第二節の1 「スケバン刑事」(Ⅰ)の1
八五年四~十月 東映・フジテレビ
さて、八〇年代少女ヒーローブームの、もう一つの中核となる作品が、フジテレビの『スケバン刑事』シリーズである。
不良少女(一応*)が悪を倒すこのシリーズは、大映テレビの不良路線が影響して生まれた、ようにも見えるのだが、それは失礼とも思われる。考えられる要因はいくつかあるのだ。
まず、前の章で述べたフジテレビの、映画からのスピンオフによるドラマ、例えば『翔んだ』シリーズなどのヒットから、フジテレビはアイドルを使った、主にジャンルものや漫画原作などをドラマ化していった。
その集大成は、フジテレビの『月曜ドラマランド』である。このゴールデン九〇分枠の単発ドラマシリーズは、ほとんどがアイドルを主人公にした、漫画やSFを原作としたドラマだった。そのかなり多くは、出来に不満が残る物だったが、ジャンル映像路線はそれなりの成功を収めた。南野陽子の『時をかける少女』*や新田恵利の『ねらわれた学園』(第三章)などが、作られている。そうした地盤があって成立した企画、とも考えられる。
また、『スケバン刑事』の前段階に当たる作品に、東映の特撮ドラマ『宇宙刑事』シリーズがある。八〇年の『宇宙刑事ギャバン』に始まるこのシリーズは、刑事ドラマ『特捜最前線』の監督陣によって作られた。いや、『特捜最前線』のほうが、もともと特撮もののスタッフで作られていたのだが、とにかくその監督陣が、『スケバン刑事』には流れ込んでいる。刑事―宇宙刑事―スケバン刑事、と、これらの作品は、同じノウハウで作られているのである。
特筆しておきたいのが、シリーズ第三作、『宇宙刑事シャイダー』に登場する女宇宙刑事アニーだ。当時JACの新星だった森永奈緒美*が演じたこのヒロインは、シャイダーのパートナーであるから、作品内での位置づけからすると少女ヒーローとは言い難いが、銃をぶっ放して大活躍し、主役のシャイダー(円谷浩*)を食ってしまった。しかも衣装はミニスカートだが、そのハンディ(第四節参照)をものともせず、派手なアクションを繰り広げた。これが、いい歳をして特撮を観ている、いわゆる「大きなお友だち」を、ひきつけた。
ただ、少なくとも八〇年代の前半には、いい歳をした男が特撮物にぎゃあぎゃあ言うのは、たいへん恥ずかしいことだった。飲み屋でアニメ研がジョッキ片手にアニソンを歌っていると、他の席から顰蹙の目を向けられる時代だったのだ。それは今もそうかもしれないのだが、酒を止めたので現状は知らない。申しわけない。
だが、アイドルについてあれこれ騒ぐのは、容認されていた。よって、アイドルドラマである『スケバン刑事』は、大きなお友だちの欲求を満たし、しかも何の気兼ねもなく、観たり騒いだりできたのである。こうしたニーズを満たす番組だった、とも言える。
……この意見は、友人から寄せられたものだが、いま、その友人が誰だったのかが思い出せない。高屋良樹*さんだったような気もするが……。
しかし、実際のところ、いちばんの成立要因は、この番組の放映枠に、誰も期待していなかったことによるのではないか、とも思われるのだ。
フジ木曜の午後七時半枠は元々アニメ枠だったが、『J9シリーズ』*などを製作した国際映画社が作った『ふたり鷹』が、同社の倒産で打ち切りになった。そのため、日曜朝9時の『ペットントン』などを成功させていた東映で、脚本も同じシリーズの浦沢義雄を連れてきて、『テレビおばけてれもんじゃ』を作ったが、一クールで終わってしまった。裏に超人気アニメ『キャプテン翼』*があったのだ。当時の人気を知らない人のために言うと、この頃のコミケでは、略称『キャプ翼』の同人誌だけで一区画があったほどなのである。
そういうわけだから、急遽何かを作るときに、とりあえずアイドル主演で、ヒット漫画の原作を、東映のノウハウで作る、というのは窮余の策だったかもしれない。また、この番組が重視されていなかったのは、東宝シンデレラ準グランプリ*の斎藤由貴(東宝芸能所属)を、ほいほい東映作品の主人公に貸してしまったことでも分かる。シリーズ後半、斎藤由貴に東宝での仕事が入るようになり、きついスケジュールで問題が生じた、と聴いている。
識者のご指摘があったのだが、フジテレビでは、木曜の夜七時から『北斗の拳』で、マミヤがヨーヨーで闘っていた(Webで確認)。その後、七時半からが『スケバン刑事』。ヨーヨーで闘う女性戦士の二本立てだった、と。甘い論考を校くのは危険だが、説得力のある話だ。
実際、『スケバン刑事』(以下、他のシリーズと区別するために『Ⅰ』と呼ぶが、この呼称は正式にはない)の画面は、いま見ても、かなりチープなものだった。画面の暗さは照明に費用がかかっていないせいとも思えるし、セットにもあまり力が入っていない。第一回の事件も、まあ、どうってことないような話と言える。
そこに説得力を生んだのは、斎藤由貴の存在感とアクション、脚本陣の乗り、そして、『特捜最前線』から『宇宙刑事シリーズ』でこうした作品の作り方を知り抜いたスタッフの力だ、といってもいいだろう。
斎藤由貴は、いま見返すとけっこうアクションを演じていて、飛んでくるヨーヨーをバックハンドでつかんだりしているのだが、やはり限界はあった。そのためアクションの多くは、吹き替えによって演じられた。この吹き替えを担当したのは、大野剣友会の高木政人氏である。『ペットントン』など、東映テレビ特撮のスタントを多く担当した人だが、『スケバン刑事Ⅱ』の途中でバイク事故に遭い、亡くなった。なんとも残念なことなので、。特に書いておく。
話がそれるが、この吹き替えと役者とのつなぎは、演出、編集を初めとするスタッフの力がなければ成功しないものだ。『007』シリーズではロジャー・ムーアがジェームス・ボンドを長く演じたが、後期のほうになってくると、歳を取りすぎたせいで、吹き替えが見え見えになりすぎてしまい、あまり寛容には見られない。
閑話休題。そうした技術に支えられて、斎藤由貴は、その存在感を充分に発揮できた。それは、独特の情念である。後にコメディエンヌとして活躍する斎藤由貴だが、当初は神秘的な美少女として、むしろ暗いイメージで捉えられていた。彼女の初主演映画が、孤児としていじめられている、というシチュエイションから始まる、相米慎二監督『雪の断章』であることは象徴的である(ちなみに同時上映は大林宣彦監督の沢口靖子主演『姉妹坂』だ)。画面の暗さも手伝って、その情念という印象は、強いインパクトを感じさせた。
では、その情念の正体は、何だったのか。
ふた言で言うと、それは、「強きをくじき、弱きを憎む」、という、これまでになかった価値観と、ふつふつと煮えたぎる怒りの感情である。
強きをくじき、というだけなら、連綿と続いてきた日本映画の歴史の中に確固として存在する、市井の正義感である。だが、強い者、悪い者があいまいになってきた八〇年代の日本では、それだけでは済まなくなっていたのだ。
一つには、建て前の崩壊ということがある。何度も引用するが、前述の『ポニーテールは振り向かない』では、「どうせお前も金が欲しいんだろう」という言葉に、未記は、きっ、とにらんで反論する。
「あたしだってお金は欲しいさ。でもね、人間、やせ我慢をなくしたらおしまいだよ!」
放映当時、私はこの台詞に笑った記憶がある。だが、それから三十余年。人間が、やせ我慢、いや、我慢自体を全くしなくなった社会を経て、現在は我慢を強要され続けるびとが、その理不尽な状況の中でいかに即物的、刹那的な欲望に、衝動的に対処し、尊厳や理性を喪っているかを目の当たりにすると、この言葉は、重い。
さて、我らが主人公・麻宮サキ(斉藤由貴)は、スケバンとして怖れられ、少年院に入っていた。それが、殺人の罪で死刑囚になっている母の助命と引き替えに、謎の存在・暗闇指令によって、学園の事件を解決する特命刑事になる。
ちなみにこの暗闇指令は、第一話で声を聴いた瞬間から、長門裕之以外の誰でもないと分かるのだが、『Ⅰ』のクレジットでは、キャスト名「?」で通している。娯楽作品のセオリーとはそういうもので、例えば、スタア・片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』シリーズ*は、主演の片岡千恵蔵が変装しながら事件を暴くのだが、登場人物も観ている観客も、何に変装しても本人だということは丸分かりなのである。その暗黙の了解を楽しむのも、娯楽のあり方なのだ。
閑話休題。東映において、番長、スケバンと言ったものは、筋が通った人間だ、というのも、暗黙の了解である。大映テレビの不良物も、清い不良がやくざと戦うものであるが、東映は、渡世人=ほんとうの人情を知っている、という長い伝統がある会社だから、番長=悪人とはならない。何しろ、梅宮辰夫のヒットシリーズ『不良番長』など(六九年~七二年)は、番長に、わざわざ「不良」と付けているのである。そのため、梅宮辰夫はその不良ぶりを強調するために、冒頭でバイクを盗んでみたり、小さな(あくまで比較的に)悪事を働く所を見せておいて、しかも結局は、巨悪と戦うのである。
そういうわけだから、麻宮サキもおそらくは、筋の通った不良だったに違いない。作品が重くなるのを避けてだろう、収監前のサキが何をしていたのかは描かれないのだが、サキが帰ってきた鷹乃羽学園を、後を継いで束ねているちゃらちゃらした不良、夢小路美也子(渡辺千秋)に対して、クラスメイトがこう言うシーンがある。
「美也子さん、美人で聡明なあなたがケンカするなんて、おかしいわ。その上あなたは番長なんだし、みんなの模範にならなくっちゃ」
そんなスケバンがいるかい! と思うが、東映の番長感とはそういうものなのだ。
その筋が通った番長が、よりによって官憲の立場に立つことは、非常な屈辱であり、筋を曲げたことになる。だいたい、元番長の一介の女子高生が、たとえ悪人であろうが罪を糾弾したからといって、どうだというのだ。「大人をなめんじゃねえ」と言われればおしまいである。
そこで導入されるのが、「だがな」、の論理である。
麻宮サキは、現場へ乗り込むと、武器であるヨーヨーに仕込まれた桜の代紋(警察の紋章)を見せる。すると、悪人は必ず、「桜の代紋!」と驚く。冷静に考えるとおかしな話で、やはり「大人をなめんじゃねえ」なのではある。しかし、そこでびびらせておいて、おもむろに、サキは名乗りを挙げる。
「仮にもスケバンまで張ったこの麻宮サキが、何の因果か落ちぶれて、今じゃマッポの手先。笑いたければ笑うがいいさ。だがな、てめえらのように魂まで薄汚れちゃいねえぜ!」
これも、伊藤かずえの「やせ我慢」発言と同じである。「そんなこと言ったって、お前はただの不良じゃないか」、というつっこみを前もって予測し、いったん受けておいて、「だがな」、それでも許せないことはあるのだ、というクロスカウンターを放つのだ。
正義が善であり、絶対であった時代には、必要なかったことだろう。だが、正義が建前と感じられ、人間本音は金や力だ、と言われてしまうようになった八〇年代に、敢えてヒーローを成立させるには、こうした仕掛けが必要だったのだ。
そしてそれは、社会や生産力のしがらみに束縛されず、また、何をも持っていない、観念的な少女にこそ、言える台詞だったのである。
女子高生が金を湯水のように使ったとされ、商品市場のターゲットとしてクローズアップされるようになったのにつれて、少女ヒーローが衰退したのは、偶然ではないのだ。
『スケバン刑事』Ⅰが放映された八五年の五月、後にバブル景気のきっかけとされるようになったプラザ合意*が成立した。まさに、バブルによる人心の荒廃の始まりだった。
*不良少女(一応)──原作から映像化、さらに今(二一年)『月刊プリンセス』でリメイクがされている『スケバン刑事』の総てにおいて、ヒーロー・麻宮サキがスケバンとして何をしていたのかは描かない決まりとなっている。
*森永奈緒美──JACの新星として期待されたが、数奇な運命をたどって、一時は俳優を引退していたが、最近ではVシネなどで復活している。
*南野陽子の『時をかける少女』──タイム・パラドックスを「無視する」という豪快な手で解決したドラマ。若き日の本田博太郎が助演している。
*円谷浩──円谷英二の孫。これが初出演。未来を嘱望されたが、三七歳にて惜しくも亡くなった。
*『J9シリーズ』──国際映画社を代表するスペースオペラで、『銀河旋風ブライガー』『銀河烈風バクシンガー』『銀河疾風サスライガー』の3作が作られ、得に、宇宙SFに『必殺』の要素を取り入れた『ブライガー』は好評を得た。
*『キャプテン翼』──日本のサッカーアニメで、最高にヒットした作品。原作はその後も続いている。
*準グランプリ──第一回。グランプリは沢口靖子、審査員特別賞が『風間三姉妹の逆襲』の敵役、藤代美奈子(その後、藤代宮奈子)。フジ・新田恵利の『ねらわれた学園』(後述)で高見沢みちるを演じた。
*『ぺっトントン』──フジ日曜朝枠の人気ドラマ。座らないと入れない着ぐるみでスケボーをこなすなど、超人的なアクションだった。
*多羅尾伴内シリーズ──東映の人気映画シリーズ。探偵・多羅尾伴内(その正体は「正義と真実の人」藤原大造)が、片目の運転手(どうやって免許を取ったんだろう)手品好きのキザな紳士などに変装しながら、悪人と闘う。ネットで調べたら、どう変装しても、片岡千恵蔵にしか見えないことに、まじめに非難を浴びせている「純粋な」人がいた。後に小林旭の主演で、二作、リメイクされたが、伝統を受け継いで、流れ者の木こりなどになって現われる。
*プラザ合意──アメリカの経済回復のため、日、仏、英、独の各国と、過度のドル高を是正するために強調介入することを合意した。ひとことで言うと極端な円高。円の価値が高まったので、余った金で土地を買い漁ってビルをやたらと建てたり、海外の名画を買い漁ったりした。
(この項、つづく)
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