第一節の4 「不良少女とよばれて」(2)

(前回より)

 笙子は模範的な生徒となり、仮釈放が決まる。それを察知した葉子は、何とか阻止しようと、学園に笙を教えに来ていた(えっ)哲也の大事な笙を奪い、返して欲しければタイマン*で勝負しろ、と笙子に挑む。乗ったら仮釈放はなくなるだろう、決して挑発に乗るな、と哲也に言われ、笙子は悩むが、結局、葉子が笙を隠した小屋へと深夜に赴く。だがそこには麻里が同行していた。笙子の影響を受けて生まれ変わろうとし、友情をも結んだ麻里は、とっさに笙子を突き飛ばし、小屋に鍵をかけて葉子と勝負に出る。そのはずみで小屋は火事になる。笙子と葉子は逃げられたが、麻里は笙を守って絶命する。

 その知らせを、刑務所の中で聴いた朝男は、宙をにらむ。愛せなかった、だが一途だった女への思い。同じ房にいるおっさんたちは、何かくだらない話でへらへらと笑っている。朝男はぎろりとにらみ、ひとこと。

「おっさん、知り合いが死んだんだ。今日一日、笑わないでくれ」

 それでもおっさんは、「笑おうと、屁えひろうと勝手じゃないか」と取り合わない。すると朝男はその胸ぐらをつかみ、言い放つ。

「バカヤロー、人が死んだらよお、世界中はそのひとりのために泣くべきだぜ!」

 ここには、命の重さが、ごくデフォルメされた形だが強く表わされている。

 私は、ドラマであっても人の死を賛美するのは好きではないし、むやみに登場人物が死ぬのには否定的だ。ただ、作劇において、誰かが死なねばならない場合はあるだろう。問題は、そこでの死の扱われ方ではないだろうか。

 朝男のセリフは、それを強調している。デフォルメと校いたが、むしろ、それこそ胸ぐらをつかまえて言いたいような言葉ではないか。しかもこの番組の最終回、全ての事件が終わり、静かな結末を迎えたときに、笙子や葉子が最後に心の中で呟くのは、哲也のことは置いておいて、まず、「麻里、許して」なのだ。自分たちを救ってくれた友情、その思い、そして許しを乞う気持ちは、実はこのドラマでは、哲也や朝男への愛より強い描かれ方をしているのである。

 それだけの重みを持って描かれるのならば、それは単なる盛り上げのための死ではない。それぞれの人物の中に、生き続けていることが分かるからだ。

 そしてこの死によって、愛憎に揺れていた葉子は、ついに目覚め、自らにけじめをつけるため、罪を認めて少年刑務所へ赴くのである。

 こうして完全に立ち直り、愛育女子学園から仮釈放された笙子は、不良には戻らず、哲也と共に民間舞楽の道へ進む。朝男も更生し、学習塾の経営者として(これにはさすがに驚いた)笙子たちをバックアップする。だが物語はまだ清算されていなかった。

 哲也に婚約を破棄され、更に不幸が重なった恭子は、夜の商売(体は売っていない)に身をやつしていたが、会社社長・酒井(重田尚彦)なる男に拾われる。この男は根っからのワルで、恭子は覚醒剤中毒にされた上で、自暴自棄になって酒井と結婚することになるのである。

 それを知った笙子は、朝男と共に再び不良にカムバックし、酒井の陰謀を阻止しようとする。二度と戻らないと誓った道だった。だが恭子が不幸に陥ったのは自分のせいであり、彼女を救わねばならないと決意したとき、笙子は敢えて不良に戻ったのだ。

 この発想は、時代小説、あるいは任侠映画の渡世人を思わせる。カタギの衆に恩を返すために命を賭ける、といったところだ。平和な市民社会を守ろうとする、孤高のヒーローの姿でもある。そして、すさんだ不良だった主人公たちが泥沼から抜け出し、不正なる者への真の怒りに目覚めていく、その成長の過程でもあるのだ。怒りは少女ヒーロー作品の重要な鍵である。

 さて、真の悪党・酒井は、刑務所を出た葉子にも手を伸ばしていた。もはや利用価値のない恭子を結婚式のあと殺害し、保険金を得て、葉子と改めて結婚しようと言うのだ。葉子はそれに同意し、周囲の非難を浴びる。

 だが、酒井と恭子の結婚式に、笙子と朝男が乗り込んだとき、それを止めた葉子は、自分が酒井とタイマンで決着をつけようとする。彼女もまた、「義」に殉じようとしたのだ。

 そこへたどり着いた哲也は、この期に及んでなお、一同を説得しようとする。はっきり言って甘いのだが、彼は理想を語る人として、命を賭けて全ての人を説得し続けてきたのだ。哲也は恭子を救い出すが、酒井の仕掛けたダイナマイトで爆死した。死の瀬戸際に、彼は笙子たちに、憎しみのない正しい世界へと進むよう、やはり説得する。

 大映テレビのドラマでは、全ての人間が、死ぬか、改心するか、改心して死ぬかしないと収まらないようにできているのだが、哲也の最期の言葉も、その役割を果たしている。彼の命がけの説得によって、ようやく全ての人、少女たちを傷つけた両親なども、憎しみと争いのない道を歩むことを、心から誓えるようになるのだ。

 そしてその時、不良仲間の若い女の子・恵子(立原ひとみ)は、あたかも哲也の生まれ変わりであるかのように、男の子を出産する。死と再生の象徴的なシーンだ。

 笙子の父、宮司の聖一郎(山本學)によって哲也の神前葬式が挙げられる。そこには今まで関わった全ての人が集まっている。そこで笙子、葉子、恭子の三人は、舞楽を奉納する。全ての罪を浄化する儀式である。

 その舞の長い時間に、今までの出来事が三人の回想としてインサートされるのだが、この作品の非凡さは、それが哲也への思いという感傷だけでは終わらない点にある。回想にかぶって、笙子らを立ち直らせた愛育学園の院長・丹波秀介(名古屋章)が、教え子の不良少女たちに語った、長いセリフが流れるのだ。一部を省略するが、ここに記しておく。

「諸君のほとんどは、両親の愛に恵まれず、非行に走ったはずだ。だが、心の奥底では、諸君はいつも、愛を求めていたはずではなかったか。だとしたら、ここで考えてみよう。諸君がこの世に生まれたのは、父や母を憎み、自らを卑しめるためではない。――いや、諸君の両親を許せと言っているのではない。憎んでよろしい。ただし、ただ憎むだけではだめだ。わしは諸君に、親の過ちを決して繰り返さない女になってもらいたいのだ。自らを卑しめず、自分の子を卑しめない、そういう母親になってもらいたい。諸君がそのような女性になったとき、初めて諸君は、自分の親を許すことができるようになるだろう。

 最後に、わしは言う。呪われてこの世に生まれてくる子は、ひとりも、いない」

 これが単に少女に対してでも、また、非行に対して限定された言葉でもないことは、お分かりいただけると思う。そしてまた、およそ四〇年を経た今、この言葉の重みは、いっそう増しているのではないだろうか。たとえきれいごとにきこえようとも……いや、きれいごとのどこがいけないのか。命を賭け、血を吐く思いで勝ち取った、善の象徴の言葉ではないか。

 『不良少女とよばれて』が、愛という八〇年代的なお題目を中心に据えながらも、その実は、親との闘い、そこからの脱却と成長を語ったものであることは、この構成から明らかだ。

 そして最後に、憎しみを経て、それを超えることによって、初めて争いのない世界が生まれる、と笙子は感じ、初めて「あなた、愛をありがとう」と呟いて、この長い物語は終わる。

 かつての男性ヒーローは、強きをくじき、弱きを助けるのが伝統だった。だが、この作品では、弱い人間の弱さとも戦わねばならない、と歌い上げているのだ。それは、己の弱さに甘え、弱さをもって自らを正当化しようとする時代への抵抗ではないか。人間の弱さや憎しみをも肯定した上で、それをばねにして強く、潔く生きることを丹波の台詞は差し示しているのだ。

 これこそが、少女ヒーローの姿なのである。


(この節、おわり)

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