第一節の5 「乳姉妹」
1985年4月~10月 TBS、大映テレビ
『不良少女とよばれて』の後、大映テレビは、小泉今日子主演の『少女に何が起こったか』を製作した。この物語は『赤い』シリーズの系譜を継ぐ、出生の秘密をモチーフにして、天涯孤独の身でお屋敷に引き取られた野川雪(小泉今日子)が、ピアニストを目指す過程で、いじめに遭ったり、ピアノに鍵がかけられて練習もままならず、紙に書いた鍵盤で練習しようとするが、「ダメッ! 紙の鍵盤じゃ指が沈まない」(当たり前だ)と途方に暮れていると、謎の男・宇津井健が、真夜中にひとの家に現われてピアノの鍵を開けてくれるのだが、実はその宇津井健がお屋敷の不正を探る検事だったり、と増村保造的な作風のものだ。
これはあくまで風聞なのだが、『不良少女とよばれて』は成功したものの、主演の伊藤麻衣子と国広富之は、不良礼讃のドラマに出たということで、バッシングを受けた、とも言われている。肝腎の『不良少女とよばれて』も、東京では一度、再放映されたのみとされている。
いや、それのみならず、一連の大映不良ドラマ、また『スケバン刑事』も、ある時点から再放映はされていない(地方によって異なるが)。『映画秘宝』*でこの辺のドラマを扱ったときの話では、やはり、不良礼讃というのがまずいのだ、という。
じゃあ、陰湿ないじめや、障碍者への迫害を扱った「名作」ドラマで知られる高名な脚本家はどうなのか*、と思うのだが、こういうことには誰も責任を取らないので無駄、と思い切って……。
それでも、先の二人へのバッシングは、不良側を演じた松村雄基、伊藤かずえには適用されなかったらしい。八五年、大映テレビは不良ドラマと、『赤い』シリーズのどろどろした家族劇を統合した作品を発表する。『乳姉妹』である。
この作品がどういう物語かは、芥川隆行*が毎回オープニングで語る、長いナレーションをきけば、一発で分かる。
「春の暴風雨〔あらし〕の その夜中
二人の嬰児〔みどりご〕生まれたり
同じ海辺のその里に
一人は広き別荘に
一人は狭き賤が家〔しずがや〕に――
この物語は、吉屋信子の傑作小説『あの道この道』*をベースに、運命に翻弄される二人の少女が、時には敵となりながら、自分の人生を自らの手で開く姿を通じ、人生とは何かを問うものである」
もう、これだけで充分、とさえ言えるほどのヴォリュームだ。
このナレーションに合わせたタイトルバックの映像も、分かりやすいこと、この上ない。次のようなカットで構成されている。
夜の海、消えそうなたき火/走る貨車、ポイントが切り替わり、二両の貨車がそれぞれの方向へ分かれる/嵐に翻弄される風見鶏/嵐に揺れるブイ/戦う二人の少女/波にさらわれる親子のコアラのぬいぐるみ/二人の女児/子どもを抱えて走る女/渡辺桂子をリンチしている伊藤かずえ/親子の馬/走るバイク/夜の海辺でトランペットを吹く松村雄基/ほえる狼/走るバイクと鶴見辰吾/菜の花畑で手を取り合う渡辺桂子と伊藤かずえ。
エイゼンシュテイン*にぜひ見せたいものだ。
ただ、これだけならば、少女ヒーローを語る本校においては、あまり触れる必要がないのだが、この作品はこれまでにない特色を持っていた。即ち、「集団劇」としての要素である。
ふとしたことからお屋敷に引き取られた貧乏な子・松本しのぶ(渡辺桂子*)と、引き取った先のお嬢様・大丸千鶴子(伊藤かずえ)が、実は出生時に取り替えられており、自分が貧乏人の子だと知ってやけになった千鶴子は不良に転落し、そこに、関東渡り鳥連合・会長(あいかわらずのネーミング)の田辺路男(松村雄基)と、千鶴子の婚約者であった雅人(鶴見辰吾)がからんで、もつれ合いながらドラマは進んで行く。その間にも路男は、「俺の体の中には、黒い嵐が吹き荒れてる」とか、「俺が地べたを這いずり回る虫けらなら、あんたは天上に咲く赤い花とでも言いてえのか」などと、セリフを決めまくる。
千鶴子の気持ちを知ったしのぶは、なぜか(まあ説明はあるが)自分も不良になって、対等に話し合おうとする。あくまで不良は「タイマン勝負」なのである。まあ、その勝負というのが、両側から和太鼓を叩くことだったりするのが、大映テレビだが。
そして、これがリアルな不良ではない、ということを、よくかみしめて欲しい。
個人と個人が本音でぶつかり合うために、すべての社会的地位を捨てて、タイマンで勝負する。これが、私の言う「ヒーロー」の思想だ、と思っている。
きわめて性差別的だが、かつて女の子はよく群れたがる、と言われていた。気に入らない子をいじめるのでも、糾弾するのでも、必ず何人組かで当たるのが普通だ、と。
この番組を見ていた頃には、私はそういう性差別的思考から、より、こうした番組の、「少女ヒーローの決然たる孤独」を味わっていたのだが、その後、男の子も群れるのだ、という事実、更に、「男の子」ならいざ知らず、社会人になどなった日には、派閥なしでは生きていけないような男性の姿を見て、考え直した。その風潮は、どんどんエスカレートしていったのか、あるいは、私には見えていなかったのだろう。
その、実は群れ社会である男の世界に、少女ヒーローは決然と向き合っていたのだ。
かくて、たぶん主演だったはずの渡辺桂子の押し出しが弱かったせいや、鶴見辰吾の奮闘もあって、この四人は、ほぼ対等な人物として描かれる。そして、ひょっとしたら、製作者も考えていなかったかもしれないような結末へとドラマはなだれこむのだ。
千鶴子はいつか路男を愛するようになる。路男は母のせいでぐれていたのだが(またしても、親子の葛藤だ)、千鶴子に出会うことで立ち直り、トランペッターへの道を志す。だが、彼の体は病魔にむしばまれており、ついには片腕を切り落とさねばならなくなる。
その路男を、千鶴子は文字通り、支える。というのも、トランペットというのは両手がないと吹けないので、千鶴子はステージの上で横からトランペットを持って支え、路男は片手でキーだけを押して、演奏しているのだ。
そんな奴がいるかい、と放映時の私はテレビにつっこんだのだが、これほどのインパクトが、今のテレビドラマにどの程度あるだろうか。真摯に受け止めても罰は当たるまい。
千鶴子を取られてしまった雅人は、荒れ、酒に溺れる。それを慰めるのがしのぶ。だが、最終的には、病魔に完全に冒された路男は、故郷・真鶴の海を見に、漁船に乗る。そこには、他の三人もいて、みんなで夜明けを見に行く。夜明けを見ながら、路男は目を閉じる。彼らはそこでようやく、千鶴子たちが具現した、無償の愛の尊さに目覚めるのだ。若者たちは、今、一つになった。芥川隆行のナレーションが入る。
「そして彼らは、魂の輝くままに、光の中で、一つの王国を築くであろう」
この集団劇は、後に触れる「家族の再構成」の一翼をも担っていた。これまでの家族の崩壊と混乱が、新しい家族、新しい友人や愛情の関係を築く、という物語である。
しかし、この結末は、はっきりいって、主役の交代でもある。つまり、いつしかドラマは、松村・伊藤の話になってしまったのだ。
やはり、『正しい不良』は強かった。
こうした番組を、単純に不良礼讃と呼び、忌避する人たちには、彼らの「ハンパじゃない」生き方を(しかもドラマの上のことだ)しっかりと受け止める読解力があったのだろうか。
しかし、こうして大映テレビ作品は、一つの頂点を迎えたのだった。
*『映画秘宝』──該当書は『夕焼けTV番長』。あとで触れる『禁じられたマリコ』を詳しく説明している。
*高名な脚本家──今では通じないだろうが、初稿当時に大人気だった、野島伸司氏への皮肉。
・芥川隆行――『水戸黄門』など、名ナレーターとして活躍した元アナウンサー。大映テレビにおいては、芥川隆行が言えば、どんなに不可能なことでも可能になる。
*高名な脚本家──今では通じないが、初稿当時に大人気だった野島伸司への皮肉。
*『あの道この道』――戦前を中心に活躍した少女小説の泰斗、吉屋信子による三四年の小説。言うまでもなく、原作は跡形もない(読んで確認した)。
*エイゼンシュテイン──モンタージュ理論を確立した映画監督。モンタージュとは、複数のバラバラなカットをつなぎ合わせることで、意味を表現する技法。
(この節、終わり)
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