第二節の2 『精霊のささやき』

●『精霊のささやき』(八七)エグゼ


(ご注意・映画『精霊のささやき』の詳細を明らかにしています)


 つみきみほは、映画第二作にして、初主演を果たした。植岡善晴監督のファンタジイ、『精霊のささやき』である。

「癒やし」という言葉が、私は嫌いなのだが、この映画は本来の精神分析用語で言う「癒やし」、つまり、心を病む人たちがいかに治っていくか、を静かに、抽象的に描いた映画なのである。現代人の気分的な問題ではない。

 冒頭、静かな雪の平原を、花屋(ひさうちみちお*)の運転するオート三輪が静かにゆっくりと走っていく。その荷台に、すとんとしたグレーのワンピースを着たみほ(つみきみほ)が乗っていて、いきなり、叫ぶ。

「あっ、爆発した!」「光!」

 つみきみほのきんきんした声は、雪原とオート三輪、川井憲次のピアノを中心としたシンプルな音楽――という静けさの中で、違和感を放っている。ここでもう、彼女の役割が分かる仕組みになっている。「異物」としての登場である。

 そしてまた、このセリフは、彼女が、他人には見えないものが見える、ということも表わしている。現に、花屋にも、我々にも見えていないのだ。何かの映画評で、ここは光を映像で表現すべきだ、という趣旨の文章を読んだが、私は、それは違う、と思う。物理的な光ではなく、これは幻視的な光だからだ。

 さて、みほが着いたのは、山奥の療養所・ミモザ館である。彼女が門を入ると、風が吹き抜ける。この風をご記憶いただきたい。

 このミモザ館だが、白と黒のいわゆるハーフチンバー様式である。この映画は色彩設計が凝っており、衣装も道具も、ほとんどがモノクロームに近い色調で統一されている。

 館の人びとは、それぞれに心の病を持つ人たちであり、館長・新田(范文雀)の管理の元、規則正しい生活を送ってはいるが、治るきっかけを持ってはいない。彼らが食事を採るシーンでは、会話というものが全くない。ただ、静かに時を過ごしているだけだ。

 そんな中、部屋を与えられたみほが、夜、熱を計っていると、壁に羊の影が現われ、やがて羊は実体として彼女のベッドにもぐりこんでいる。実はそれは、眠れなくて羊を数えている下丸子(苗字・斉藤洋介*)の夢が、現われたものらしい。みほは、呟く。

「また始まったんだ……」

 これがつまり、みほの幻視能力なのだ。夢に入りこむ能力、と言うべきかもしれない。

 そうしている内に、ベッドの下からは、背広と帽子を身につけた谷(谷啓*)が現われ、「失礼」、と部屋を出ていく。いつの間にかみほは、真っ白で四角い、何もない部屋にいる。それは、摂食障害の紀子(かの香織*)の夢で、彼女は部屋の壁を完成させるために、壁にジグソーパズルを埋め込んでいる。

 このように、この映画は、人びとの夢と現実が交錯し、ときに夢が現実に現われてくることもある。最後まで、どこまでが夢だったのか分からない、まさに幻想的映画だ。

 夢を通じて、人びとの心を知ったみほは、ごく、普通の行為に出る。即ち、現実の世界で、人びとに話しかける。だが答は帰ってこない。この映画では、会話というものがほとんどないのだ。終始、静かな映画の中で、みほだけが明るい大きな声で話す。

 だが夢の中では、現実には口をきかない尾身(加藤賢崇*)も、普通に話してくれる。彼は、大きな赤い風船を転がし続けている。一緒になって転がしている内に、夢はまた互いに交錯し、ふたりは紀子の、自分を閉じこめようとする白い部屋に、壁を崩して入り込んでしまう。必死に壁のパズルを直そうとする紀子。だが、つみきみほが、ジグソーのピースを外してみると、外には、春の野が明るく広がっている。

 そして翌朝、紀子はみほに、初めて「おはよう」、と言うのだ。

 みほは、人びとの夢に入り込み、その殻を壊す。それによって、人びとの心は、変わってくる。それは、規律正しい生活を維持することに腐心し、人びとに心から接しない新田にとっては、快いことではなかった。だが、結果的に、彼女も人びとの、そしてみほの夢に接することで、かえって自分が治癒されることに気づく。

 最後の三十分に繰り広げられる、夢と現実が完全に一体となったシークエンスの美しさは、何物にも代え難い。

 この映画を成り立たせているのは、つみきみほの持って生まれたキャラクターと、個性的な声だ。それがなければこの物語は、浮世離れした、ただのひとりよがりな幻想ごっこで終わったかもしれない(私は植岡喜晴監督に敬意を払っているので、そうは思わないが)。だが、つみきみほの、静寂を打ち破る声、無邪気さを感じさせる演技や表情が、映画の中だけではなく、観客である私たちの日常を、映画という夢と結びつけてくれる。

 小さく、ひそやかなこのファンタジイは、つみきみほの代表作と言っていいだろう。

 何しろ、冬が大嫌いな私が、全くそれを意識しないで観られたのだから。

 植岡監督は、その後『帝都大戦』の脚本を合作したぐらいで(しかもかなり、実際の映画では変わっているらしい)、後はMVなどを製作しているらしいのだが、こうしたデリケートな映画を撮れる監督には、もっと活躍して欲しい、と乞い願う。



*ひさうちみちお――植岡喜晴監督の自主映画時代に『夢で逢いましょう』に出演している。漫画家でもある。

*斎藤洋介――山田太一の『男たちの旅路/車輪の一歩』(七九)が出世作の、名脇役。

・加藤賢崇――竹中直人・いとうせいこうらのギャグ集団『ラジカル・ガジベリビンバ・システム』に参加するなど、多才な活躍を見せる。

*谷啓――コミックバンド『クレージーキャッツ』のメンバー。俳優としてもよく知られる。

*かの香織――バンド・ショコラータのヴォーカル、作曲家としても知られる。


(この節、終わり)

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