第 七 話 九月九日(五)

 視界を貫くような光の後、ゆっくりと、確かめるように目を開いた。


 一面を覆う、雲一つない群青の空の中だった。視線の先、眼下をかすめる一面に、きらめくように日の光を反射する真っ青な海が広がっていた。


「構えろ!」


 狐が、仰向けになった明星めいせいの上で強く叫んだ。


「落ちるぞ!」


 氷が砕けるような音がした。

 二人を包んでいた青白い光の球が、その薄い膜をほどけるように砕けて割れた。


 瞬間、強烈な風が勢いよく下から吹き上げてきた。


 違った。

 落下しているのだ。


 空と海の果て、薄くぼやけた水平線が全く位置を変えない。相当な高さから、ただひたすらに体が落ちているのがわかる。


 強烈に吹き上げてくる風の中、落ちる自分を示すよう、真っ青な空にわずかな白い粒が軌跡を描いている。風にあおられ回転する中で、空の青と海の青が交差するように明星の視界を覆いつくしていた。


 叩きつける風で、栗色の髪がばらばらにほどけた。

 結び付けていた髪紐が、涙とともにちぎれて空へ吸い込まれていった。


「何なんだ! お前ら何なんだ!」


 明星が吠えた。


 はるか下、かすむように小さく見える地上で、粉砕された本堂の残骸が見えた。

 それを蹂躙するように動き回る巨大な真っ黒の塊――


「説明は後だ。太白たいはくの後詰をやる」


 狐が、強く風を受け尾を逆立てながら、明星の帯に食らいついていた。真っ白の泥一つなかった体が、血にまみれ赤黒く染まっていた。


「よく聞け明星。お前には今、二つの選択肢がある。一つは、ただ生きるだけの選択だ。うろのことも、太白のことも。今日あったことはすべて忘れ、この場から逃げる。その後は、何もなかったように生きればいい。もしお前がそれを望むなら、それはそれで面倒を見よう」


 狐の視線が、明星をじっと、ただ見据えていた。


「だが! もしお前が! 違う望みを望むのならば! その石を握りお前の望みと願いを込めろ!」


 明星が左手を見た。

 中指に紐で結ばれた、虹色に光る小さな石がつながれていた。


 ―― なくさずに持っていてくれ ――


 白髪の男が言った言葉を思い出した。


「なんなんだよこれ……」


 目を侵す涙が、吹き付ける風で乾いて消えた。


「太白は死んだ」


 狐が、口を開いた。

 一瞬、揺らいだような声だった。


「お前をあの大虚から逃がすために死んだ」


 明星の顔が、凍り付いた。

 こわばった表情のまま、真下を見た。


 はるか下に見える黒い塊が、その満月を欠けるかのごとく食い破られていた。


「明星! お前が今願うことはなんだ!」


 狐が吠えた。

 強く、鋭く明星をにらんだ。


 真下から吹き付ける風の中、明星は大地を睨むように体をひねっていた。黒い球を眼下に見据え、左手に結ばれた小さな石を強く、砕けるほどに握りしめた。


「生きたい――」

「他には!」

「宇航を助ける」

「まだあるだろう!」


 一瞬、白髪の男の最期の顔が目の前をよぎった。

 困ったような笑顔だった。


 いつだってそうだ。困ったような顔で笑う。こんな時まで、困ったような顔で笑って消えたのだ。


 明星の顔の両側から、涙がこぼれ空を舞って散った。


「俺は、あの虚を殺す!」


 狐が大きく吠えた。


「願え! お前の意思を持って虚を殺すと! 我は昴宿ぼうしゅく、願いをかなえる天狐なり!」


 虹色に光る石が、手の内からあふれ出すように強く青白い光を放った。目を開けていられないほどの閃光が、吹き付ける風よりも早く明星を貫いていく。


 左手の中で石が暴れだした。手にまとわりつくように強く光った後、弾けるように光が消し飛んだ。


 大きな、虹色の弓に姿を変えていた。


 茫然としたまま、明星が虹色の弓を見た。


「新たなる契約は成った!」


 血まみれだった昴宿が、光とともに真っ白に光る狐に姿を変えていた。

 明星の背に乗ったまま、吠えた。


「お前の願いをかなえるために打て!」


 明星が空中で右手を放つように開いた。何もなかった右の手のひらから、緑色の細長い針が生えるように飛び出した。手のひらの針を引きちぎるように握りしめ、つかんだ針を弓の弦につがえた。


 弓から走る光が、螺旋を描くように矢を包んだ。光がはじけ、握っていた矢が虹色の輝きを放った。


 ―― 言葉を唱えろ ――


 頭の中で白髪の男の声がした。


 なぜだかわからないが、たしかに聞こえた。


 弓を引き絞った。矢の先端を眼下に広がる黒い球の中心に据えた。


「行け明星!」


 昴宿が叫んだ。


 視界をぼやけさす涙が、すでに乾いていた。

 魂をすべて吐き出すかのように、大声で明星が叫んだ。


「汝人にあらざれば、即ち死して滅ぶべし!」


 明星の手から、虹色に光る矢が放たれた。


 青白く光る軌道を描きながら、一直線に黒い球を貫いた。吸い込まれるように消えた一筋の光から、螺旋を描くように黒い球が膨らんだ。


 永遠にも感じられるわずかな後、一瞬で黒い球が四方へ弾けるように爆散した。

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