第四節の2 『金田一耕助の冒険』の意義
『ハウス』には中身がない、と叩かれたが、その頃の大林宣彦は、自らもそれを誇示する発言をしていた。主張があればよしとする当時の日本映画への挑戦だったのだろう。内容がなくても、贅沢な画面を作らないとだめ、という。
その志向に注目したのは、やはりというべきか、角川春樹だった。大林宣彦が角川映画で撮った、自身の四本目の作品、『金田一耕助の冒険』は、映画ごっこのような映画だった。あちこちにパロディがちりばめられ、またも合成と照明で、人工美を作り出している。
ただし、この映画の白眉は、古谷一行の金田一耕助が最後に長々と語る、フィクションにおける探偵論と日本人論なのである。あまりに長いので割愛しようと思ったが、ソフトを見ない限り分からないので、ご紹介する。
「だいたい事件ってのは、一から十まできっかり収まる所へ収まるってもんじゃないですよ、現実には。どうしたって、矛盾が後に残るもんなんですよね。それをワンパターンだって言われりゃ、立つ瀬ありませんよ。日本の犯罪ってのは、どうしたって、家族制度や血の問題がからんで来ちまうんだ、それは、日本の貧しさなんですよね。……等々力さん(警部・田中邦衛)、探偵ってのはね、ひとつの事件に対して、怒りや憤りを持っちゃいけないもんなんですよ。ひとつの殺人から、どう広がっていくだろう、そしてこの殺人がもうひとつの殺人を産むんじゃないかしら、そう考えることが楽しいんですよね。……私だってね、事件の途中で犯人を予測することはできるんだ。でもね、でも、……無闇に犯行を阻止すべきじゃないって気がするんですよ。事件ってのは、ひとり歩きしますからね。ただ、それを温かく見守ってやる気持ちが必要だと思うんです。ひとつの殺人に触発されてもうひとつの殺人が起こる。犯罪ってのは、成長しますからね! それに私、日本のおどろおどろしい殺人って好きなんです。毛唐みたいに、ピストルばんばん撃ち合う、明日の殺人と違って日本の殺人は、過去の魑魅魍魎を払い捨てるための殺人なんです。……人を殺せば殺すほど、絶望的になっていきますもんね、日本の犯人は*。世界中どこ捜したって私ひとりですよ、犯人の気持ちを、思いやる探偵なんてのはね。(後略)」
(出版物がないので聴き書き)
この映画のダイアローグライター)はつかこうへいで、そのセリフ回しの特徴も出ているように思うのだが、大林宣彦が書いたか、アレンジしたものかもしれない。何しろカット割りの細かい映画の中、このシーンは一シーン一カットの長回しで、力の入り方が尋常ではない。
角川商法までをギャグのネタにしたこの映画でなければ、探偵論などというものが、こんなに真っ向から語られることはなかったのではないか。もちろん、内容には異論もあるだろうが……。
この作品も黙殺され、大林ファンと、一部の横溝ファンの間にだけ、残っている。
さて、この後に角川=大林が撮ったのが、薬師丸ひろ子の『ねらわれた学園』だった。
『ハウス』よもう一度、という考えが大林宣彦にはあったと言うが、予算もスケジュールも遙かにきついものだった。新宿中央公園でロケしたりしながら、薬師丸ひろ子の春休みの間に撮ってしまう、という条件だ。熱烈なファンはいるのだが、私個人には、ちょっと完成度が……と思えた。脚本(葉村彰子*)も、パッとしないと思う。
こういう形での商業性はもういい、と自分でも思ったそうで、大林宣彦は、次の作品『転校生』を、故郷・尾道で、しかもATGで個人映画のように撮る。製作が頓挫したり、予算がなかったりで大変だったと言うが、結果的に、尾道という環境によって、大林宣彦は生き返った。自分が最もその美しさを知っていて、協力者もいる場所だったから。
そこへ角川春樹が、またしても目を付けた少女・原田知世を託して、『時をかける少女』が撮られるのである。
*絶望的になっていく――原作の金田一耕助も、事件解決の後、自己嫌悪に陥って、旅に出ることがしばしばある。それも犯人の絶望を感じたのだと思えば、この台詞は正しい。
*ダイアローグライター――台詞を書いた人。脚本は斎藤耕一、中野顕彰。
*葉村彰子――かつては向田邦子なども参加していた、脚本家集団の統一名義。『水戸黄門』などを作る。
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