第 八 話 九月九日(六)
甲高い、金切り声のようなものが空一面に鳴った。
耳を突き抜けるような高音が、全身を貫いていく。
黒い球の断末魔だと感じた。
「飛ぶぞ!」
地面へと垂直に落ちていた軌道が、急激に捻じ曲げられた。爆散した虚の破片が飛び散る中、明星を咥えた昴宿が地表と平行に駆けるように突っ切った。
「構えろ。まだ核を貫いていない」
「核?」
急激な動きに吐きそうになる明星をよそに、昴宿が飛散した虚の破片を走りながら口で咥えて見せた。
「見ろ」
ぎょっとした。昴宿が咥える黒い破片が、昴宿の口の中で小さくもがくようにうねっている。
「こいつらは結局は呪いのかたまりだ。どれだけ細切れにしようがこうやって死なん」
「じゃあどうやって――」
「核をつぶす!」
昴宿が勢いよく黒い破片を噛み砕いた。
「乗れ」
「乗れって、お前――」
小さな叫び声が明星から飛び出た。
昴宿が、咥えたままの明星を大きく宙へ投げていた。
放り投げられた明星の着地を待たず、宙を四つ足で踏みしめた昴宿の体が一気に数倍もに膨れ上がった。
巨大化した昴宿の背に落ちた明星が、しがみつくように昴宿の毛を掴み、背にまたがった。
「無茶苦茶すぎる!」
息を切らした明星が強く昴宿の背を叩いた。
「私はいちいちお優しくないんだよ」
昴宿が尾を突き上げた。風を切るように尾を振り、駆けるように空を再度走り出した。
振り落とされそうになった明星が、必死の形相で昴宿の毛をつかんでいる。一切躊躇せず、本堂を中心に弧を描くように昴宿が宙を駆けた。
しがみついた明星の眼下に、虚に貫かれ形を失った本堂の残骸が広がっていた。その周りで、ゆっくりと飛散していく小さなもやのような黒い破片。
「あれか……!」
何かが一点、宙に浮いていた。
小さな塊のような黒いものが、飛散する黒い破片の中に浮いている。飛散していく黒い破片のその中心で、再度取り込むようにゆっくりと小さな渦を巻いていた。
「あの中心を射抜け」
昴宿にまたがった明星が、無言で弓を構えた。
瞬間、ゆるやかに収束していた黒い破片が、一気に渦へ飲まれ始めた。
敵を排除する本能を持つかのように、空中で集まっていく。小魚がその形を擬態するように、群れごと明星のほうへ鞭がしなるように襲ってきた。
昴宿が空中を駆けた。黒い魚群の鞭をいなしながら、突き抜けるように宙を駆けあがった。
ぶち抜いた昴宿が、空の上で大きく息を吸った。
強烈な遠吠えだった。震えるような音の波に砕けるかのごとく、黒い破片の群れが動きを止め、緩やかに細切れのように散っていった。
「打て!」
昴宿の声と同時に、明星から矢が放たれた。光る矢の一筋が、黒い破片を無視したまま中心の小さな黒い塊へ一直線に突っ込んでいく。
固い、木の板を打ち付けたような乾いた音が響いた。
突然、何もなかった空間に、桃色の袖が現れていた。
ただ布にしか見えないその袖に、深々と矢が突き刺さり止まっていた。
明星を乗せたまま、昴宿が反射するように後ろへ跳んだ。
「……何かくるぞ」
黒い塊の横に、小さな揺らぎのある青白い楕円が上下に広がった。
宙に浮かび上がった楕円の中から、ゆっくりと何かが這い出てきた。
人間だった。
頭から裾までをすっぽりと覆う、異様な桃色の法衣を着た人間だった。袖に矢を刺したまま、広がった楕円をこじ開けるようにゆっくりと這い出てきていた。
「あいつ……!」
弓を構えたまま、明星が声を出した。
顔が、布で隠れ一切の表情が見えなかった。
法衣を着た人間が、自身の袖に刺さった矢をゆっくりと引き抜き地へ投げ捨てた。さっきまで矢が刺さっていた袖を、払うように軽く撫でた。
明星たちを見据えるように、宙に浮く黒い塊の前に立ちふさがった。
「都から来たやつだ……!」
法衣を着た人間が、無言のまま、桃色の袖を小さな黒い塊にあてた。あたりへ大量に飛散した黒い破片が、再度塊に戻るかのように渦を描き、勢いよく黒い塊に飲み込まれて行く。
「打て!」
昴宿が叫んだ。
反射するかのように明星が弓を弾き絞った。
何も、明星からは放たれなかった。
「どうした!」
「あいつに当たる――」
法衣を着た人間が、明星を見ていた。
弓の軌道を遮るように、黒い塊の前に位置取っていた。
「当たり前だ!」
「人間に当たってしまう!」
舌打ちと同時に昴宿が駆けた。
明星を乗せたまま、一瞬で間合いを詰めた。法衣を着た人間の首に、昴宿が深々と食らいついた。
「昴宿!」
背に乗った明星が叫んだ。
明星を無視した昴宿の牙が、さらに深く喉元へ食い込んでいった。前足の鉤爪が頭を圧し折るかのように押し込み、本来首の骨があるべき個所をただ食いちぎるべく牙に力を込める。
法衣を着た人間の首が、尋常ではない角度に捻じ切られていった。
「見ろ! 明星!」
背に乗った明星から、小さな嗚咽が上がった。
「こんなものが人間であってたまるか!」
一気に昴宿が法衣の者の首を噛みちぎった。胴体から切断された頭へ、追撃するかのごとく布の上からさらに食らいついた。
「言え!
「尊い方、星の君」
首を食いちぎられた法衣の者が、何事もなかったかのように声を出していた。深々と肩に刺さる昴宿の鉤爪へ、真っ白な枯れ木のような手を伸ばし押し返そうと力を込めた。
「お放しください。無意味です」
「答えろ!」
昴宿が再度顔面に食らいついた。牙が布を切り裂き、露出した顔を食いちぎる。引き裂かれた布の破片が宙に舞った。
明星が弓をつがえたまま思わず目を背けた。あまりに激高した昴宿の行為に、目の前の惨劇が正視に耐えられなかった。
が、次第に何が起こっているのかを理解させられた。
それをも上回る奇妙な光景に、凝視せざるを得なかった。
目の前で、昴宿に食い破られている法衣の者の顔が、原型をとどめないほどにかみちぎられたにもかかわらず、一滴の血も流れていなかった。切断された首の下から、細い木の蔓が傷口を修復するかのようにうごめき、胴体とわずかにつながっている。
明らかに人間ではなかった。
「明星! 虚を打ち抜け!」
昴宿の叫びで我に返った。
弓を強く弾き絞り、再度黒い塊へ矢を向ける。
「生じよ」
法衣の者が声を発した。
法衣の袖から無数に生えた木の蔓が、意思を持つかのように明星の左手ごと弓の弦を絡めとった。
「こいつ……!」
固い蔓が、ゆっくりと根を張るように、太く、弓と手を浸食してくる。
明星が、弦につがえていた矢を弓から引きはがした。強く握りなおし、法衣の者の顔面へ直接叩きつけるように突き刺した。
肉に刺さる感触がなかった。何か、固い木のようなものに刺さる感触がした。
針のように細い緑色の矢から手を離し、再度空中で新たな矢を生んだ。わずかな布の切れ端が残った顔面へ、連続してさらにたたきつけた。
法衣の者が、右手の袖を黒い塊へ向けた。
食らいつく昴宿と刺し続ける明星を無視するかのように、袖から伸びた蔓が黒い塊を取り囲むように覆っていく。
黒い塊が、反応した。
蔓と呼応するかのように、宙に舞う黒いかけらを再度吸い込み始めた。
昴宿が大きく吠えた。法衣の者の顔に食らいついていた牙を離し、黒い塊を包む蔓へと矛先を変え、再度全力で噛みついた。
「理解しかねます」
瞬間、黒い塊から、大気を震わせるような強い拍動が放たれた。
食いちぎられた法衣の者の頭が、切り裂かれた蔓とつながった。迎え入れられるかのように、再びゆっくりと体に収まっていく。
「無意味なことをされる。あなたのみでは、私を滅することは不可能であるとご存知のはず。契約したこの子も、術をもって私を葬るなどできようはずもない。何故このように執拗に狙うのですか」
「無意味だと?」
昴宿の膨れ上がった鉤爪が、再生しつつある法衣の者の顔面に再度食い込んだ。
「この虚のせいで太白は死んだ! 貴様が虚を先導したのではないのか!」
「合理ではなく、怒りだとおっしゃるのですか」
「答えろ! 貴様何の目的でこの虚を使った!」
「これではまるで――」
驚いたような表情と共に、法衣の者が戯れるような声を出した。
「まるで人のようではありませんか」
昴宿が法衣の者の頭を一気に噛み砕いた。
頭を失った法衣の者が、崩れた法衣と共にするすると蔓を伸ばしていく。昴宿の牙を無視したまま、なおも黒い塊を包むように集まっていった。
昴宿が、牙に絡んだ蔓を引きちぎるように吐き捨てた。
「話にならん」
「尊い方。申し訳ありませんが、私の役目はこれを持ち帰ることです」
黒い塊を、法衣の者の蔓が包み込んでいた。
人の形を取り戻した法衣の者が、枯れ木のような手を上に広げる。ずたずたに切り裂かれた桃色の法衣の背後に、人を飲み込むほどの大きな青白く発光する円が現れた。
「ごきげんよう」
法衣の者が、黒い塊を手に振り返るように青白い円を向いた。
一瞬、動きが止まった。
飛び込む先であったはずの円の中から、刃を握った背の高い男が飛び出してきていた。
「な……ッ」
「残念」
男の刃が、身構える間もなく法衣の者を真っ二つに両断した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます