第17話 進路調査票

「はあ……」


 学校の教室。その日何度目かのため息を、文則はついていた。


 ため息の理由は、明白だ。つい先日の、雄星とのやり取りで、アパートを出ていけと言われたこと。そしてその会話を、アメリアに聞かれてしまったことだ。


 あの日から、雄星やアメリアの文則に対する態度に、明確な変化はない。ただ、雄星は、「出てく日は決まったのか?」と時折問いかけてくるし、アメリアから意味深な視線を向けられることもぐんと増えた。


 だが、決定的な言葉をアメリアは決して口にしない。それはきっと、オーディションに向けた準備で忙しいからでもあるだろう。オーディションに出ることが決まった日から、アメリアは持てる時間のほとんどすべてをその準備のために費やしていた。


 登校時に、原作の漫画をずっと読んでいるようになった。


 肌身離さず、オーディション用の台本も持ち歩いている。


 気づけばトランス状態に入っていて、ぶつぶつと何事かを呟いている姿を見かける機会も増えた。


 オーディション前のアメリアを見るのはこれが初めてではなかったが、それでもいつも以上に気合が入っているのは明らかだった。


「どうして……今回はそこまで気合が入っているんだ?」


 と、アメリアに先日、問いかけたことがある。その時のアメリアの答えは、次のようなものだった。


「恋ヶ窪躑躅の描く人間を、愛してるの」

「……」

「この子たちの世界の一部に、アタシもなりたいわ」


 愛おしげにそう呟きながら、漫画の表紙を撫でるアメリアのその手つきは、とても優しい。その手つきの優しさが、彼女の胸の内を示しているかのようだった。


「ああ、くそ……」


 机に突っ伏しながら、文則はガリガリと片手で頭を掻く。なんだか、自分だけが圧倒的に取り残されているような気がして、むしゃくしゃとした気分を拭うことができない。


 誰もかれもが自分よりも遥かに前に向かって進んでいる――そんな風に思えて仕方がなかったし、事実としてそうなのだろうと思った。


 なんてことを思っているちょうどそのタイミングで、スマホがメッセージの通知を告げる。


 のろのろとした動作でポケットから取り出し確認すると、父親である柿井則武のりたけからの通知であった。


 柿井 則武:夏休みには一度実家に帰ってこい。佐野さん方にも、お前の方から一度直接ご挨拶しておいた方がいいだろうからな。


 佐野というのは、文則が高校を卒業後に雇ってもらえることになっている、佐野工務店の社長だ。父親の古くからの友人で、その縁で文則も昔から顔を合わせる機会は多い。今回の就職の話も、いわゆる縁故採用だ。


 父親からのメッセージに、文則は『分かった』と入力して、送信しようとする。だけど、指がどうしても動いてくれない。メッセージの送信ボタンを結局押すことができなくて、せっかく入力した文章も一文字ずつ削除してしまった。


「……なーにやってんだ、俺」


 返すべき言葉なんて決まり切っているのに、胸の内でむくむくと悩みや葛藤が膨れ上がっているのを感じていた。それはなかなか消えてはくれない。心の表面に、しつこくこびりついている。


「おーい。柿井、いるか?」


 そんな文則の懊悩に水を差したのは、突然割り込んできたゴリ公の野太い声だった。声の正体は、進路指導担当の鵠沼先生。ずかずかと教室に踏み込んできた鵠沼は、だらしなく机の上に身を放り出している文則のところまで近づいてくると、「ちょっといいか」と声をかけてきた。


「よくないっす」

「おう、そうか。で、進路調査票は書き直せたか?」

「俺、今、よくないって言いましたよね?」


 ゴリ公の用件など、話を聞く前から分かっていた。仏頂面を向ける文則に対して、鵠沼は暑苦しい顔に男臭い笑みを浮かべる。


「悪いな。都合の悪い言葉は耳に入らないようにできてるんだ」

「……それ、俺がなに言っても無意味ってことじゃないですか」


 文則の口から思わずため息がこぼれ出る。


「進路なら……別に、前と変わりないですから。卒業したら田舎に帰って、就職するって決めてます。それ以外のことは、特に考えてないし、考えるつもりもないですから」

「そうか? それにしちゃお前さん、随分迷っとるような顔しとるがなあ?」

「……そんなことないです」


 鵠沼から視線を逸らしながら文則は呟く。


 なぜ、視線を逸らしてしまったのか、自分では分からない。だけど、相手の顔を正面から見れる気がしなかった。なにかを見透かされてしまいそうで、怖かったのかもしれない。


「ふーむ……ま、気が変わったらいつでも言え。相談ぐらいなら、いくらでも乗ってやるからな」


 鵠沼は顎を撫でながらしばらく考え込むような素振りを見せていたが、結局それだけ告げて去っていく。


「俺は……迷ってなんて……」


 残された文則は、拳をきつく握り締める。図星を突かれたかのような、居心地の悪い感覚が心の中に居座り続けていた。

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