第 十九話 狐と虚と草木妖(四)
桶に張った水が、薄く凍っていた。
桶の近くにあった石をとり、表面の氷を割った。刺すような水の中へ手を入れ、浮かぶ氷を地面へ投げ捨てた。
赤くなった手へ吐いた息が、白くもやのように揺れて消えた。
もう冬になっていた。水を張った桶ごと持って、家屋へ戻った。
閉めきった薄暗い家屋の中は、じっとりと湿るような暑さが残っていた。囲炉裏にくべた炭にまだ火が残っている。
部屋の隅に桶を置き、布を水に浸した。きつく絞った布を、布団で寝る妹の額にそっと置いた。
「あんちゃん」
「寝てろ。なんか食いもん持ってきてやる」
「喉が渇いた」
寝ていた妹の背に手を入れ、ゆっくりと上体を起こした。囲炉裏にくべた鍋の中から、わずかばかりの米を塩を溶いた粥をすくい、妹の前へ持ってきた。
「熱いぞ。しばらく冷ましてから飲め」
無言でうなずき、口を椀につけた。
熱と下痢をおこしていた。そして、体中、わずかに見える茶色に広がった斑点。
嫌な予感がした。村全体に広がっている病。ただの風邪でも起こる症状ではあったが、斑点のせいで嫌な予感がしてたまらなかった。
ついこの前に死んだ、父の症状とよく似ていた。
揺れるように椀を持っていた妹が、ゆっくりと粥とも呼べない湯を飲み込み始めた。
「厠に行くか?」
妹が小さく首を振った。
「兄ちゃんな、これから葬式に出ないといけない。すぐに戻るから、しばらく寝て待ってろ。何かあったら、隣の叔母さんのところに行けるか?」
妹が、無言でうなずいた。
妹の椀をとった。鍋から減った分を継ぎ足して、小さな手に手渡した。
「行ってくる。すぐ戻るからな」
湿った墓地の中、深く掘った穴の中へ、男二人を入れた大きな樽を運び入れた。樽の上下を固定した後、周りにいた男連中で土をかけ、穴を埋めた。
葬儀は、悲しいほどに質素だった。墓地というには花一つなく、ただ石を積み上げた墓標が見えるだけだった。新しくできた墓穴に何一つ供えるものもないまま、淡々とその儀式は終わった。
しかしながら、参列する人間の数は例をみない数になっていた。
村にある世帯、ほぼすべての家から、誰かしら出席していた。冬を乗り越えるため、村のために山に入った人間が死んだ。正確には殺されたのだ。強い面識はなくとも、村すべての家が弔いに出るには十分な理由だった。
「いくぞ」
穴を埋め終わった
銀郎太が手についた土を払った。埋められた跡を見たまま、しばらく離れる気になれなかった。
あの坊主頭の男が、ここに埋まっている。先に行った人間を追いかけ、敵から村人を守るために飛び出した男。そして、殺された。
自分がもしあそこに加勢していたら変わっていただろうか。冷静に考えて、意味はなかっただろう。おそらく自分は、何一つ役に立たないまま、すぐに殺されて終わったに違いない。手斧を持っていても、その振り方もわからない。
だからといって、それがただ離れた場所でおびえて見ていたことを許す理由には何一つならないのはわかっていた。
血まみれでうずくまっていた銀郎太が崖下で回収された後、誰一人として責める人間はいなかった。だが、あの坊主頭の男の遺骸を見て泣いている家族に合わせる顔はどこにもなかった。
「早くしろ」
後ろから、いら立った叔父の声で我に返った。小高くなった埋葬の跡を背に、先に行く叔父の元へ走った。
視線を感じた。
いくつかの人間が、墓地の中から、疎ましそうな表情で銀郎太を見ていた。
家路につく道の途中、先に歩く叔父へ、周りに人がいなくなったのを確認し銀郎太が口を開いた。
「叔母さんは、どうですか」
「わからん。そこまでは悪くはなさそうだが、下痢が止まらず熱も引かん」
「黄色い斑点は」
「出てる」
叔父が、苦々しい顔で小さく答えた。
「兄と同じ、流行病だと思う」
道の途中、人よりも一回り大きな叔父が、両腕で頭をかかえたまま、はばかりもせず座り込んだ。
大きく息を吐いた後、漏らすように言葉をこぼした。
「
「妹にも、昨日、斑点が出ました」
「そうか……」
ぽつりとこぼすように答えた後、道の端で崩れるように座り込んだまま、叔父はしばらく身動き一つしなかった。
叔父が、つぶやくように口を開いた。
「村長連中は、お前たちが、都からこの病を持ってきたんじゃないかと疑ってる」
「なんですか、それは」
思わぬ言葉に、銀郎太から強い語気で言葉が飛び出した。
「そんなこと、あり得ないことくらい少し考えればわかるじゃないですか。妹の熱が出る前から、もうとっくにこの村には広がってた」
「わかってる。俺だって、順番が違うことくらいわかる。でもな、ここはそうじゃないんだ。他の人間、全部が全部そう思うわけじゃない。まして不安になれば、どうしたってよそ者が標的になる」
言い知れない怒りが、内側から湧いてくるのを感じた。この、道端でどうすればいいのかわからずただふさぎ込むしかできない叔父が悪いわけではないのはわかっている。それでもなお、目の前で座り込む叔父への視線が強くなるのを感じた。叔父を含め、村の人間の考えに怒りが湧き上がるのを止めることができなかった。
しばらく無言の後、震える声で銀郎太が口を開いた。
「俺は、都に薬を取りに行こうと思っています」
「薬?」
うつむいたまま、叔父が怪訝な視線だけで銀郎太を見た。
「都で病が流行った際、いろんなものが出ました。呪術の札に香の木。本当に効果があったのか、正直俺にはわかりません。ただ、間違いなく効果のある薬はあった。それはまだ俺は覚えてます」
「そんなものがあったなら、兄は死ななかったんじゃないのか?」
「父は体力が衰えすぎていました。薬に耐えきれなかった。だが若い人間なら、飲めば回復した人もたしかにいたんです」
「薬……」
ぽつりと言葉をこぼした叔父が、困惑した表情で銀郎太を見た。
「高いのか?」
「わかりません。いくらになるのか見当もつかない」
「都に行くとなると、山を越える。賊が出るぞ」
「わかってます」
銀郎太の声が、引きつっていた。
あの、坊主頭の男を切り殺した男の、自分へ向けた逆手の刃。肩をかすめ地面へ刺さった後の、首から噴き出るように流れ込む血。
吐きそうになる中、叔父がゆっくりと地面から立ち上がった。
すがるような顔をしていた。大の男が、自分よりもはるかに若い人間へ見せるにはあまりに不釣り合いな顔。自分のものとは明らかに違う、絶望の中に希望を見出した目。
銀郎太が目を閉じた。震えるまぶたを押さえ、大きく息を吸った。
「今日にでも、いや、この後すぐにでも出ようと思います。妹だって、いつまで耐えられるかわかったもんじゃない。夜通し歩けば、明日にはなんとか戻れるはずです。その間、妹をお願いできませんか」
*
日が落ちた山の中、爆ぜるかがり火を背に、二十人を超える薄汚れた男たちが集まっていた。
「いいかお前ら!」
かがり火のそばで、一人の男が、太刀を握り締め大声を張り上げていた。
「この前、池の端で仲間が殺されたのはお前らも覚えてるだろう! あの後調べに行った三人! これが同じく死体になって転がっていた!」
男が、左手につかんだ血まみれの布をかがり火の前に突き出した。
「最初のやつと同じだ! 首がねじ切られてて見つかりやしねえ! 残った体も、山犬に食われてこんな布切れ以外何一つ持ち帰れねえ!」
握った布を、勢いよくかがり火の中に投げ込んだ。一瞬で燃え広がった火の粉が、夜の闇に舞うように飛んで消えた。
「行く場所もねえ俺たちが、まっとうに生きてるなんて言う気はねえ! だが無駄な殺しなんて今までやってきたのか?! してこなかっただろう! それがなんだ! こんな畜生にも劣る殺され方で黙って許せるのか!」
「許せねえ!」
前歯の欠けた男が、刀を抜き声を張り上げた。
太刀を振り上げた男が、腰に下げた酒瓶を手に取った。集団へ、投げつけるように中身を振りまいた。
「いいかお前ら! これから下の連中、一人残らず狩り殺す! 必ずあいつらの首をねじ切って、吊るし上げて全部殺す! 臓物を抜き切って獣の餌にさせてやる!」
*
月光が、差し込んでいた。
薄く氷を張った池の上で、足首まではあろうかという真っ白の髪をした女が、跳ねるように水面を歩いていた。
女にとって、人間は家畜だった。あまりにも続く無限の退屈の中、わずかばかりでもごまかすために人間で遊ぶ。腹が減ればそのまま食い、飽きればそこでちぎり捨てる。生きるも殺すも自分次第の、ただの虫と違いはなかった。
だが同時に、この世に残り続けるための縛りでもあった。願いを持つ人間がいなければ、この身を保つことすらできない。家畜の祈りで生きていることへの疑問は、とうに捨てていた。
遠く、山裾で、何かしら強い願いが、いくつも弾けるように燃え上がるのを感じていた。
しかし願いを聞く気はなかった。自身の命を願う祈りは対象ではなかった。そして、最大の理由は、先日の
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