第24話 単純接触効果
その日の夜は、久しぶりによく眠れた。
そして翌朝、目を覚ました文則は、「なんだ、こんなもんか」と思っていた。
自分なりの一大決心。『ハイツ柿ノ木』に残るという、ある意味で大きな進路の変更をしたことで、なにかが変わると思っていたけれど……寝て起きてみればそんなことはない。当たり前だ。別になにかを成し遂げたわけでも、そのための努力を実際に始めたわけでもないのだから。
だけど、少なくとも今は、なにかを変えたければ自分から行動を起こさなければならないことを分かっている。さすがに、この期に及んでその事実から目を背けたままでいられるほど、文則は世間知らずではなかった。
管理人室を訪れて、高校を卒業したあとも『ハイツ柿ノ木』に残ることを沙苗に報告した。だけど話を聞いた沙苗からは、「締め切り間際の私から、そんなクソしょうもないことで時間を奪うなんていい度胸ね」と割とガチめにお叱りとお怒りの言葉をいただいた。
だけど厳しい言葉の最後に、「……親には、ちゃんと連絡しときなさいよ」と沙苗は小さく付け加えてくる。
「はい……分かってます」
「ん、ならいいわ」
――とまあ、こんな感じで沙苗への報告は済んだ。
親への連絡は、もっとあっさりしたものだった。
父親に、やはり大学へ進学することをメッセージアプリで伝えたところ、『OK!』のスタンプが一個送られてきただけだ。理由もなにも聞いてこない。あるいは、文則がこういう選択をすることをなんとなく悟っていたのかもしれない。
そんな風にして、これまで通りの日常が戻ってきた。再提出を先延ばしにしていた進路希望調査票にも、『
「お前の成績だと多分エスカレーター難しいけど、まあ頑張れ!」
などと言ってきたが……まあ、それもこれから時間をかけて取り戻していけばいいと無理やり前向きな気持ちで考えることにする。
一方で、アメリアの方は、『ファンタジアランド』に行った翌日からやや様子がおかしかった。
オーディションの準備もあって忙しいはずだろうに、頻繁に文則の部屋を訪れるようになっては、無言でクッションの上に腰を下ろして台本や資料を読み込んでいく。向こうからなにも話しかけてこないから、文則の方からも声をかけないようにしているのだが……さすがに気になって、一度こんな質問を投げかけてみた。
「アメリア……なんでわざわざ、俺の部屋で台本のチェックとかをしてるんだ?」
「文則が言ったのよ」
「俺が!?」
「恋は時間をかけて育んでいくものだって」
確かに言った。言ったが、なんとなくアメリアのやってることは違うんじゃないかと文則は思う。
だが彼女は、淡々とした表情と口調で、
「とりあえず、単純接触効果を試してみることにしたわ」
なんてことを言ってくる。それもめちゃくちゃ真剣に。
「単純接触効果?」
そう問い返しても、アメリアの集中はすでに台本の遥か彼方に飛んでいて、沈黙だけが返ってくる。視線の一つもよこさないのだから、きっとこちらの言葉など耳に届いてすらいないのだろう。
「ま、いいか。……いいのか?」
疑問を覚えつつも、文則はどうにか納得してその状況を受け入れる。正直、ちょっと落ち着かないが、邪魔に感じるというほどでもなかった。
それからオーディション当日を迎えるまでは早かった。
文則はその日、アメリアをオーディション会場へと送り届け、近くの喫茶店で時間を潰して待つことにする。今回は少し気になって、電子で購入した『君ヨ笑エと月は云う』がコーヒーのお供だ。
それを読み進めている最中に、文則はふと気づいたことがあった。
「……アメリアの出てるアニメの原作をまともに読んだの、これが初めてだな」
これまでは無意識に避けていたのだと思う。だけど心境の変化があったのだろう、今ではこうして触れることができるようになっていた。
その変化が、どのようなものかは、自分でも今は分からない。しかし、きっと悪い変化ではないだろうと文則は頬を緩ませた。
五巻を半分ぐらいまで読んだところで、オーディションを終えたアメリアと合流する。
「どうだった?」
「受かったわ」
「もう結果が出たのか!?」
驚く文則に、アメリアは首を横に振る。
「まだよ。報告は多分、来週」
「そうなのか」
今が六月の始めぐらいだから、結果が出る頃にはちょうど中間テストの直前ぐらいだ。
「でも、確実に受かったわ」
自信満々にアメリアが断言する。結果がまだ出てないのに、そこまで言い切ることができるのは、逆にすごい。
「……すごいな、お前」
「なにが?」
「なにもかもだよ」
文則の言葉に、アメリアはきょとんと首を傾げる。
それからややあって、彼女は納得したように小さく笑った。
「そう……なるほど、こういう感じなのね」
胸元を抑えて、しみじみと呟く。なにやら意味深だ。
「……? どういう意味だよ」
「なんでもないわ。文則にもきっとそのうち分かる」
「……?」
よく分からないことを言うアメリアに首を傾げつつも、文則はそれ以上訊ねることができなかった。
駅へ向かって足を踏み出したところで、スマホが着信を告げる。
「やっほ~! アメりん、結果どうだった!?」
電話をかけてきたのは絵麻だった。
「まだ、結果出てないですよ。アメリアの話だと、来週ぐらいには分かるらしいですけど」
「あれ、そなんだ?」
「まあでも、アメリアは受かったって言ってますけどね」
ちらりと横目でアメリアを見れば、彼女はぼんやりとした表情で隣を歩いていた。
「そっか~! となると、今夜は宴会だね!」
「は? 宴会?」
「オーディションの合格祝いだぞ!」
「いや、だからセンパイ、話聞いてました? 結果出るの来週ですよ?」
「じゃあ、前祝いだ! 大宴会時代の始まりだ!」
「勝手に始めないでくださいよ。祝っておいて落ちてたらどうするんですか」
「でも、アメりんが受かったって言ってるんでしょ?」
当然のような口調で電話口で絵麻がそう言ってくる。
「だったら問題ナッシングだよ!」
そこでブチっと電話が切れる。絵麻のことだ。宴会とやらのため、さっそく買い出しにでも出かけて行ったのだろう
スマホをズボンのポケットにしまい込みながら文則はため息をこぼした。
「ったく……相変わらず自由な人だな、あの人も」
そこで顔を上げると、ちょうどこちらを見ていたアメリアと目が合った。
「……」
じっと、透明な瞳でアメリアが見つめてくる。
「な、なんだよ……」
「……」
「いや、なんか言えよ……」
「……」
「なに? 無言で不満の表明ですか? いわゆる女子の『察してよ』的なあれですか!? 俺マジそういうの無理な人なんで、ハードル高めの要求とかやめてくれませんかね……」
沈黙に耐え兼ねてそうツッコむと、アメリアが不意に半歩、文則との距離を詰めてきた。
そうなると、もうほとんど、ぶつかりそうなぐらいの距離になる。いや、実際に今、肩がトンと軽くぶつかった。多分、アメリアがわざとぶつけてきたのだ。文則には分からないが、何かしらの意図を持って。
「ひょ……に、にゃんらよ!」
動揺しすぎて噛んだ。肩がぶつかってきたときに、花のような甘い香りが漂ってきたのだ。
うろたえている文則を気にすることもなく、アメリアが元の位置に戻っていく。それから「ふむ……」と少し考える素振りを見せたかと思うと、メモ帳を取り出して何事かを書き込んでいった。
「な、なに書いてるんだ?」
なんとか胸の動揺を鎮めて、横からメモ帳の中身を覗き込もうとする。
「ダメよ」
だが、アメリアはパッと背中をこちらに向けると、手早くメモ帳をしまい込んだ。肩越しに、警戒の視線を向けてくる。
「今はまだ、ダメ」
「今はまだって……いつかはいいのか?」
「きっとね」
「きっとって……」
「時が来れば、いずれ分かるわ」
そう言った時のアメリアは、小さな微笑みを口元に浮かべていた。
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