閏
第 十 話 欽天監
ただただ蒸し暑かった。
壁の上部に開けられた採光用の格子戸から、夏の日差しが直で差し込んできている。
失敗した、と思った。立つ場所を間違えた。
まだひげも生えそろわない面立ちの男が、日の光で半開きになった目で直立していた。
長机に座った中年の男が、手元の書類を見ていた。半開きで突っ立った若い男に目もくれず、紙だけを突き出すように提示してきた。
「
渡された紙に目を通した若い男が、確認するように言葉に出した。
中年の男が、何かに気が付いたように若い男を見た。
「お前、欽天監はまだ行ったことなかったか」
「ありません」
「じゃあ、案内に誰かつけるか」
座ったまま、中年の男が部屋を見回した。中にいた数人、全員が、長机に向き合ったまま黙々と筆をとり作業を続けている。
これはあれだな、と若い男が思った。変なとばっちりが来ないよう、聞こえないふりをしているやつだ。
何一つ返事の返ってこない部屋を見まわした後、中年の男が書類に視線を戻した。
「まあ、ただの使いっぱしりみたいなもんだ。その紙を見せれば、後はなんとかなるだろ」
「はぁ」
「ただ——」
中年の男が、座ったまま、若い男をにらみつけるように見た。
「この催促は今月に入ってお前で三回目だ。これ以上遅れるんだったら、直接状況を説明しに来いとしっかり念を押してこい」
ひりついた一言の後、再度中年の男が視線を書類に戻した。
一礼をし部屋を出た。入り口から見えなくなるほど進んだ先で、渡された一枚の紙を再度取り出し目を通した。
まいったな、と思った。あの場で聞いておけばよかった。
— 欽天監 霊台郎殿 —
— 星辰の躔次、至急当該の者へ受渡されたし —
何が書いてあるのか全く読めなかった。
*
地図上に、大きく筆で「
若い男がまじまじと建物を見た。石造りで作られた門構えの奥、あまり広くはない程度の面積に、木の壁がみっちりと建てられている。
それよりも不思議だったのは、建物の中央からそびえたつ鉄の櫓だった。
建物の真ん中、細長い煙突のような物見櫓が、はしごの高さだけでみれば五階はあるかという高さで屹立している。
おおよそ今まで見たことのない建築物だった。
「何か」
声がした。
ぽかんと見上げていた若い男が、声に反応して視線を戻した。
床までもある白い法衣を着た、短めに髪を切り揃えた気の強そうな女が、建物の中から無表情でこちらを見ている。
「あ、いえその――」
懐から紙を取り出した。
「兵部の
女に紙を直接見せた。
「はぁ」
しばらく紙を見た後、女が望天を見てわかったというようにうなずいた。
「こちらです」
建物の中は、外からは想像のできないほど広く感じる作りになっていた。
一面木の壁で覆っていたにも関わらず、やけに明るい。上空が吹き抜けになっているからか、空からの光が下まで届いている。中央に一つ鉄の櫓が貫通しているにもかかわらず、なぜか圧迫感を感じない。
建物全体が、入り込んだ太陽光を反射させ逃がさない不思議な作りをしていた。
すたすたと通路を先を歩く女の後ろから、望天と名乗った若い男が付いていった。
「あの。私は今、どこに向かってるんでしょうか」
「ああ」
女が振り返りもせず言葉を続けた。
「
れいだいろう。なるほど。そう読むのか。人の名前なのか役職なのかわからないが。
「例年でしたら、もっと早めに
せいしんのてんじ。なるほど。
何を言ってるのか全くわからん。
「つきました」
建物の中を通路沿いにぐるっと回った。
渋茶色の床が特徴的な、椅子と机のある開けた部屋についた。
「霊台郎」
女が、誰もいない部屋に向かって大きく声を上げた。
開けた部屋の奥、閉じられた引き戸の中から、女の声に反応したのか、間延びした男の返事があった。
「兵部より客人です」
閉じられた引き戸へ声を張り上げた女が、無表情で振り返り、望天を見てにやりと笑った。
「次回どこかへ行くときは、ちゃんと誰宛てなのかを聞いてから行った方がよいですよ」
ぽかんとした望天をよそに、すたすたと去っていった。
女が去ってからしばらくの後、閉じてあった引き戸が音を立て開いた。
中から、よれよれになった服と乱れた白髪の男性が、首に手をあて、ひどくため息をつきながら出てきた。
「兵部の、望天です!」
若い男が直立で声を上げた。
覇気のある挨拶に、初老の男性が疲れた表情でうなずいた。
「まあ、とりあえず、座って」
近くの椅子を指され、促されるがまま着座した。
「で、どんな要件なの」
「こちらを預かってきました」
懐から紙を取り出し、着座した初老の男に渡した。
「……だろうねぇ」
紙を見て、初老の男が困った顔で目を覆った。
「ちょっとねぇ……。残念なことに、全く進捗がはかどっていなくてねぇ。私ももう、ずっと帰れてなくてもう泊まりっぱなしでねぇ。まあ、もうなんていうか、こんなこというのもなんなんだけども、もう全然頭も働かなくってねぇ」
「はぁ」
ひたすらに愚痴を述べる初老の男が、声を少しずつ小さくしながら、ひじ掛けに全身を預けるように寄りかかり、崩れるように落ちていった。
しばらく、沈黙が続いた。
あまりに長い沈黙のため、全く動かなくなった初老の男の顔を、ひじ掛けの下から覗き込んだ。
初老の男が、小さな寝息を立てていた。
「あの」
遠慮がちに、望天が小さく聞いた。
変わらず、寝息は続いている。
あまりの状況に、望天の頭が追い付かなかった。
いきなりこんな、人前で寝るか。どういう状況なのかさっぱりわからない。起こしたほうがいいのだろうか。むしろ誰か呼んできた方がいいのか? これ以上進捗が遅れるようなら直接説明しに来い、そう伝言しなければならないらしいが、ちょっとこの状況どうすればいいのか。昨年入ったばかりの自分ではさっぱりわからない。
小さい物音がした。
初老の男が出てきた引き戸の奥から、かすかに何かの音がする。
若干開いた引き戸へ、覗き見るように足を進めた。
薄く、ろうそくが照らすだけの小さな部屋で、真っ白な髪を後ろで束ねた誰かが、床に散らばった書類に鬼気迫る勢いでひたすら何かを書き記していた。
「悪いねぇ」
ぎょっとした。
望天が飛び上がるように振り向いた。
目を覚ました初老の男が、望天と同様に引き戸の中を覗いていた。
「これねぇ……。止めるべきかどうか迷ってんだよ」
「はぁ」
「君、まだ新人みたいだから知らないかもしれないんだけどさ。昨年、宮中の技官が一気に辞めてね。それを埋めるためにうちからも人間持ってかれたんだけどさ。でもほら、うちって特殊でしょう。そんな簡単に補充もきかなくてね。で、まあ欠員が出たまま今年の
背の上で、初老の男が長々と愚痴をこぼした。
「で、そこの部屋の彼。今朝方、副長が新しく増員にって連れてきたんだけどさ。見たらわかるけど、彼もまだ本当に若くてさぁ。まあ、そんな感じでもう、完全に焼け石に水の状態だよ」
二人の視線の先、引き戸の奥の部屋で、声に反応したのか、真っ白な髪を後ろで束ねた人物が振り向いた。
目が合った。意志の強い目をしていた。墨がついた顔を手で無造作にぬぐう。
よく見ると、墨ではなく鼻血を流していた。
真っ白な白髪のわりに、自分とほとんど年が変わらなそうな顔をしている。むしろ若いかもしれない。ひょろひょろとした、技官にいそうな痩せた男だった。
目が、離せなかった。
突然の食い入るような目つきに、目を合わせたまま視線を外せなかった。
「兵部の、えっと。誰だったっけ」
初老の男の声に、望天が気が付いたように視線を外して口を開いた。
「望天です」
「ああ、そうそう。望天君ね。悪いけどこんな状況だからさ。しばらくは無理だよ。兵部のほうには一筆書いておくから、それを持って——」
「やれます」
引き戸の奥から声が出た。
床に座ったまま、白髪の若い男が強く声を出した。
「日が沈むまでには終わらせます」
強い口調に、初老の男がためらったように声を出した。
「いや、君ねぇ。来て早々、当日でこの量を今日中に終わらせるってのは、無理があるよ」
「彼はやれると思いますよ」
後ろから声がした。
振り向くと、開けた部屋の入り口で、この部屋まで案内をしてくれた女がこちらを向いて立っていた。
「いや副長。焚きつけんでくださいよ。この量、無理なもんは無理でしょうよ」
「
初老の男の言葉を遮り、無表情なまま、女が凛とした声で言い放った。
戸の中で座ったままの白髪の男が、挑戦的な目で女を見据え、はっきりと強く声を出した。
「最も時間のかかる、昨年の躔次に今年の
「その誤差の修正と計算にはどのくらいかかりますか」
「大きなものはすでに終わっています。後は合わせるだけなので——」
白髪の若い男が、手元の小さなろうそくを指さした。
「これが燃え尽きるまでには終わります」
「よろしい」
何かを企むようににやりと笑い、女が手を叩いた。
「では兵部の方。申し訳ありませんが、完成するまで今しばらくこちらでお待ちいただくということでよろしいですか」
女の圧に気おされた望天が、何も言い返すこともないままうなずいた。
「では太白。急いで完成を」
鼻血を再度ぬぐい、白髪の男がうなずいた。床に散らばった書類へ、顔をへばりつかせながら再び作業を始めた。
引き戸から体を離した望天の隣に、女が近寄り静かに口を開いた。
「武官と技官の違いはあるでしょうが、この地方での若手はあなた方くらいです。後々のためにも仲良くしておきなさい」
言葉を残し、すたすたと女が去っていった。
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