第 五 話 九月九日(三)

 何が起こっているのか――

 明星めいせいは全く理解ができなかった。


 陰りが差していた。


 遠く、山門を抜けた先の高台から、真っ黒な柱が天を貫くように突きあがっていた。


 悲鳴がいたるところから上がった。

 地響きが小さく収まりつつある中、空から大量の何かか降り注ぎ始めた。


 吹き飛ばされた本堂の破片だった。

 はるか上空、立ち昇った黒い柱の先端から、突きあげた本堂の破片が狂ったように地面へと落ち始めていた。


 はるか上空で、黒い柱の先端が見えた。ゆっくりと、菊の細かな花弁を開くかのように、その先端を空へ展開しはじめていた。


 参道にいた人々が、散るように逃げていた。

 人波が明星の体を飲み込む中、明星は動けなかった。

 茫然としたまま、黒い柱の広がっていくその先端から目が離せなかった。


 赤黒い大量の何かが、遠くそそり立つその黒い柱に小さなこぶのように付着していた。


「坊主!」


 ふいに襟をつかまれた。

 見知らぬ出店の店主だった。大きな腕に掴まれた明星が、一瞬で出店の裏へ引き寄せられたかと思うと、陰になる大木の根元へねじ込むように体を押し込まれた。

 身動きの取れない明星の上に、見知らぬ店主の体が隙間を埋めるように覆いかぶさった。


「ぼさっとすんな!」


 衝撃とともに、出店の屋根が何かに当たりもぎ取られるように吹っ飛んでいった。

 破片だった。降ってきた破片が、そこらじゅうの出店の幕を引き裂きながら吹っ飛んでいった。


 呼吸が小さく浅く繰り返される。心臓が、頭を突き破るほどに脈打っているのがわかる。体中から吹き上がる汗だけが強烈に頭を冷やしていた。


 宇航うこうは――宇航はどうなった。


 あの黒い柱が生えた場所には本行事に参加する人間が大量に集まっていたはずだ。あの黒い柱は、本堂ごと吹き飛ばしたまま天まで貫いている。


 空に見えたあの黒い柱、あれについていた赤黒い小さなこぶ、あれは――


「おっさん……」

「なんだ!」


 震える明星の声に、店主が答えた。


「俺の友達が本行事に――」

「言うな!」


 店主が叫んだ。

 明星を覆う店主の体が、小刻みに震えていた。


「いいか、落ち着くまで何も考えるな! 今お前が考えるのはここで待つっていうだけだ!」


 ゆっくりと、落ちてくる破片の音がしなくなった。

 店主の脇をくぐるように抜けた明星が、出店の陰から本堂の方を見た。


 違和感を感じた。さっきまで日が当たっていた参道に、一本の筋のような影がかかっていた。


 明星が上を見た。

 上空、はるか先で、花弁のように開いた黒い柱の一筋が、参道の上に覆いかぶさるようゆっくりと地面まで垂れるように落ちてきていた。


「上からなんか来る!」


 明星が叫んだ。

 声に反応した店主が、再度明星を引き寄せ体ごと覆いかぶさった。


 強烈な音をたてて何かが地面に落ちた。割れた石畳の破片が、簡素な出店の板をつぶてのように貫いていった。何かの衝撃を感じると同時に、覆いかぶさる店主から鈍い声が小さく上がった。


 黒く、太い。何かだった。

 割れた参道の石畳の中、土煙が収まった後に出てきたものは、参道を貫通するようにめり込んでいた樹木ほどの太さの黒い何かだった。


 小さく震える明星の腕に、赤黒いものが滴り落ちた。

 血だった。


「おっさん……」

「大丈夫だ」


 明星の頭上で、店主が小さく笑った。

 横一線に切れた頬から、脂汗とともに血が首まで流れていた。


 一瞬で、明星の顔がぐしゃぐしゃになった。


 地鳴りがゆっくりと収まってきた。覆いかぶさっていた店主が、ゆっくりと明星の上から離れ木の脇に倒れるように座り込んだ。


「坊主大丈夫か」


 明星が、歯を食いしばりながら無言でうなずいた。

 血と脂汗にまみれた店主が、息を切らしながら笑顔で明星の腕を叩いた。


「俺、行ってくる」

「気をつけろよ」


 山門の奥、本堂へ明星が駆けた。






 参道は、使い物にならなくなっていた。

 衝撃で割れた石畳の破片が、まともに歩くことすら許さなかった。代わりに走った崖沿いの参道脇は、出店の裏だったためかまだ走れる状態だった。


 本堂に入る本山門まで、黒く長い何かが貫くように石畳の真ん中にめり込んでいた。直径は人の胴体ほど、長さはどこまで続いているのかもわからない。表面はぼやけたように黒く、立体感がなかった。


 こいつが落ちてきた衝撃で石畳が吹っ飛ばされたのか。


 人だった。

 向かっていた広場のある本山門のほうから、白い本行事の衣服を赤く染めた男達が這ように走ってきた。


「なあ!」


 出店の横から飛び出した明星が、一人の男に掴みかかるように駆け寄った。


「あんた、本行事の人間たちはどうなってる」


 ひきつった表情の男が、明星の手を強く払った。


「お前も早く逃げろ!」

「逃げろって、何から――」

「黒いのからだよ!」


 男に突き飛ばされた明星の手が、参道の真ん中を貫いていた黒い何かに触れた。


 瞬間、手のひらに鋭い痛みが走った。思わず反射するように手を引っ込めた。


 皮膚がやけどしたように真っ赤になっていた。


 この黒いものは一体何なんだ。


 本山門の奥から叫び声が聞こえた。遅れてまた数人、転がるように白い服を着た人間が飛び出してくる。


 宇航は――宇航はどうなった。


 流れてくる男たちをかき分け、明星が前へ進んだ。


 人波が途切れた瞬間、視線の先に異様なものがあった。

 本山門の奥、黒い何かの先端が、ゆっくりととぐろを巻くようにうねりながら覗き込むようにこちらを見ていた。


 来る――


 思考よりも、早かった。

 黒い渦の先端が、ばねを弾くように明星めがけて突っ込んできた。


 かわせない――


 一瞬だった。

 腕で顔を覆うよりも早く、真っ白な何かが目の前に飛び出してきていた。






 真っ白な尾だった。

 目の前に飛び出した白い塊が、突っ込んできた黒い先端を薙ぐように弾き飛ばしていた。強引に軌道を曲げられた黒い何かが、雪崩のように木々をなぎ倒しながら参道の下へ突っ込んでいった。


 土煙の中、ゆっくりと体を宙でひねらせた白い狐が、音もなく地面へその足をつけて降りた。


「このバカが」


 見覚えがあった。

 山中で何度も見た、白い狐だった。


「お前、死ぬ気か」

「狐……?」


 小さく、狐から舌打ちが漏れた。放心したように硬直している明星のほほを、体長に似つかわしくない巨大な尾が薙ぐようにはたいていった。


「早く逃げろといってるんだよ」


 一瞬の間の後、明星が我に返ったように狐を掴んだ。


「お前、しゃべれたのか!」

「本当にバカだな」


 地面が強く揺れた。


 明星の隣、参道を貫ぬくように埋まっていた黒い何かが動いた。

 根元のある本堂の方から、這っていたその身をゆっくりと宙へ持ち上げ始めた。


「このうろに捕まればお前は確実に死ぬぞ」

「虚……」


 黒く長い何かが、ゆっくりとその動きを止めた。


「来るぞ!」


 浮き上がった黒い蛇のような塊が、明星を薙ぐように暴れだした。さえぎるように飛び出した狐が、白い尾を何倍もの大きさに変え黒い塊を打つ。明星を飲み込む黒い軌道が、固いものにはじかれるようにねじ曲がった。


「さっさと走れ!」

「宇航が!」


 明星が身をかがめながら叫んだ。


「俺の友達が本行事に参加してる!」

「諦めろ」

「何人か本堂から逃げてきてるんだよ!」


 狐が舌打ちするような音を出した。


 一瞬で明星の襟を咥え、本堂とは逆の山門へ引きずったまま強く駆け出した。


「宇航が!」


「この問答をしている間にもお前の死ぬ可能性はどんどん上がっている。私の仕事はお前を生かすことで、それ以外のことなんぞ知ったことか」


 黒い蛇のような塊が、しなる鞭のように這いながら追いかけてきた。


 狐が、およそ人を咥えているとは思えない速さで黒い鞭を潜り抜けた。宙に舞った石畳の破片を、加速しながら白く太い尾で弾き飛ばしながら突っ切った。


 潜り抜ける山門の直前、黒い塊が地面を吹き上げるように貫き生えた。


 瞬間、狐がひねるようにかわし宙へ跳んだ。空中で、振り向くように背後の本堂の方角を見る。

 黒い蛇だった。突きあげた黒い塊と真逆から、空中でひるがえした狐を狙いすましたように一直線で突っ込んできていた。


 かわせない。


 動きが、細切れのように遅く見えた。

 明星の眼前、黒い蛇がとびかかるように食らいついてきていた。


 瞬間、明星が右手を宙に突き出した。


 地面から、緑色の何かが生えるように立ち昇った。

 いばらだった。参道を突き破ったいばらの群れが、互いに絡みつくように重なりながら背の高さを越え一瞬で生えた。


 突っ込んできた黒い蛇が、突然の緑の塊にその勢いのまま衝突した。からめとるように生えたいばらを強引にぶち破りながら、明星の横をすんでの差で突き抜けていった。


「やるじゃないか」


 飛散したいばらのとげの中、狐が嬉しそうに笑い声をあげた。


「イノシシのときも最初からやってくれりゃよかったんだよ」


 叩きつけられるように落ちた明星から、鈍い苦悶の声が出た。


「早く立て!」


 明星が反射するように起き上がった。

 すでに着地していた狐を背に、周りを見た。


 二本の触手が、二人を取り囲むように渦を巻いている。人の胴回りほどだった直径が、いつのまにか自分の背の高さを越えていた。


「なぁ」


 息を切らせながら明星が声を出した。


「なんなんだこいつら」

「だから虚だといっている」

「わかんねえよ!」


 強く叫んだ明星に、狐からあからさまに舌打ちの音が鳴った。


「いいか明星。この状況で、クソの役にも立たないありがたいお話をしてやろう。虚ってのはな。生きてる人間の魂を食う! それだけで頭がいっぱいの、今のお前にとっちゃ対処のしようがない、目に見える形をした死そのものだよ!」


 甲高い、金切り声のようなものが空一面に鳴った。あまりに強烈な空気の振動に、思わず耳をふさいだ。


 三本目だった。

 音の鳴る真上から、三本目の黒い触手がとぐろの隙間をふさぐように突っ込んできていた。


 狐が、再度明星の襟を咥え反射のように地を蹴った。すんでのところで三本目の一撃を避けた。落ちてきた風圧で、打ち上げられた木の葉のように宙に飛ばされた。


 囲むようにとぐろを巻いていた二本の蛇が、一気にその包囲を解いた。

 宙に浮いたままの二人を、鎌首をもたげるようににらみつけた。


 照準が当てられたのを感じた。


 今度こそ、確実にかわせない。


 狐が、咥えていた明星を口から離した。白い尾をさらに太くし、空中で丸ごと包むように明星を覆った。


 大気が震えるほどの声で狐が吠えた。


 黒い塊が、蛇が絞め殺すように狐を囲んだ。

 一瞬で圧し潰した。

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