を「天使」と呼び、四十年間しこりとして残っていた罪を告白する。千草のまっすぐな性格と、鋭い瞳の前では、そうせずにはいられないのだ。彼にとっては、千草はあの千草の生まれ変わりにも思えたのだろう。「神様に懺悔をしたような気持ちだよ」、と白浜は語る。
つみきみ扮する千草は、周りの人間を変えていく、数々の映画と同じ力を発揮している。そういう意味での、「天使」なのである。
物語は、脚本が市川森一であることから、終盤いささか幽霊譚めいた話になるが、結局、三枚の権利書は奥村千草(八千草薫)に返される。奥村千草は、もうひとりの千草に、一緒に暮らさないか、と誘うが、北見千草は「あたしには帰るところがあるんです」、と言い、バードサンクチュアリへと帰っていく。欲と因縁がからむ、バブル期の社会の中で、つみきみほは、あくまですがすがしく、未来へと生きていくのである。
東芝日曜劇場には、この物語に限らず、秀作がたくさん残されており、再放送も、CSでも滞りがちだが、ぜひ、再び見たいものだ。私の録画では、一話が欠けているのだ。
八九年のテレビ朝日制作『マイ・アンフェア・レディ!?』は、サスペンスではない二時間ドラマである。二時間ドラマは、当時、こういう自由な作品も、作っていたのだった。
冒頭、ジーンズのショートパンツ、半袖のTシャツにベスト、野球帽をかぶったつみきみほが、歌舞伎町を歩いている。『テイク・イット・イージー』から『花のあすか組!』へ続く、ボーイッシュな魅力にあふれている。すんなりした手足が、ふっくらとしておらず、少年のようなのだ。この身体性がたまらない。
話そのものは単純だ。元少年課の刑事だった田中邦衛(役名不詳)は、弁護士から人捜しを頼まれる。世田谷の名家の当主である老女が、昔、娘を勘当したが、その子どもが唯一の遺産相続人であるため、何とか会いたいと願っているのだ。それが、つみきみほ(役名不詳)である。田中邦衛は彼女を、三年前に補導していた。
早速彼はつみきみほを探し出すが、養護施設を出て今は浮浪者として暮らしているつみきみほは、手の付けられないような粗暴な不良に育っている。何とか屋敷へ連れて行くが、屋敷の「上品な人びと」とはそりが合わず(それはそうだろう)、ボーイッシュな髪型のことまで笑い物にされたため、すぐに飛び出してしまう。しかし、実の祖母の幸せのため、と田中邦衛に説得されたつみきみほは、弁護士の助手・浅田美代子(役名不詳)の元でマナーを修行し、屋敷へと戻る……といった筋書きだ。
話が単純な分、つみきみほの魅力、特に田中邦衛との絡みでの魅力が、充分にあふれている。反抗的な、あの鋭い目をしたつみきみほを、田中邦衛が柔道でガンガン投げ飛ばし、意気投合していくくだりなどは、他の少女映像には演じられないものだ、と個人的には思う。
九二年、よみうりテレビ制作の『教祖裕子の憂うつ』では、つみきみほは霊感を持つ占い師・裕子に扮している。その人の持ち物に触れると未来が見える、というから、おそらくサイコメトリーだろう。神秘的な衣装とメイクで、薄いカーテンの向こうからお告げをする、という寸法だ。
その能力故に、政財界にも信者は多く、たいへん流行っているのだが、本人は、外界に触れると能力が薄れる、といった理由で、外出もおつきの高見恭子(役名不詳)なしではさせてもらえない。喫茶店にも入ったことがない、という状況で、占いの予約が入っていないときには、レンタルビデオ屋(へ行くのもおつき同行)で借りた映画を見ては、ひそかに雑誌に映画評を投稿することだけが、唯一の楽しみなのである。
憂鬱の原因はもう一つある。彼女が最初に霊感を発揮したのは、幼い頃、父親の死を予知したときなのである。そういうわけで彼女は、自分の能力に嫌悪感をも持っている。
ある日、ついに屋敷を抜け出したつみきみほは、渋谷をうろうろしていて、若い男たちにからまれたところを、古尾谷雅人(役名不詳)に助けられる。「映画みたい……」とつぶやく裕子。翌日また彼女は屋敷を抜け出して古尾谷に会う。初めて乗るタクシー、初めて飲む酒。彼女にとっては楽しいことばかりなのだが、古尾谷のライター(火を点けるほうの)に触ったとき、初めて、何のヴィジョンも見えないことに気づく。彼女の能力は、恋をすると、消えてしまうのである。
この古尾谷雅人が大手銀行の狂言強盗事件に絡んでおり、その事件の関係者が裕子の屋敷に逃げ込んでいることから、話はサスペンス仕立てに進むのだが、私的には、霊能者のつみきみほが普通の女の子になっていく過程しか見えない。許して欲しい。
結局、古尾谷は去り、裕子は占い師を辞め、雑誌社で働くことになる。生き生きとした表情で街を歩く裕子の姿で、ドラマは終わる。脚本・金子成人。
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