第四節の1 大林宣彦監督

 大林宣彦監督は、ある年代の人間には、カリスマ的魅力を持っている。

 「カリスマ」という言葉を安易に使うのには抵抗がある。しかし大林宣彦の監督作品は、ある人びとにとっては映画以上の、人生そのものとすら言えるものであり、私もそのひとりなのである。七七年の劇場デビュー作『HOUSE/ハウス』(以下『ハウス』と略記)に、旅先でふらっと入った映画館で出逢ったときの衝撃など、話し出したらきりがない。

 しかし本稿はエッセイではない。少女映像への影響に絞ってみよう。可能な限り。


 大林宣彦が「カリスマ」たるそもそもの由縁は、デビューからしばらくの間、攻撃と黙殺を食らっていたことにある。受難こそ教祖の必須要素だから。

 昨今の、地方都市や戦争の悪夢を細やかに描く大林作品のイメージからは、想像できない。しかし『ハウス』は、映画評論家には映画ではないと、さんざんに叩かれた。その位置づけは、『キネ旬』の読者ベストテンでは四位、しかし批評家ベストテンで二一位、という数字に現われている。二一位なら立派なもんじゃないか、というご意見をいただいたのだが、点数で言えば四〇点、投票者は五八人中、七人だ。

 まずその、中身のなさについて触れておく。テーマのことも言わないと、納得しない人もいるだろうし。『ハウス』以来、大林宣彦が言っていることはひとつなのである。

 「伝説が、現実と対等に向き合ったとき、どちらが勝つのだろうか」

 これが大林映画のほぼ全作品に通じる、基本主題だ。

 「伝説」とは、過去、死者、未来人、とにかく常ならぬものである。とどかなかった思いやかなわなかった恋が、伝説であるが故の強さを持って、いま生きている人間に立ち向かってきたとき、人はどうしたらいいのか。それを、ずーっと追っているのが大林宣彦なのである。

 結論は、作品によって変わる。主題とは問題であって、解答ではない。創作というのはそういうものなのだ、と私は思っている。主題、というと主張と誤解されてしまうのだが、ものを作るというのは、主張することではない*。「問題」を創ることだ。

 『ハウス』の輪郭は典型的なホラーだから、この「問題」の結論では伝説が勝ち、現実の少女たちは食われる。これが『ふたり』になると、伝説は優しい面を見せてくれ、現実に力を与えてくれる。

 映像と色彩の氾濫で話は二の次、と思われている『ハウス』のラストシーンで、大林宣彦は、南田洋子によるナレーションできっちりそのことを表わしている(それが気に入らなかったのだろうか、世間は)。当時の私には、その意味が分からなかったのだが、大林映画を観続け、自分も物校きになることで、何が主題なのか次第に分かるようになった。

『ハウス』の映像は文章では表現しにくい。大林宣彦の評価が上がって、ソフトが簡単に見られる状況だから、見てもらったほうが早いのだが*、『ハウス』という映画は、空を描いた傑作なのである。それも、私がいちばん好きな、真夏の青空を。

 なんで先に、青森市の気象状況を延々校いたか、やっとつながった。そう。私が『ハウス』に衝撃を受けたのは、その、絵に描いたような美しい空ゆえだった。

 いや、「ような」ではない。何しろこの映画、ほとんどの風景に、空を描く専門の絵師、島倉二千六(ふちむ)*が絵で描いた空を合成している。抜けるような青空、夕焼けを映して赤い雲、そして朝焼けと青空との合い間にかすかに光る、緑色の光。それらはすべて、マット画と合成による、デフォルメされた、だがきわめてリアルなものなのだ。

 大林映画は、少女映画である。少女映画とは、りりしさであり、同時にリリシズムである。これは個人的な持論*なので、賛同していただかなくてもかまわないが、そのリリカルとりりしさという概念を、私は、大林映画から学んだ。

 話を戻そう。この映画は、夏休みに山の洋館へ遊びに行った七人の少女の話である。この少女たちは高校生だと言われているが、『吸血鬼ゴケミドロ』などで知られるホラーの名匠、佐藤肇監督*が書いたノヴェライズでは、中学二年と記してある。

 ストーリーはシンプルで、池上季美子が父の再婚を嫌がるあまり、怪物となって恋人を待ち続けた叔母、南田洋子と同化し、他の少女を食ってしまう、という話なのだが、ひとりひとりの少女が、可愛い。大林監督は彼女らの生の声や呼吸を、思いもよらない方法で記録している。例えば池上季美子が叔母の過去を語る回想シーンは、フィルムのパーフォレーション*に縁取りされたモノクロ映画として画面上に「上映」され、女の子たちは、話を聴くのではなく、その「映画」への感想をがやがやとしゃべっていたりするのだ。これには、たまげた。

 その他にも、建物までが合成作画でデフォルメ処理されたり、現実の景色にもフィルターをかけて極彩色にしたり(特殊なフィルムを使ったのか、と言われたそうだ)と、徹底して非日常な世界の中で、私が特に入れ込んだのは、「スイート」役の宮子昌代だった。

(この映画では、少女達は全てニックネーム*で呼び合い、本名が出てこない)

 紫の、フリルのついたワンピースにエプロンとリボンで、まるでメイドのような格好で館を掃除している彼女は、目がくりっとしていて、性格や口調は甘えん坊。本校での少女概念からはやや外れるのだが、まだそこまで機は熟していなかった。

 彼女が蔵の中で布団に襲われるシーンは、実際に布団が四方八方から襲ってくるように見える。最後には大時計に閉じこめられ、切り刻まれていくのだが、この時計が全面ガラスでできていて、逆光のシルエットでぼんやりと見える彼女がこちらを向いてまばたきする。死の恍惚、といった感じだ。ドラマは少女としての肉体を明らかにする池上季美子らが担当するが、映画のトーンを表現した人物は、宮子昌代だった。

 宮子昌代はその後、大林映画の『瞳の中の訪問者』と『金田一耕助の冒険』に、一シーンだけ出演している。後者では、岸田森のドラキュラに血を吸われている花嫁の役だ(なぜ金田一耕助の映画にドラキュラが出るのか、と言われても困るが)。お幸せに。


*ものを作るということは――私はこのことを、脚本家・岡本克己先生(シナリオ学校の講師だったので「先生」と呼ぶ)から教わった。いわく、「何かを主張したいのなら、新聞に投稿したほうが、ずっと効果的だ。ドラマにしか書けないことを書くべきだ」。

*『ハウス』のビデオ――現在、『ハウス』の色や光を、劇場と百パーセント再現しているのは、北米・クライテリオン社のブルーレイ。北米版としてAmazonにもある(字幕も消せる)が、私が持っているのと同じならば、劇場の画質そのものである。次に評価できるのは、CS日本映画専門チャンネル版。肝心の東宝のDVDは、どういう理由からか、画質が上映時とかけ離れている。なお、ご購入の際は、念のためリージョン・コードを確認されたい。Amazon以外でも販売されている。

*島倉二千六――主に東宝特撮で長年活躍した、文字通り空や雲専門の絵師。最近では、『シン・エヴァンゲリオン』でも活躍している。

*りりしさとリリシズム――この一致に初めて気づいたのは、小説家・久美沙織さん。

*佐藤肇監督――『吸血鬼ゴケミドロ』が代表作の、怪奇映画監督。テレビ朝日『土曜ワイド劇場』で、岡田眞澄が吸血鬼役の『吸血鬼ドラキュラ神戸に現わる』を撮っている。

*パーフォレーション――フィルムと映写機がかみ合うための穴。フィルムの左右にある。

*ニックネーム――オシャレ(池上季実子)、ファンタ(大場久美子)、ガリ(松原愛)、クンフー(神保美喜)、メロディ(田中エリ子)、スイート(宮子昌代)、マック(佐藤恵美子)。これらの名前は、各自が持つバッグなどにも明記されている。


(この節、続く)

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