第 六 話 九月九日(四)
幼少期の記憶はない。
気が付いたら、白髪の男と一緒に生活していた。それが思い出せる最古の記憶だった。
住む場所を転々としていた。
様々な村へたどり着いては、決まって逃げるように夜中に村を後にしていた。白髪の男に手を引かれるまま、途中でよく寝てしまったのを覚えている。なぜそうなっていたのかはわからない。
この、小さな漁村に居ついてからもう五年になる。山のはずれの、家主のいない放棄された小屋。白髪の男が、困ったように笑いながら頭を撫でたのを覚えている。そういえば、あの白い狐はこの村に居つく前から見たことがあった。なぜだったのだろう。
同じくらいの年の連中から、白髪の男についてよく聞かれた。父なのか。どうしてお前と一緒にいるのか。言葉に詰まり、逃げ帰るように戻った家でそれを聞くと、いつも決まって、困ったように笑いながら頭を撫でてくるだけだった。そのうち、聞くのをやめた。
手から草木が生えることに気が付いたのは、いつからだったのか覚えてはいない。ただ、人に見せることはしなくなった。そのことが村を出るきっかけになったことを知ったからだ。それに気が付かないまま、同年代の興味を引きたくて見せたこともあった。ただ決まって、気味悪がられて終わった。そして村を逃げるように出る羽目になった。少しずつ、誰にも見せないようにすることを覚えた。なぜ自分にだけこんなものが生えるのか。男に聞いてみたが、やはり困ったように笑うだけで教えてはくれなかった。
祭りに参加できなかったら師匠のせいだ。今日、そういった気がする。
実際はわかっている。村の人間と、根付くように打ち解けることを避けているのは自分のほうだ。師匠の人への忌避は、自分の嫌な部分を見ているようでイライラする。
この村にきて初めてできた友達。二つ年上の、調子のいい奴。年上風を吹かせてくる。追いつきたいと思っても、もっと先に行ってしまう。
あいつは俺のこのとげを、気味悪がらなかった。
宇航。二つ上の唯一の友達。あいつは今日、本祭に参加している。
俺は、今、何を……?
何も見えなかった。目を開けているのか、閉じているのかもわからなかった。
何も見えない真っ暗な中、不規則な速さで、小さく生暖かい粒が顔にあたるのを感じる。
水滴のようなものが頬を伝い、口に流れた。
鉄の味がした。
「起きたか」
聞きなれた声がした。
真っ暗な中、うすぼんやりとする意識の中、声のする方を向いた。
「師匠……?」
「まだ寝てていい」
ぼんやりと響く声に、言葉のまま何も考えなかった。
目の前で何かが動く気配がした。うすぼんやりと、小さな青白い光がともり、目の前が見えるようになった。
真っ暗な空間だった。ただただ何もかもが真っ黒な中、横たわる自分の上に、青白い光で照らされた白髪の男が頭の上にいた。
「失敗してしまったな」
男が、困ったような顔で笑いながら言った。
頭がぼんやりとする。
「師匠、俺は――」
瞬間、全身に激痛が走った。声にならない声が出たまま、痛みに反射するように体がのけぞり、その動きでさらにまた痛みが走った。思わず歯を食いしばり、目から涙が滲んだ。
「動くな」
男が、
ゆっくりと、痛みが引いていくのがわかった。
「
男が、明星の隣へ声をかけていた。
狐がいた。
ほんのすこしの薄明かりの中、赤黒く変色した横たわる毛の隙間から、ゆっくりと狐が目を開いて男を見た。
「明星を、お願いすることになるようです」
男の言葉の後、狐が視線だけで明星を見た。
うなずくように、ゆっくりと狐が目を閉じた。
お願い? 誰に何を……?
瞬間、ぼんやりとしていた明星の表情が、何かを思い出したように険しくなった。
「師匠!」
体を起こそうとし、全身に再び痛みが走った。
男が無言で、押し付けるように明星の頭を撫でた。
「寝ていろ」
「違う、師匠。宇航が……本堂が黒いのにやられて」
目から涙が出てきた。混乱していた。
痛みなのか、恐怖なのか、明星自身にもわからない涙だった。
男が変わらず明星の頭を撫で続けた。
「師匠――」
手で涙もぬぐえないまま、明星がひりだすように言葉を出した。
「俺、もう、何がなんだか全然わからないです」
ぐちゃぐちゃになった明星の顔を、男がゆっくりと優しく上衣の袖でぬぐった。
何もない、小さく青白い光だけが見える暗い空間。
その中で、複数の鳥が同時に鳴くような、ただ耳障りな甲高い音。その音だけが、遠く離れた場所からかすかに耳に届いた。
間近で、何かが折れ砕けるような音がした。激しい揺れが、一度強く起こった。
「
隣で、沈むように横たわっていた狐が口を開いた。
白髪の男が、無言でうなずいた。
「明星。何も説明できなくてすまない。だが聞け。今、私たちは、お前も見たあの黒いものに飲み込まれようとしている」
男の言葉に、明星があたりを見回した。
相変わらず真っ黒なまま、何も見えない。
何かがきしむ音がした。
直後、明星を覆うように抱えていた白髪の男の体が、上から押し潰されるように下に沈み始めだした。
「この壁も、もうすぐ保てなくなる。そうなる前に、私がお前たちを逃がす」
「師匠は――」
明星の言葉に、白髪の男が困ったように笑った。
男が、自身の胸の前で、両の手のひらを小さく交差させた。手の先がうすぼんやりと青白く光り、それぞれの手を明星と狐の体に当てる。青白い光が、チリチリとした何かが焼ける感覚と共に、触れた個所からゆっくりと全身へ広がっていくのを感じた。
再度、何かが折れるような音が聞こえた。強烈に体ごと揺さぶられる中、男の体が上から圧されるように腰をかがめた。
男から、小さく苦悶の声が出た。
「こんなことになるなら、先のことなんて気にせず、お前の言う通り村の行事にでも出てやればよかったな」
男が困ったように笑った。
明星が、ゆっくりと顔を左右に振った。
青白い光に包まれた狐が、ゆっくりとその四つ足で起き上がった。赤黒く染まった尾を立て、吠えるように大きく口を開いた。
「さあ! 太白! この昴宿、お前との契約の果てとして! お前の最期をたしかに見届けよう!」
乾いた音が鳴った。
男が、自身の前で強く両の手を打ち合わせていた。
瞬間、強烈な閃光が明星の目を貫いた。男の手から、目を焼くほどの青白い光が走っていた。
不思議と、ただまぶしいだけで何の熱さも感じなかった。
「明星」
貫く光で、目を全く開けられないまま、静かに男から声が聞こえた。
「これを、なくさずに持っていてくれ」
明星の手に、何か固い石のようなものが握らされた。
「師匠――」
明星から、目を開けられないまま小さな声が漏れた。
「何なんですか。こんな、形見みたいな、こんなの一体何なんですか」
何も見えない中、男が笑ったような気がした。
「昴宿様。十二年前にお約束したものは、結局果たせずじまいで終わるようです」
狐から、一呼吸の後、今までとは違った柔らかな声が出た。
「存外、悪いものではなかったよ」
男から、大きな笑い声が出た。
「昴宿様、明星をお願いします」
「くどい!」
狐の声がした。
「引き受けると言っている」
「明星!」
何かが明星の頭を掻きまわすように撫でてきた。
瞬間、目を貫くような青白い光が急速に弱まった。強く瞼を閉じていた明星が、ゆっくりとその目を開けた。
視界が、青白く明るくなっていた。
見渡せるようになった空間の中、頭から血を流した白髪の男が、困ったように笑いながら明星を見ていた。
「師匠!」
男が、青白く光っていた手を手刀のように切った。
明星を覆っていた薄く青白い光の膜が、明らかに光を放ち球となって包み込んだ。
嫌な予感がしていた。
明星が、球の中から男へ叫んだ。
青白い球の膜が、空気の振動を一切外へ伝えなかった。
男が、小さく口を動かした。困ったように笑っていた。
何を言っているのか、やはり明星には聞こえなかった。
閃光が明星の目を貫いた。ただまばゆいだけの真っ白な閃光が、空間すべてを飲み込み光となって爆ぜた。
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