第087話 嵐の前

 二十三年前、妻が第一子を身ごもったと知った時、輝巳はその子が学校を出て就職するそのときまで、自分が平社員のままでいるとは想像もしていなかった。

 まして、それが元で鬱の病にとりつかれ、それをぬぐいきれないままでいるなど、全く思いもおよばなかった。

 今、こうしてその立場にいると我がことながら当然かとも思う。

 月曜日から金曜日までは、時計の針の代わりに電車に乗り、会社のドアをくぐり、フリーデスクのなんとなく決まった位置に座る。

 なにかビジネスを発展させる着想など湧かず、誰かからいわれたことをなんとかこなす。

 十も二十も下の子からだめ出しをされ愛想笑いを浮かべながら指示を請い、言われた範囲のことに対応するので精一杯。

 定時が来れば、また時計の針の代わりに電車に乗り、自宅に戻る。

 そんな自分への不甲斐なさに責め立てられ、土日は動けないで終わる。

 そんな社員が這い上がることなんてできるはずがない。

 妻の莉央には本当に申し訳ないと思う。

 もっとおもしろい生き方を選ばせてあげることもできたかも知れない。

 でも、自分にはできなかった。

 長男の颯太が社会人一年生を迎えられたのは本当に良かったと思う。

 長い彼の人生に何が待っているかなんてわからない。

 それでも、自分のようにはなって欲しくないと思う。

 そうとしか思えないなんて、どれほど情けない生き様なんだろうと思う。

 そして四十の時に迎えた詩央が受験生の年を収めた。

 本音を言えば、詩央が社会に羽ばたいてくれる姿を見とどけたら、自分を片付けてしまいたい。

 それを思いとどまらせている一つの要因が、月一の展示訓練への参加でもあった。


 自衛官の定年退官は早い。

 同い年の自衛官などもういない。

 信世も特務予備自衛官に切り替えた。

 それも、実戦経験のある徹攻兵だから通った話しだった。

 いや、自分自身、先月制式化を終えた三一式に適応できていればこそ特務予備自衛官を続けられていた。

 南沙強襲から三年、世界の政治の中で徹攻兵が目立って使われることはなかった。

 五大国のなかでロシアが保有していないこと、中国がその大半を失ったことは大きかった。

 アメリカ、イギリス、フランスは核に変わる力で世界のミリタリーバランスを変えようとはしなかった。

 唯一、ファイアリー・クロス基地だけが徹攻兵という特殊な軍事力の働く例外とされていた。

 各国とも、三世代型以上の徹攻兵を表に出さなかった。

 むろん、噂に上ることはしばしばあったが、四世代型の光条砲など映画の見過ぎと笑われるのがせいぜいだった。

 三一式の慣熟性能など冗談みたいな能力だった。

 単純な跳躍高度三百二十メートル。

 百メートルを一歩半で走破し、時速二百四十キロでの連続走行が可能。

 光条推進では亜音速の速度で三十分を超える稼働が可能。

 五メートルを超える長大な近接武器を振るい、光条砲は一・二メートルの大穴を開ける。

 主力戦車の主砲弾をものともせず受け止め、逆にその主砲を二門同時に射撃できる。

 これに加えて光条膜という新しい機能が加わった。

 手の甲に据え付けたクリスタルから直径一・二メートルの円盤状の光の膜を作ることができる。

 光条の近接武器によく耐え、破壊するには光条銃、もしくは光条砲で脆化させるしかない。

 光の膜なのに硝子のように被弾した部分だけが割れる。

 十六分しか稼働しないが、八分の間を空けることで再び元の大きさで発動できる。

 これほどの能力があっても、五大国が狼狽えなかったのは、運用できるのが世界でほんの数人しかいないからだった。

 慣熟者は今のところ輝巳のみ、ドイツのアデル・ヴォルフ機関も手を焼いている様子が伝わってきていた。

 抑止力として機能しない武力など見世物でしかない。

 第四世代の壁は依然として存在し、後に続いてこられる者も限られた、なじみの面子だけだった。

 ふとした休憩中に輝巳が遊にたずねた。「なあ、遊君?」

 「どした」

 「これも、幸せの形なのかな?」

 「これ、って」

 「数の揃わない、ちょーのーりょくを我が国が保有している、っていう形がさ」

 遊は、一瞬言葉を選んでから口を開いた。「ちょうどいい形だと思う」

 「そっか」

 そして遊が続ける。「お前さんが次長くらいの肩書きを持ってて、俺が講師くらいの肩書きで大学に出入りできてさえいれば完璧だったかもしれん」

 輝巳は、ああ、とだけ答えた。

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