第 九 話 九月九日(七)

 一瞬だった。

 一瞬で、飛び込むはずであった青く光る円から、背の高い男が飛び出してきていた。


「な……ッ」


 法衣の者から小さく声が漏れた。

 全くの予想外であったのか、何一つ回避する動きを取れないまま、男の刃が繋がったばかりの体を一息に両断していた。


「なぜ――」


 言葉よりも早く、男が返す刀でさらに切っていた。横から薙いだ刃が、法衣の者を胴から切り離していた。


 切り刻まれた袖から、法衣の者が閉じた扇子を取り出した。男の三度目の切り返しが、乾いた音を立て細い扇子に受け止められた。


「なぜ、私の転送陣から——」

「俺が出てきたのか?」


 言い終わるのを待たず、法衣の者が男の刃をはじいた。


 扇子を握り、法衣の者が男を睨んだまま距離をとった。つい先ほど切断された体が、ゆっくりと蔓で再びつながっていく。


 法衣の者が扇子を握ったまま、手で印を切った。


「……ッ」

「転送陣はでんよ」


 何度も印を切る法衣の者に、男が刀を突きつけながら言い放った。


「鬼ごっこはここで終わりだ。お前には聞きたいことが山ほどある。切り刻んででも持ち帰らせてもらうぞ」

「御冗談を——」


 不意に、唸るような音が響いた。

 法衣の者の背後を、光る矢が走り抜けた。鈍い音をたて、蔓の隙間を貫くように黒い球に突き刺さる。


 甲高い、空気を震わすような金切り声が、黒い球から空全体へ響いた。


「この……!」


 法衣の者から声が漏れた。

 視線の先、昴宿ぼうしゅくの背に乗った明星めいせいが、決意を込めた表情で次の矢を引き絞っていた。


「おやおや?」


 昴宿からあからさまににやけた笑いがこぼれた。


 明星が、さらに連続で矢を放った。

 黒い球を包んでいた蔓を、法衣の者がさらに増やした。太く、強く絡めさせる。放たれた矢を叩き落すべく、手に握る扇子を明星に向け構えた。


 男が背後からさらに斬りつけた。明星に気を取られた法衣の者が、背を抑えながら前のめりに倒れた。


 法衣の者から小さな苦悶の声が出た。


 昴宿が、これ以上ないほど高らかに笑い声をあげた。


「どうした草木妖! 先ほどの余裕は一体どこへいってしまった?!」

「おのれ……!」


 扇子を、木に叩きつける乾いた音が響いた。

 法衣の者が、今まで自身の肉体であったものをほどくかのように全身を蔓に変えた。這うように蔓が広がり、宙に浮く黒い球へと一気に伸びていく。人間の体を成していた部分が、毛糸をほどくようにするすると小さく消え去った。切り刻まれ原型をとどめなくなった桃色の法衣と共に、すべての蔓が黒い球を包むように集まっていく。


 再度、木を叩く乾いた音が大気に響いた。


 蔓を集めた黒い球が、急速に圧縮し始めた。人間の頭程度にまで圧縮された蔓が、内側から強く拍動するように大気を震わせる。


 黒い球が回転し始めた。

 拍動が、さらに早く、強く打ちならされていく。


 明星が矢をつがえた。強く、弦を引き絞る。


「待て」


 男の声だった。

 矢を構えていた明星の前に、背の高い男が割り込むように入ってきた。


 突然の静止に面食らったような明星へ、男が軽くにやけながら振り返った。


「ここからは俺の仕事だ」


 革で補強された胸元から、男が一枚の短冊状の紙を取り出した。小さな紙の中心に、幾重にも重ねられた八角形の文様が密集するように描かれていた。


 はっと、明星が息をのんだ。


 包みに挟まっていた、薬屋の若い女が見せてきた紙と似ていた。



 —― まじないの一種ですわ ―—



「金気よ!」


 稲光が男へ落ちた。

 呼応するかのように、男の握っていた紙が青白く発光した。右手に握るむき出しの刀身へ、なぞるように紙を滑らせていく。


 刀身が、鋭く、吸い込むように、青白い光をまとった。


「汝の力で木気を剋せ!」


 男が刀を頭上に振りかぶった。

 黒い球をめがけ、強く踏み込むように刀を振り下ろす。


 何の抵抗もなく、巻き付いていた蔓が、刃を素通りさせるかのように断ち切られた。


 一呼吸の静寂だった。

 耳をつんざくような甲高い金切り声が、強く大気に響いた。


 両断された黒い球が、小さく震えた。

 螺旋を描くように動き始めた黒い球が、高速で回転しながら上空へ跳んだ。


 はるか上空へ爆ぜるように飛んだ黒い球が、地の彼方まで一瞬で飛んでいった。



 *



 固い木の実の、砕ける音だった。


 がらんどうの空間の中、固い、木の実の砕ける音が響いた。青白く発光する硬い岩に反響し、何一つ音のない中、その砕けた音だけがただただ響いた。


 青白い薄明かりの中、岩の台の前に、全身を覆う桃色の薄い布を着た女が座っていた。


 岩の台に置かれた、小さな桃の種を手に取った。

 種が割れ、中の仁が砕けていた。


始華しか


 岩の陰にある上り階段から、しわがれた声が聞こえた。


 小柄な老人だった。

 腰を曲げ、顔も体も全身を白い法衣で包んだ小柄な老人が、ゆっくりと岩の陰から階段を下りてきていた。


「黒結晶だけが届いた」


 老人が、枯れ木のような手に小さな石を握っていた。震えながら、女の手に渡した。


 受け取った石を、女が顔の高さまで持ち上げた。光に照らすように、幾度も角度を変える。ながら凝視した。


 黒曜石のような石だった。大きさは人のこぶしほど、水晶のように角がいくつか立っている。

 ただ、その中が異様だった。真っ黒な石の中から、角度を変えるたびに揺らめく、青白い炎のようなものが内包されていた。


「先ほど、複製体の一つが砕けました」

「ほう」


 老人が、岩の台を見た。いくつかある桃の種のうち、一つが割れ、中身が粉のように砕けている。


「術師に追い付かれたようです」

「術師」

「それに、十二年前の残滓がおりました」


 老人が、割れた桃の種を手にとり、砕けた粉をつまんだ。

 ゆっくりと布の下から口に運び、粉を舐める。


「……なるほど」


 老人が手についた粉を払った。


天狐てんこの尾を踏んだか」


 黒い石を持った女が、青白く光る岩の壁へ移動した。人の頭ほどの大きさのくぼみが、いくつも穿たれたように作られている。


 平たく、滑らかに作られたくぼみの底へ、そっと石を置いた。

 石の台座が、内包する炎を照らすように強く青白い光をともした。


「あと半分ほど、間に合わせねばなるまいな」


 何も置かれていないくぼみに、老人がしわがれた手を置いた。


 女が無言でうなずいた。石から手を放し、何もないがらんどうの空間を振り返る。


 うすぼんやりと青白く光る岩の壁が、果てしなく遠くまで続いていた。壁一面に小さく穿たれた穴と、それぞれの穴に灯された小さなろうそく。はるか遠くまで、まるで夜の星のように何千と揺らいでいた。


「我々のこの二十四年。何としてでも——」

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