第二節の2 テレビ『エコエコアザラク』とその映画
●テレビ『エコエコアザラク』(九七年二月~五月)円谷映像・テレビ東京
二本の映画版に続くテレビ『エコエコアザラク』は、90年代に限らず、少女ヒーロー映像の代表作となった。後に記す事情で放映が頓挫したため、かえって人気は沸騰した。
主人公、黒魔術を操る黒井ミサには佐伯日菜子が起用されたが、このシリーズの成功は、まずこの佐伯日菜子にある、と言っていいだろう。毎回のオープニングで無気味な呪文を唱える声、アップで目を大きく見開いたときの異様な表情で(ホラーなのでいい意味で)、これから何が起きるのか、期待させるのに充分だった。
さて、その第一話(脚本・小中千昭、監督・服部光則)で、ミサは私立聖ヶ丘高校に通っている。学園では、自殺が続いているのだが、その現場にミサがいたことで、同級生の柳郁男(小林正善)、待井博美(三田あいり)、棟丘丈人(北川悠仁*)の三人は、ミサに疑問を抱く。最初の疑問は、そもそもミサがいつ転校してきたか、誰にも分からないせいだった。
現場に描いたサトールの方陣*について問い詰められたミサは、初めて話す。
「落書きなんて、学校だったらどこにでもあるものでしょう。どこだって、いつだってそうだったな」
ミサの漂泊と孤独を端的に表わした台詞だが、ここではまだ、佐伯日菜子の演技は硬い。
その間にも、三人は能動的に、事件について調べる。単なるザコキャラではないのだ。この物語が、佐伯=ミサという希代のキャラを得たことに甘んじず、ひとりひとりの人物像や、行動力が絡んで行くように、小中氏は細大の注意を払っている。
その独自の捜査により、三人は事件の誤った「真相」にたどりつき、逆に危機を招く。
この第一話でのミサは、次のような台詞を話す。
ミサ「魔女なんかじゃないからね」
博美「もう、この学校、いなくなっちゃうの?」
ミサ「私は、この学校の生徒のひとりよ」
あくまでも、普通の高校生、ただ、ちょっと魔術を知っているだけ、というのがこのテレビシリーズにおけるミサの立場である。彼女は邪悪な目的では、決して力を使わない。
第二話(脚本・小中千昭)でも、ミサの魔術は攻撃のためには使われない。学園でのミスコンに当選確実と言われた小平麗(桂木亜砂美)は、ミサの人気に脅威を憶え、呪いをかけるが、ミサが携えているニード*の力で、呪い返しに逢い、破滅する。一歩まちがえれば、凡百の復讐譚になりそうな所を、ミサの天然ボケに近いキャラクターや、計算され尽くした怪奇の作劇で、いつまでも印象に残るエピソードに仕上げている。
しかし、続く第三話(脚本・岡野ゆうき)で、ミサは先生(堀川早苗*)を救うために闘うが、その闘いは魔術を使う者以外には理解し得ないもので、学園を去らざるを得なくなる。
この三話の中で、ミサは五章に詳しく述べる「異物」として充分に機能している。学園はブレザーの制服なのに、ひとりだけセーラー服を着ているといった定石ながら細かい描写、そして、「魔女じゃない」と言いながら、学園での事件に巻きこまれ、黒魔術を使わなければならなくなり、そのために学園を去らねばならない寂寥感。その感情の微妙な動きを、佐伯日菜子の初々しい演技がみごとに表わしている。
四話以降も、スタッフのテンションの高さは見てとれるが、もっと興味深いのは、その闘う、あるいは救う相手は、主に女性だ、ということである。『FIRST SEASON』十三話で、ミサと深い関わりを持つ男性は、ザコキャラを除けば八、九人なのに対して、女性は二十人を超える。魔術には女性がよく似合う。『魔女狩り』というぐらいだ。
前半十二話の掉尾を飾る『ヘカテ』三部作(脚本・村井さだゆき、監督・服部光則)では、東京を舞台として、闇の女神・ヘカテ(麻生真宮子*)とミサとの、命を賭けた対決が繰り広げられるが、村井氏は、小中氏同様、ミサの明るい面を引き出している。
事件を調べている細野京介(山本陽一)に、すでにミサが都市伝説と化している、と白昼のカフェで言われるが、「都市伝説? バッカじゃない」と一笑に付す。時々占いをバイトでやっているが、「普通の女子高生だよ」と言い放つのだ。京介は思わず、「普通じゃないだろう」とツッコむ。その前夜、ふたりは偽のミサが黒魔術で滅びるのを見たばかりであり、そのときミサは冷静に、「黒魔術では、ことばは絶対の力を持つ」、と言い切っているのだから。
昼の明るいミサと、夜の闇に包まれたミサとの二面性を、この若さで表現できたのは、佐伯日菜子の天性の才能と、若手スタッフの持つ瑞々しい感性によるものだろう。
さて、以下の文章は陰鬱な話なのだが、記録として留めておかねばならない。
テレビ『エコエコ』は不幸な作品としても知られる。表現の激しい規制を受けたからだ。
九七年の二月から六月にかけて、後に「酒鬼薔薇聖斗」で知られる「神戸連続児童殺傷事件」が起きた。特に被害者の頭部を切断する、という猟奇的な犯行手段が怖れられ、それを受けて、テレビ局の過剰とも言える表現の規制が行なわれた。具体的に言うと、頭、首を連想させるものは一切、ドラマなどに登場させてはいけない、というものだった。局ごとに対応の多少はあったものの、極端な例では、ドラマ中の美容院でウィッグなどを載せる台(人の頭の形は、まあしているが)が映り込んでいるため放映が延期になった、というのは、当時聴いた話だ。
そのような騒ぎの中でやり玉に挙がったのが『エコエコアザラク』だった。詳しい事情は知らないが、とにかくホラーだ、ということが問答無用で否定されたらしい。一クールを終えた所で劇画原作者・梶研吾氏を監修に迎え、脚本陣も一新されたが、結局、二六話中一八話を終えた所でテレビ放映は打ち切りとなった。
よって、熱心なファンはビデオソフトやLDを買って見たのだが、私は、二クール目のバッドテイストぶりに辟易して(*)、最後までは見ていなかった。
今回、ようやく最後まで見たが、とにかく悪趣味なのだ。悪人の若者たちが、罪もない男女を車でひき殺し、血で『マヌケ』と地面に書き、顔にまで落書きする――という書くだけでも憂鬱になる事件があり、それに対して魔術による復讐があるのだが、単なる異常者なら、それを裁くべきなのは、魔術ではない。あくまで警察だ。法律論の話ではない。
警察を信じない、という人がいるのは知っているし、警察によって被害者の係累が救われるか、というと、そうは限らないだろう。しかし、だからといって私的制裁を加えていたのでは、犯人と同じレベルに自分を貶めることになる。魂を安売りしてはいけない。
……今、詳しく見て、つくづく思うのは、ミサは何と戦っていたのか、という問題である。私の持論ならミサは、関わり合う人間の、人間ゆえの愚かさや邪念、そう言ったものと闘っていた、と言ったら、納得してもらえるだろうか。人間の愚かさと戦う、という展開は、『スケバン刑事』に通ずるものがある。そこが本作を少女ヒーローに加える所以だ。
●映画『『EKOEKOAZARAK Ⅲ MISA THE DARK ANGEL』』(九七)
実際、テレビシリーズは好評だったらしく、同じ佐伯日菜子主演で、劇場版が作られた。『EKOEKOAZARAK Ⅲ MISA THE DARK ANGEL』である。
うーむ……あくまで例えとしておくが、九四分ほどの映画で、三〇分、何も起こらなかったら、席を立つ人がいてもおかしくない。少なくとも、私はそう思う。
で、この映画、実際何も起こらない。今回のヒロイン・木下亜夜(七海彩夏)が悪夢を見て、現実の世界で人が襲われるまで四〇分、敵が現われるまで五八分……と時刻表を書いていてもしかたがないが、とにかく延々待たされて、真相に入った瞬間、終わってしまう映画だった。
脚本監修には、テレビシリーズ後半の監修者、梶研吾が当たり、七月鏡一、林壮太郎が脚本を、監督もテレビシリーズの上野勝仁が撮っているが、テレビなら正味二五分で片づく話を、四倍に引き延ばした感は、どうしても否めない。
*北川悠仁――その後歌手となり、いまは「ゆず」のヴォーカル。
*サトールの方陣――英文字をまさに四角に描いた、黒魔術の道具。
*ニード――魔力を持った、ペンダント。
*堀川早苗――フジ日曜朝枠の『ナイルなトトメス』に主演した経歴を持つ。
*麻生真宮子――別名・麻生真美子。現在、自民党議員。
*バッドテイスト――文字通りの「悪趣味」。過剰な暴力や残酷シーン、下ネタなども挙げられる。それはそれで、ひとつのジャンルなので、否定はしない。ただ、前半との落差は大きかった。
(この節、つづく)
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