第22話 普通
「お前、なに……考えてるんだよ!」
瞬間的に沸騰した感情は、そんな言葉を吐き出させていた。
「前から思ってたけど、お前、やっぱり、普通じゃねえよ。演技のためだからって、なんでこういうことがやれるんだよ。普通、もっとこう……こういうのって、大事なもんじゃねえのかよ!?」
「……」
「それを、お前、どういうつもりで……俺が相手じゃなくても、雄星さんが相手でも、こういうことをしたつもりなのかよ……」
「そうね」
「……っ、ダメだろ普通、そういうのは! なんでお前……アメリアは、そういうの分かんねえんだよ。ちゃんと考えないとダメなところじゃないのかよ、そういうことって!」
もはや自分でもなにを怒っているのか分からない。なのに感情はぐちゃぐちゃとしていて、吐き出さないではいられなかった。言葉でもって、目の前のアメリアを殴りつけないわけにはいかなかった。
あるいは、悔しかったのかもしれない。虚しかったのかもしれない。だけどその理由までは自分でもはっきり分からない。あるのはただ、もうどうしようもなく黒々しく濁った気持ちばかり。
そんな風に感情を爆発させてしまった文則に、アメリアはあくまでも淡々とした様子で口を開いた。
「――こんな事例を知っているかしら?」
「は?」
「ある精神科医が関わったことのある事例のひとつよ。知的障害と発達障害を併発している子どもが自傷行為を繰り返すのでやめさせたい、という相談をその医師は受けたわ。その相談に対して、医師はこう答えた。『自傷行為が繰り返されるなら、継続的な愛情不安状態が続いているせいで、過剰なストレスを抱えている可能性があります。親の不安を子どもが察知して、それがストレスを深刻化させている場合もあります。なのでまずはお母さんには落ち着いていただいて、子どもを抱き締めたり、言葉で愛情を伝えたりといった愛情表現を十分に行う必要があるでしょう』と」
なんの話が始まっているのだろうか。突然の事態に文則は混乱しながらも、聞き取りのしやすいアメリアの声に自然と耳を傾けてしまう。
「母親は医師のアドバイスに納得して、その通りに子どもに接したわ。ところが子どもの自傷行為は、収まるどころかより頻発し、行為そのものも過激化するようになった。さて、ではどうしてそうなったのか、文則には分かるかしら?」
「それは……母親の愛情表現が、やっぱり足りなかったから、とかじゃないのか?」
「不正解」
アメリアがきっぱりと首を振る。
それから答えを口にした。
「母親に詳しく状況を確認したところ、その子どもは話し言葉でのコミュニケーション能力が欠如している上に、余暇スキル……暇な時間を潰す能力のことだけど、そういった能力も乏しかったことが判明したわ。だから手持無沙汰になってしまった時に、自傷行為というのはその子どもにとって手軽で便利でツールだったのね」
「ツールって……」
「母親を呼んで構ってもらうための、とても便利なコミュニケーションのツールということよ」
「そんな……そんなの、普通じゃない」
「そうよ。その子ども以外の人間にとっては、普通ではないわ。――でも、ならば、『普通』というのは、誰のためにとっての『普通』なのかしら?」
そのアメリアの問いかけに、文則はハッとさせられる。
「あなたはアタシのことを、普通ではないと言ったわ。その『普通』は誰にとっての、誰のための『普通』なのかしら?」
「それは……っ」
「アタシは演技。演技はアタシ」
以前、口にした言葉を、アメリアは再び口にする。
「だから、それが演技の糧となるなら、可能な限り手を尽くすのはアタシにとって『普通』のこと」
ごめんなさいね? と、そこでアメリアはにっこりとした穏やかな笑顔を浮かべて、文則に一歩近づいた。
「あなたとアタシの『普通』には、どうやら致命的なズレがあるみたいだわ」
「……っ」
「文則、怯えているの?」
そこで文則の目を見たアメリアが、そんな風に問いかけてきた。
文則はなにも答えられない。答える余裕が彼にはない。
「可愛らしいわね」
そんな文則に、アメリアはそう告げてくる。
「文則は、初心で臆病なのね」
「……」
「退屈で平凡で、自分の能力の限界を見ることも怖くて、一歩踏み出すこともできない小心者」
「…………っ」
「だけどいつかは、自分にだってなにかができるはずだと根拠もない夢を描きたいのね」
「それは……っ」
「劣等感を抱えていて、だけどそれを表に出すのは恥ずかしいから、強い言葉で身を護ろうともしてしまう。当たり前に弱くて脆いから、困難を前にすると逃げ出してしまう」
「そんな、こと……」
「そして、できないことがあったら、『自分には才能がなかったのだ』と言い訳と自己正当化に走ってしまう。文則は、そんな、とっても可愛らしい人間だわ」
「俺は、でも……」
「だから『ハイツ柿ノ木』からも逃げるのでしょう? 自分の弱さや惨めさから、手っ取り早く目を逸らすための手段として」
いつの間にかすぐ目の前までやってきたアメリアが、そっと手を伸ばして文則の頬を撫でていく。その指先は頬から顎へ、顎から唇へとなぞっていき、やがて左の鎖骨の辺りで動きを止めた。
「アタシは文則の、そういうとてもみっともなくて、情けなくて、綺麗なふりして汚いところ、好きよ。とっても人間らしいもの」
――そして彼女は、透明な瞳でそれを告げた。
「愛してる。アタシは人間を愛してるわ」
その言葉を残して、アメリアがそっと背伸びする。
文則は逃げられない。完全に気おされている。役者が違う。生き物としての格が遥かに違う。窮鼠は猫を噛まない。食われるだけだ。
二人の唇が重なった瞬間、噴水が煌びやかにライトアップされた。その美しく幻想的な光景は、噴水の周りにたむろするカップルたちを照らしてその甘い雰囲気を演出する。幸せな時間を祝福するかのように、七色に輝く水が噴き上がっては落ちていく。
だけど今、この場に祝福されるべきカップルはいない。
ただ、粘膜と粘膜を接触させただけの他人同士がいるだけだった。
「……以前、文則に、恋を教えてと頼んだけれど」
やがて唇を離したアメリアが、ぽつりと呟く。
「ごめんなさい。ちょっと、分からないみたいだわ」
感触を確かめるように指先で唇に触れながらも、彼女の声は淡々としている。
だけどすぐに気を取り直したように、「そろそろ帰るわ」とアメリアは文則を見上げて言ってきた。
「あ……ああ」
アメリアは一人では帰れない。電車にだって、一人じゃ満足に乗ることもできない。そのことをなんとか思い出した文則は、力ない足取りで歩き出す。
だけど心の奥底では、煮えたぎるような感情があった。
それは怒りとは少し違う。
もっと強くて激しい……悔しさだった。
一年という期間、アメリアの面倒を見てきたつもりだった。ずっと、そうやって、手間をかけてきたはずだった。
だからアメリアの存在は、少なくとも文則の中では無視できないぐらい大きいものになっていた。だけど、アメリアにとってはそうじゃない。彼女の視界の片隅にすら、自分の存在は割り込むことができていない。
それを悔しいと思った。
それを情けないと思った。
そして、同時に……気づいてしまった。さっき、悔しさと虚しさを叫んでいたのは、それが理由だったということに。アメリアが見ている先に自分の姿がないことが、やるせなくて仕方がなかったということに……。
「アメリア……」
気づけば、彼女の名前を呼んでいた。隣にいるはずなのに手の届かない、ずっと遠くにいる人の名を。
「なに?」
「恋って……恋ってやつはさ。普通、もっとこう、時間をかけて育むものだって、俺は思うんだよ」
自然とそんな言葉を口にしていた。
あるいは、アメリアに少しでもいいから抵抗したかったのかもしれない。自分の言葉を、想いを、彼女の中に少しでも刻み込みたいと思ったのかもしれない。きっと、そうだ。
「時間をかけて、育んでいって、想いと想いが互いに変化していって……そういうのが普通、恋ってやつになっていくもんじゃないのかよ。少なくとも俺はそう思う」
「……」
「それは、やっぱり……俺にとっての『普通』なのかもしれないけど、でも、俺はそうあってほしいと思うんだ」
だから、と彼は先を続けた。
「こんなやり方で……恋を知ることなんてできるわけないって、俺は思う」
文則の言葉を受けて、アメリアが少しばかり黙り込んだ。
それからやがて、彼女は言葉を紡ぐ。
「アタシ、その『普通』、嫌いじゃないわ」
「……そうか」
「ええ」
アメリアがそう言ってうなずいてくれたのを、文則は少しだけ嬉しく思った。
そんな風に言葉を交わした二人は、ファンタジアランドのゲートをくぐって外に出る。
そのまま電車に乗って、『ハイツ柿ノ木』の最寄り駅に辿り着くまでは、二人とも無言のままだった。
駅を出て、『ハイツ柿ノ木』へと続く道を歩いている途中、おもむろに文則は口を開いた。
「なあ、アメリア。俺……アパートを出ていくって、言ったけどさ」
「ええ」
「それ、やめることにするよ」
「そう……」
「いつかは、出ていくことになる日が来るかもしれないけど……少なくともそれは今じゃない。せめて大学まで進学して、卒業するまでは、こっちにいようと思うんだ」
自分にとっての『何か』を探して。『何者か』ってやつになってみたくて。田舎から出て都会にまでやってきた。
だけどその、『なりたい何か』ってやつは、全然見つかる気配もなくて。『何者か』になんてなることはできないんじゃないかって不安ばかりで。
夢も、未来も、目標も……何一つとして思い描くことはできないままでいたけれど。
だけど今日、そんな文則の気持ちに大きな変化があったのだ。
正直、思い知らされた。アメリアの視界の片隅にすら、自分の姿がほとんど入っていなかった事実には打ちのめされた。悔しかったし情けなかった。はっきり言って、ショックだった。
だが、同時にはっきりと思ったのだ。――このまま実家に帰ったりしたら、アメリアの視界に割り込むことなどこの先一生できなくなる、と。
それは嫌だと思った。彼女になんの意識もされないまま、終わることなどできやしない。
自分にとっての『何か』はまだ、分からない。だけど、目標はできたのだ。アメリアの視界に割り込むことができるような『何者か』になるという、目標が。
だから、今は、残るのだ。不安と焦りで雁字搦めになって、苦しさに溺れそうになったとしても……そうした激流の中でしか、掴めぬ明日があると信じて。
「……良かったわ」
ぽつりと、アメリアが呟く。
「良かった……って、なにが?」
「文則がいなくなったら、寂しいもの」
「……アメリア、それ」
「でも、寂しいなんて言ったら、文則はきっとアタシを言い訳にして残ったわ」
見透かされている。読まれている。自分で自分のことを決められない、心の弱さを。
「そんな風にして残っても、きっと文則のためにはならないから……」
「だから、黙ってたのか?」
「そうよ。……でも、良かったわ。本当に」
安心した様子で、アメリアが文則の服の裾を握ってくる。
「……」
そのことを嬉しく思う一方で、「なぜ?」と問いかけたい気持ちがあった。なぜ、寂しく思ってくれるのか。なぜ、良かったと感じてくれるのか。
でも、その質問は胸の内にしまい込む。どうせアメリアのことだ。聞いたところで、無粋な回答が返ってくる可能性の方が遥かに大きい。「ドーナツを買ってくれる人がいなくなるから」とか言われたりしたら、嬉しい気持ちも吹っ飛びそうだ。
けれど、まあ。
今はまだ、そんな理由でも構わないかと文則は思えた。
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