第四節の6 角川=大林の時代(総括)

 七〇~八〇年代に角川映画と大林宣彦がやったことは、まず、娯楽映画に力を入れたことである。それも、明るく贅沢に見えるもの。それは時代の要請によって出てきたものとも思われる。七〇年代初頭、松任谷(荒井)由美がフォークをニューミュージックにしてしまった*ように、邦画を「娯楽映画」として、包み紙をきれいにしたのだ。

 そしてまた、徹底してジャンル映画を作った、ということである。ミステリ、ホラー、SF、特撮、ファンタジイ……今の日本映画の状態を見ると、どれだけ邦画がそっちへ動いたかよく分かるが、本稿で重要なのは、それがアイドル映画に波及した、ということだ。

 それまでのアイドル映画で私に語れるのは、やはり百恵・友和ものだろう。例えばもっとさかのぼって六九年、黛ジュン主演の『夕月』*などもあるのだが、七三年にデビューした歌手・山口百恵は、映画やテレビで大きな功績を残した。その相手役として選ばれたのが三浦友和で、七四年の『伊豆の踊子』に始まるふたりの主演作は興行ランクの上位を占め、年に二、三本の割で公開されてヒットした。その後、角川を除いてこんなスタアはいない。

 百恵・友和映画を追うと、『伊豆の踊子』は川端康成、三島由紀夫の『潮騒』、谷崎潤一郎の『春琴抄』……教科校の文学史に出てくるような「名作」ばかりだ。「知名度の高い、『いい』原作*」を持ってくれば当たる、という考え方と言える。建て前というものが映画界にあった時代のことだが、角川の功罪の罪の部分はこれで、作品の建て前を崩してしまった。

 ただ、それは、世の中がそもそも、建て前を大事にしなくなった現われなのかもしれない。


 私は、最近になって百恵=友和の第一作『伊豆の踊子』を見たが、若いふたりの瑞々しさには好感を覚えたものの、かなり制作費を安く上げた感が見受けられる*。現代から見れば、意匠の面で、ちょっと物足りないという感じだ。名作は名作だし、偏見なしに見ていただきたいと思うので、これ以上は突っ込まないでおく。

 ところがこの名作シリーズも、角川=大林以降には変化を見せる。七七年の『泥だらけの純情』は、大スタア、吉永小百合が主演した映画のリメイクだが、同時上映が『ハウス』だった。しかも、『ハウス』が受けたらしい。私の情報は大林監督寄りのものが多いので、一種のホラかもしれないが、『ハウス』『泥だらけの純情』が歴代の百恵・友和映画の中で、もっともヒットしたのは事実だ(九・九億の配収)。

 かくいう私も朝一番で映画館に行き、『ハウス』を三回観るために『泥だらけの純情』も二回観たものだ。当時は一回ごとに入れ替えがある、という興行形態ではなかった。このことが、日本映画の首を絞めている、と思うことがある。映画を理解するには、一回では足りないことがしばしばある。それは、いまの入れ替え制上映では、非常にキツいことになる。

 それはさておき、『泥だらけの純情』を経て、百恵・友和のシリーズは文学から外れていく。次の『霧の旗』は社会派・松本清張のミステリで、同時上映は『惑星大戦争』。『スターウォーズ』ブームにあやかって東宝が二年ぶりに作った特撮映画で、宇宙人の乗ったガレー船に地球人が特攻するという話だ。それでも特撮だから喜んだが……。

 そして翌年、百恵・友和映画は、初のオリジナル脚本『ふりむけば愛』で、大林宣彦を監督に招く。邦画界の大転換と言える。文学でもないし、映画会社があくまでもCMディレクターに「過ぎない部外者」*にドル箱の映画を撮らせる時代ではなかったのだ。

 再びお断わりしておくと、大林宣彦は、今のような評価ではなく、ただ、わけわかんない中身のない映画を撮るが若い人には受ける、という認識だった。で、『ふりむけば愛』だが、ほんとに中身がない。どうも、ジェームズ三木が最初に校いたサスペンス物語がキャンセルされたためらしいのだが*、アメリカで知り合った若い男女の、単純な恋愛話だ。大林宣彦によれば、この映画がきっかけで、二人は結婚を決意したらしい。

 山口百恵についてもう一つ校いておくと、この人はテレビでも、『赤い』シリーズが大ヒットした。言うまでもない、大映テレビ作品*である。その延長線上にあるのが、少女ヒーロー作品『不良少女とよばれて』などである。


 こんな風に、七〇年代にはアイドル映画=文芸映画、という図式があったのだが、80年代の角川映画によって、ひとつの流れができた。これからは、ジャンル物の時代だ、と。

 いろいろ異論もあるとは思うが、とにかく、その後のアイドル映画に、ジャンル性が生まれたことは事実だ。もちろん、全てがそっちへなだれ込んだわけではないが。

 そう言えば、『時をかける少女』の翌年、八四年には、第一回東宝シンデレラが開催され、準グランプリに斎藤由貴が選ばれている。映画デビュー作は相米慎二監督のサスペンス映画『雪の断章』。なんか、歴史は繰り返す、という感じがしないでもない。


 話がとっちらかった。とにかく『時をかける少女』以来、アイドル映画にジャンル性を持ち込んだ物が確実に生まれてくる流れができた。ただ、どういうわけか、みんなどこか、個性的な映画が多かったのである。いい意味でも、そうでなくても。

その顕著な例を、次回からいくつか紹介しておく。


【注】

・ニューミュージック――命名したのは、荒井由実の所属していたアルファレコードの社長・村井邦彦(石坂浩二の『悪魔の手毬唄』の音楽でも知られる)。フォークというジャンルに収まらない、新しい売り方を考えてのことだったそうだ。

*『夕月』――六九年の、歌謡映画(流行歌を元にして作られた映画)。純愛もの。

*「いい」原作――これは、はっきり建て前と言える。というのは、私が小中学校の頃には、『文部省推薦』の名目で、『伊豆の踊子』などの割引券が学校で配られていたからだ。

*『伊豆の踊子』――監督・西河克己によれば、ラストシーンはもうちょっとだけ余裕があれば、ストップモーションで終わらなくても済んだらしい。

*「過ぎない部外者」――つまり、撮影所出身ではない、ということ。

*ジェームズ三木のサスペンスドラマ―― 小説として発表された『逢えるかもしれない』(集英社文庫)が、それではないかと思われる。丹沢の山中で全裸の若い男性が発見されるところから始まる、若い男女のラブストーリーで、サスペンス。

*大映テレビ ――第二章でその後を扱っているが、この時期、『赤い』シリーズとは別に制作した山口百恵主演のロマン・ロラン原案の『人はそれをスキャンダルという』(78年11月~79年4月)では、第一話の監督に大林宣彦を招いている。大林監督はシリーズ前半のオープニング映像も担当していて、これが絶品の「大林映画」。


(この節、終わり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る