鯨よりも深く
@aki89
第1話 帰郷
店を出ると、強烈な夏の日差しが私に襲いかかった。
一瞬くらりとするが、すぐに意識は正常に戻る。
今日は特に暑い一日の様だが、都会のような嫌な暑さではない。空気は適度に乾いていて、心地の良い風が汗ばむ体をくすぐった。
「ふふっ」
そういえば、夏ってこんな感じだったな。
不意に訪れた懐かしさに、少し笑ってしまった。
こんな時間は久しぶりだ。
こうやってゆっくり帰省するのは、もう何年ぶりだろう。
高校を卒業してこの街を離れてからは、しばらくは無心で働き続けた。そのうち結婚して子供ができると、今度はそちらにかかりっきりになってしまっていた。
そんな中で珍しく降って沸いた連休を使っての里帰り。
休みを取れなかった旦那は家。3つになった子供も今日は実家の母に預けている。
ほとんど片時も離れなかった家族を置いて、私は一人、暇を持て余していた。
たまにはゆっくりして来いと時間をくれた母には申し訳ないが、いざ自由になるとやる事もない。早いが、そろそろ帰ろうか。
私はそばに停めておいた自転車に跨り、ペダルを踏んだ。
かつて通い慣れた道を、ぼんやり眺めながら走る。
昔よく行った喫茶店は、どこにでもあるチェーン店に変わっていた。
しばらく走ると、赤信号に引っかかった。昔よく通った、小さな市街地の端にある交差点だ。相変わらず私の他には人も車もいない。
ふと横を見ると、木々の隙間から海が見えた。太陽を反射してキラキラ輝いている。
子供の頃、よく遊んだ場所だ。
時間もあるし少し寄り道してみようかと、私はハンドルを右へ向けた。
海までの下り坂は重力に任せればすぐに終わった。道路脇に自転車を停め、階段を降りる。
小さな砂浜には誰もいなかった。
いつも突堤で釣りをしていた近所のお爺さんも、今はいない様だ。
あのお爺さんは子供を見守るために来ていたのだとは、いつ頃知ったのだっけ。
ジリジリと熱された砂は、サンダル越しでもその熱さを物語ってくる。上下からの熱と光が、容赦なく私の肌を焼く。
波は静かだ。
涼を求めた私は、サンダルのままそこに足を踏み込む。冷たくて気持ちいい。
しばらくこうして涼んでいようか。
足元では穏やかな波が、絶える事なく打ち寄せている。
海に入るのは久しぶりだった。
昔は毎日のように遊んでいたのに、いつからしなくなったのだろう。私はかつて子供だった頃を思い出す。
高校に入学した頃だろうか。あの頃はバイトも忙しかったし。
いや、でもその頃にはもう全然行っていなかった筈だ。中学に上がった頃には、もう–––。
「そうだ」
あの時からだ。
すっかり、忘れていた。
頭の中に、子供の頃の記憶がゆっくりと浮かび上がってきた。
目からの前には、静かな海がどこまでも広がっている。視界の全てが、空と海の二つの青で埋め尽くされる。
身体の力が抜け、呼吸が止まってしまったかのような錯覚に陥る。
繰り返す波音は、耳から直接頭に入り込んでいるかのようだった。
次第に、自分が海と一体化したような気になってくる。
いや、一体化ではなく、もっと一方的に"海に自分という存在が塗りつぶされる"と言った方が良いか。
感じるのは、心地よさと微かな焦燥感。
だが、次第にそれも薄れてゆき。
…全てが海の中に溶けてゆく様だった。
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