1-6:「一夜明けて」

 それは、危険な夜だった。


 何が危険かというとうまく説明できないが、とにかく、危険な夜だった。


 もし、丈士と星凪が兄妹ではなく、そして、星凪が幽霊ではなかったとしたら、2人は行き着くところまで突き進んでしまったかもしれない。


 だが、結局は、何事もなく夜が明けた。


「それじゃ、兄ちゃん、学校があるから」


 昨日の残り物で朝食を済ませ、身支度を整えた丈士は星凪にそう言ったが、星凪は何も反応を示すことはなかった。


 傷心中なのだ。

 星凪は、昨夜の行動のあと、ずっと部屋の片隅でうずくまり、壁の方を向いて両手で膝(ひざ)を抱えながら、すすり泣いている。


 その姿に丈士の心は痛んだが、同時に、安心してもいたし、ほんの少しだけ、残念なような気もした。


 丈士と、星凪。

 2人の兄妹。


 星凪は3年前にその命を失ってしまったが、幽霊となって、今でも2人は一緒に暮らしている。

 しかし、2人が生きている[世界]は、同じであって、違っている。


 呪いの力や、ポルターガイストによって現世に干渉するほどの力を持つ星凪であっても、肉体を失ったという事実を変えることまではできなかったのだ。


(何もなくてよかったような、よくなかったような……)


 丈士は講義に向かう自分のことを見送りもせず、部屋の片隅(かたすみ)で打ちひしがれている星凪の後姿を見て、そんな複雑な気持ちになりながらも、「行ってきます」と言って部屋を後にした。


────────────────────────────────────────


「ただいま」


 今日の講義が終わり、タウンコート高原201号室へと帰って来た丈士が部屋の中に入るなりそう言うと、返事は何もなかった。


 部屋の中は、シン、と静まり返っている。

 明かりもなく、朝になって丈士が開いたはずのカーテンも閉め切られていて、部屋の中は暗く、見通しがきかない。


 そして、その暗がりの中には、何の気配も感じられなかった。


(まさか、星凪、消えちまったわけじゃないだろうな? )


 丈士は、自分が出かける前の星凪の姿を思い出し、そう不安になって、慌てて部屋の電気のスイッチを押す。

 パっ、と明かりがつくと、部屋の奥の片隅には、相変わらず膝(ひざ)を抱えたままの星凪の後ろ姿があった。


 その姿を見て、丈士は、ほっと胸をなでおろす。

 星凪が傷心のあまり消えてしまったわけではないと分かったからだった。


「星凪。まだ、落ち込んでるのか? 」


 部屋の中へと入り、適当な場所に荷物を置きながら丈士がそう声をかけたが、やはり、星凪は何も答えなかった。

 そんな様子に、丈士は肩をすくめ、溜息をつき、変える途中、駅前商店街まで出向いて買ってきたものを、星凪の顔のすぐ横に突き出した。


「ほら、ケーキ、買って来たから。……これ食べて、元気出せよ」


 それは、様々なケーキが入った箱だった。

 中には、定番のイチゴのショートケーキや、サクサクとした触感がクセになるミルフィーユ、削ったチョコレートのたっぷりとのったチョコケーキ、フルーツたっぷりのタルト、見るだけでちょっと豪華な気分になれるプリン・アラモード、ふんわりしっとりとした食感が嬉しいチーズケーキなど、美味しいものがたくさん詰まっている。


「……。けー、き? 」


 ようやく、星凪が反応を示した。

 ケーキは、星凪の大好物であるのだ。


「そう。ケーキ。たくさん買って来たから、たくさん食べな」


 丈士は少し声を優しくしてそう言うと、テーブルを引き寄せ、その上に箱を置いて、星凪にも見えるように箱を開いて見せる。


「……すごい。こんなに、たくさん。……高かった、でしょ? 」

「ああ、まぁ、な。でも、心配すんな。バイトも始めるつもりだしこれくらい、どうってことないさ」


 ケーキを見て一瞬嬉しそうな笑顔を見せたものの、すぐに表情を曇らせた星凪に、丈士は明るい口調でそう言い、それから、「ほら、来なよ」と、星凪を手招きする。

 好きなケーキはやはり魅力的であったのか、ようやく星凪は立ちあがると、ふわふわと丈士の近くまで飛んできて、丈士が用意したイスに、ストン、と腰かける。


「さ、どれから食べる? みーんな、星凪が食べていいんだからな? 」


 そう言って星凪に笑いかけながらスプーンを手に取った丈士のことを見上げると、すぐに視線をそらし、星凪は、消えてしまいそうな小さな声で言う。


「お兄ちゃん……。あたしのこと、嫌いにならないの? 」


 その、震えるような言葉に、丈士は困ったような顔をする。

 だが、すぐに笑顔を浮かべると、スプーンを持っていない手をのばし、星凪の頭を優しくなでるような仕草をする。


 星凪は、幽霊だ。

 だから、丈士の手には、何の感触もない。


 ただ、そこに冷たい空気の塊(かたまり)があるような、そんな感覚がするだけだった。


 だが、それでも丈士は、星凪の頭をなでるのをやめなかった。


「お前のこと、嫌いになったりなんかならないさ」

「……。うん」


 丈士の不器用な言葉に、星凪はそう小さな声でうなずき、それから、テーブルの上に並べられたタルトの方を、おずおずと指さした。

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