第23話 洗礼

1階のフロアに到着し、ドアが開く。

私は靴を鳴らしながら誰もいないフロアを歩き、友愛クラブのビルの自動ドアをくぐって夜の街に出た。

人通りはまばらで、夜の空気は澄んでいた。

なぜか晴れやかな気持ちで、都会の雑踏を歩き出した。

冬子さんでもないのに、宿を失ってしまった。

いつも見慣れたはずの道でさえ、なんだかくっきり目に映った。

通り道でしかなかった景色なのに。

「ま、野宿は慣れてるし」

悪魔を祓うために何もない山の中で眠ったこともあった。

今夜も激闘の末に野原で倒れ込むかもしれない。

私の頭に冬子さんと十字とベレトの顔が浮かぶ。

あの丘にはいま、何人生き残ってるだろうか?

「ヤヨイ様」

そう考えていた私を呼び止める声がする。

振り向くと、ウィルバーがほほ笑んでいた。

「ウィルバー」

複雑な感情が湧きあがるが、旧友に会えたようなよろこびが勝り、思わずほほ笑んでしまう。

「体は、もう大丈夫なのですか?」

「はい、おかげさまで」

ウィルバーはあいかわらずの感じのいい笑顔でうなずいた。

「ヤヨイ様、素敵なお召しものですね」

思わず口角が上がり、顔の血流がよくなる。

「ありがとう」

「よくお似合いですよ」

ウィルバーは私の変化を決して見逃さない。

「ヤヨイ様、よくぞご無事で」

私とウィルバーは夜の街道を並んで歩く。

「そうですね。私もなぜ生きているのか不思議です」

「いったい何があったのですか?」

「あなたが言っていたあの悪魔憑き、終冬子に負けました」

ウィルバーはめずらしく声を出して笑った。

「ですから、あの女には気をつけろと申したでしょう」

「ふふっ、ほんとに。あそこまででたらめな人だとは思いませんでした」

「でしょう? それにしても、よく生きていましたね。グラシャ=ラボラスが不殺を勧めたのですか?」

「いえ、私のときは、冬子さんが私と友だちになりたいと言い張ったのです」

「やはり、あの悪魔憑きは正気の沙汰ではないですね」

「ええ、ほんとに」

私は口元に手を当てて、くすくすと笑う。

「……ヤヨイ様、顔つきが変わりましたね」

「そうですか?」

あいかわらず柔和な笑みをつくるウィルバーが、その高い背丈で私を見下ろしてくる。

「ええ、以前よりも表情が豊かになりました」

私は自分のほほに手を当ててぺたぺたと触ってみる。

「そうかもしれませんね」

「ええ、そうですよ」

私とウィルバーは示し合わせたわけでもなく、ビルとビルのあいだを抜けて路地を歩いていく。

「それで、ヤヨイ様はあの悪魔憑きと友だちになったのですか?」

私は暗い路地を進みながら、口元に手を当てて考えてみる。

「分かりません」

「私には友だちがいませんでしたから、友だちというものが分かりません。なので、私と冬子さんが友だちなのかどうか、判断がつきかねます」

路地は狭いので、ウィルバーは私の後ろをついてくる。

肩幅が広いからか、ときどきキャソックの肩を壁に擦っていてなんだかおかしかった。

「ウィルバーには、友だちっている?」

私は前を向いたまま、後ろのウィルバーに話しかける。

「もちろん。イギリスの友だちの方が多いですが」

「ふーん。ウィルバー、友だち多そうだもんね」

「否定はしません。でもヤヨイ様にもすぐ友だちができますよ」

路地裏に街灯のようなものはなく、月明かりを頼りに路地を進んでいく。

「いったい、どこからが友だちなんですか?」

「難しい質問ですね……」

ウィルバーは手を組んで考えている。

「でも、私は友だちにあらたまって『私たちは友だちですか?』と聞いたことはありませんね。結局、夜宵様がどう思うかが大事なのではありませんか?」

「私が……どう思うか」

私は、どう思ってるのだろう……?

冬子さんは、グラシャ=ラボラスと契約した悪魔憑きで、祓魔師の敵だ。

そして、私を打ち負かし、一週間ほどホテルに監禁して、友だちになることを強要した人物。

こう考えれば考えるほど、友だちになる理由がないように思えてしまう。

「……」

私は傾いたベレー帽を被りなおした。

遊び方を知らない私に、着飾るよろこびを教えてくれた人。

ぶつ切りにした甘みを生地で包んだお菓子の味を教えてくれた人。

映画館でスクリーンに投影された映像と音響設備の爆音の楽しさを教えてくれた人。

そして、人の営みの生む光と、夜の星の明かりの美しさを教えてくれた人。

これなら、友だちになれるだろうか。

「ウィルバー」

「はい」

月明りだけが差し込む、ビルとビルに区切られた都会の空き地に出る。

人が意識して寄りつくことのないような、都心のエアポケット。

私は右手の聖カタリナの短剣を握りなおした。

「お父様から、私を連れ戻すように言われましたか?」

「はい。友愛クラブの第一位が組織を飛び出すなど前代未聞です」

ウィルバーは背負っていたコントラバスのケースをコンクリートの地面に置き、巨大な十字架を取り出す。

「ヤヨイ様、大人しくクラブに戻ってはいただけませんか?」

ウィルバーは十字架のグリップの握り心地を確かめる。

「言葉と行動が一致していないのですが」

「いえね」

ウィルバーは十字架を振るって、戦いに備えた準備運動をしている。

「一度、本気で闘ってみたいと思っていたんですよ」

「友愛クラブの至宝。雨森正眼と雨森影弧の娘。純血の祓魔師。聖カタリナの祝福を受けし乙女。ソロモンの再来」

「エクソシスト教会にもその名が轟く、稀代の悪魔殺し」

「私も同じ祓魔師として、打ちあえる機会を虎視眈々と狙っていました」

「ヤヨイ様、手合わせ願えますか?」

ウィルバーが十字架の先端を私に向けて構える。

「よいでしょう。私がこの剣に頼るだけの祓魔師でないと、分からせてあげます」

ウィルバーは口角を吊り上げて、目を細めた。

「ほんとうに、よろしいのですか? 肉弾戦であれば、僕のほうが強いですよ?」

ウィルバーの言う通りだ。

友愛クラブの序列は悪魔を祓った実績によって決まる。

聖カタリナの短剣を扱える私は、悪魔祓いとしては一級の能力を持っている。

しかし、人間と人間の戦闘に祓魔師の能力は関係ない。

純粋に体格と筋力の差で、ウィルバーのほうが強いのだ。

「力だけが、強さではないのです」

私にあるのは剣技と速度と戦略。

それらを駆使して、ウィルバーを打倒しないといけない。

「先に言っておきますが、十字架の直撃は必ず避けてくださいね。ヤヨイ様の細腕だと四肢ごと吹き飛びかねないので。手加減できなきないんですよ、これ」

ウィルバーは、十字架を軽く揺する。

彼も将来を嘱望され、ソロモンの悪魔を狩るために友愛クラブに招致された逸材だ。

その甘い風貌に似合わず、十字に退けを取らないほどの負けず嫌いだ。

「ウィルバー、私に負けても祓魔師をやめないでね。あなた、意外と繊細だから」

私は決闘の作法としてウィルバーを煽り返す。

「ハッ! 14の小娘が生意気を仰いますね」

「27のお兄さんが本気になっては大人げないですよ」

ウィルバーが力を込めると、彼の筋肉が膨らみ、キャソックがパツパツに張る。

体の大きさが一回り膨らみ、発される圧力も一気に増す。

私は肩ほどの高さで腕を横に伸ばし、短剣を構える。

おたがいに目を離さずに、じりじりと近づいていく。

ウィルバーが十字架を大きく振りかぶって突進してきた。

その爆発力は凄まじく、サイの突進を思わせた。

「ふんッ!」

ウィルバーが十字架を横薙ぎにして私の胴を狙う。

上にも下にも避けづらい攻撃。

直撃したら死ぬ。

私は十字架の最大射程を見切り、バックステップしながら横に回転して、十字架を握るウィルバーのキャソックの腕に切れ目を入れた。

「素晴らしい」

ウィルバーは後ろに飛び退きながら十字架を構えなおした。

私に勝機があるとすればこの目だ。

相手の動きをミリ単位の正確さで把握し、次の動きを予測する。

幼いころから戦闘を仕込まれた私が体得した能力。

「ふッ! はぁッ!」

ウィルバーが十字架を横薙ぎし、足さばきと慣性の力を使い、回転して射程を伸ばした二撃目を打ち込んでくる。

私は十字架の先端を両手で構えた短剣で受ける。

とても止められるような重量差ではないので、腕の力も利用してあえて後ろに吹き飛ぶ。

バク宙する私の視界に、さらに距離を詰めてくるウィルバーが見える。

「もらった!」

ちょうど着地した私の目の前に、上段に十字架を構えたウィルバーがそびえ立つ。

ふたたび十字架の先端が私に迫る。

私は地面に身を転がして十字架の先端を避ける。

「……っ」

十字架が地面に打ちつけられた衝撃で吹き飛んだコンクリート塊が背を打つ。

私はカポエイラの要領で頭を下に体を回転させ、ウィルバーの胴に蹴りを入れて距離を取る。

体格と筋力量の差が大きすぎて、その程度の一撃ではビクともしない。

「そんなんじゃいつまで経っても、僕は倒れませんよ?」

地面に突き刺さる十字架を握るウィルバーは、幽鬼のような立ち姿で私を見下ろす。

もとより祓魔師の能力なしに、私が正攻法でウィルバーに勝つことなど不可能なのだ。

ならば。

私の頭のなかに私を倒した彼女の顔が浮かぶ。

「ウィルバー、少し話をしない?」

「え?」

ウィルバーは呆気に取られた表情で私を見た。

「めずらしい。あの女に何か吹き込まれましたか?」

当たり前だ。

私が戦闘中に無駄話をすることなんていままでなかった。

「あなた、何で祓魔師の道を選んだの?」

私は短剣を胸の前で逆手に構えた。

「そうですね。この道を選ぶ者の理由はさまざまですが……」

ウィルバーは十字架を大きく右脚の後ろに振りかぶった。

「私の場合は……大義ですかねッ!!」

ウィルバーが肥大した大腿筋を使って一気に踏み込んでくる。

十字架が私に向けて振り上げられる。

レーザーのような速度で鉄塊が迫る。

「大義?」

逆手に握った短剣で十字架を流しつつ、ウィルバーの懐に入る。

動きから攻撃の軌道を予測するのは得意だ。

大振りの攻撃ならまず当たらない。

「公平! 公明! 公正!」

私がウィルバーの腕を狙って振り上げた短剣を、ウィルバーは十字架の面で受けた。

「だって、ずるいじゃないですかッ!」

ウィルバーは、十字架を斜め下から振り抜いて私の頭を狙う。

腰を落として十字架の一撃を避ける。

おさげが間一髪で巻き込まれそうになる。

私は地面を蹴った勢いのまま、ウィルバーの腹部に短剣を走らせる。

「人々が血のにじむような努力をして前に進むというのにッ!」

ウィルバーは振り上がった十字架を、純粋な筋力の力で即座に振り下ろした。

私は右足で地面を蹴って、バックステップで避けざるをえない。

「悪魔に寿命を捧げる。ただそれだけの代償で力を手に入れる。その怠慢が、許せないだけですよ!」

十字架についた二つの取っ手の下の部分を、片手で掴んで振ってくる。

一気に伸びた射程に意表を突かれて、私は地面にしゃがみ込む。

実にウィルバーらしい動機だ。

ウィルバーの最大の脅威はあの肉体だ。

一切の妥協を許さない鍛錬でつくられた体を持つウィルバーだからこそ、その言葉は真に迫った。

「悪魔は人を堕落させるッ!」

ウィルバーは十字架の回転力をそのままに、私の懐に一足で踏み込んだ。

ウィルバーは十字架を両手に握り、頭上に構えた。

「努力した者が馬鹿を見ない。そういう世界をつくるために、僕は悪魔を祓うんですよ」

月の光で逆光になったウィルバーがビルのようにそびえ立つ。

陰になった十字架が、ビルに切り取られた四角い空をさらに四つに区切る。

「僕が、世界を正します」

超質量の鉄塊が隕石のように降ってくる。

私は直撃を避けるために地面を転がるように飛び退くと、弾けたコンクリート塊がお腹を打った。

「うっ……!」

地面に膝をついたまま、壁を背にして短剣だけは逆手で構える。

「そろそろ、諦めてくれませんかね?」

月光を背負って、ウィルバーの青い瞳だけが爛々と輝いている。

「これが力の差です」

ウィルバーは体を捻って背中のほうまで十字架を振りかぶった。

「悪魔に騙されないでください。正義は、教会にしかありません」

めずらしく頭に血がのぼり、思った言葉を口に出していた。

「舐めるな」

ウィルバーが動きを止めて渾身の力を蓄える。

「血のにじむ努力を積み上げたのは、貴方だけじゃないわ」

ウィルバーが振りかぶった十字架を右袈裟で振り下ろす。

軌道を予測していた私は、地面から跳躍して十字架を避ける。

十字架が壁を吹き飛ばし、散弾のような石塊が脚を打つけど構わない。

壁にめり込んだ十字架は即座に動かせない。

そのまま壁を蹴ってウィルバーに突っ込んだ。

「――ッ!」

逆手に握っていた短剣でウィルバーの首を狙う。

ウィルバーは筋肉の力で体を大きく逸らす無理な避け方をし、私の短剣はウィルバーの肩口を切り裂いた。

肉を切る感触。

はじめての有効打だ。

私は跳躍のままウィルバーの後ろを取ったけど、深追いはしない。

ビルの壁を背にして短剣を構える。

「油断しました。あいかわらずの切れ味ですね」

ウィルバーは肩口に血がにじむのにも関わらず、十字架をガトリングガンのように構えた。

「あなたがその力を気の遠くなる鍛錬で手に入れたように、私は生まれたときから祓魔師として教育されました」

「それは若いころから祓魔師を目指していた者ですら、想像できないような修行です」

「私は、あなたの努力を14年で超えます」

短剣の切っ先をウィルバーに向ける。

「よいでしょう。ヤヨイ様がそう決めたというなら、僕にできることはひとつだけです」

ウィルバーの体が膨れあがり、全身に血が巡ったからか肩口から血が吹き出し、筋肉の盛りあがりに圧迫されやがて止血される。

「すべての選択にはリスクとリターンがあります。その道を選ぶことの洗礼として、全力で叩き潰させていただきます」

それが、彼なりの礼儀だと、私には分かる。

ここを超えられない人間に、選べるような道ではないのだ。

ウィルバーは十字架を引き抜いて、左脚の後ろに十字架を構える。

ウィルバーの鉄塊は破壊力の一点を極めている。

しかし、その力を生むために大きな武器と振りを必要とするのだ。

そこでこの壁。

ウィルバーの十字架の軌道は限定されるし、壁に衝突した際の隙を警戒し、思うように振り抜けない。

壁から一定の距離を保ちつつ、短剣を背中に構えた。

ウィルバーが一歩踏み込んで十字架を振るのを見ながら、パルクールで壁を走る。

「あなたも――たいした身体能力ですね!」

ウィルバーの十字架が私の足元に突き刺さり、飛散した壁塊が背を打つ。

私は斜め45度になった視界で、前宙しながらウィルバーの肩口に入った傷に正確に短剣を通す。

「グッ……!」

さすがのウィルバーでもこれには顔を歪めた。

ウィルバーの背後に回り、壁を右手に短剣を逆袈裟に構える。

いまの一撃は少なからず通ったはずだ。

それも振りの起点となる肩。

こうやって徐々に相手の動きを鈍らせていくのが、私の勝ち筋だ。

「ヤヨイ様、その道が潰えても、まだ14です。やりなおす機会はいくらでもあります」

「ウィルバー、自分が劣勢だと分からないのですか?」

「ええ、負けるとは到底思いませんね」

ウィルバーはまた右奥に大きく十字架を身構える。

このあとに一歩踏み込んで、大振りの攻撃がくるはずだが、私には当たらない。

返す刀でまた一撃入れられるはずだ。

そこまで頭の中で組み上げた瞬間、ウィルバーはその場で十字架を振った。

「――え」

到底届くはずのない十字架が、速度を上げて私に迫ってくる。

投げた。

私は短剣の刀身で受け、直撃は避けたけど、地面の上を吹き飛ばされる。

すぐに受け身を取って半身を起こしたときには、ウィルバーが目の前まで駆け込んでいた。

ウィルバーのブーツのつま先が、私のお腹にめり込む。

私の体はまた宙を舞って地面で転がった。

「ごほっ! かはっ! ひゅーっ」

私は起き上がり、肩で息をしながら短剣を構えなおす。

腹部が熱を持ち、鈍痛を訴えてくる。

「もとより、アレじゃ過剰火力だったんですよ。どうしてもヤヨイ様の動きについていけるスピードが出ない」

「だからって……使い慣れた武器を捨てる?」

「あれは悪魔用の武器です。悪魔と渡りあうための大質量の聖遺物。ですが、人間と、特にヤヨイ様と闘うには適していないと判断したまでです」

私は、ウィルバーを侮っていたかもしれない。

「ヤヨイ様も仰ったじゃないですか? 僕の最大の武器はこの肉体だと。ヤヨイ様は剣を使っていいですよ。僕の剣は、この拳ですから」

ウィルバーは腰を落とし、拳を構える。

「では、はじめましょうか。ヒトとヒトの、意地のぶつけあいです」

「お相手します」

手を前に伸ばして胸のあたりで短剣を構える。

ウィルバーは5メートルほどの距離を二歩で詰めてくる。

速い。

鉄塊を置いたことで速度を増している。

ウィルバーが左足で踏み込む。

右脚の蹴りを見切った私は、体を回転させてウィルバーの左側面に回り込む。

そのままウィルバーの左の太腿を切り裂こうとたが、ウィルバーは右足を地面に打ちつけてバックステップで避けた。

明らかに反応速度が速まっていた。

私は姿勢の崩れたウィルバーに駆け込む。

右足で地面を踏み切って、空中で回転しながら短剣の切っ先でウィルバーの腕を狙う。

ウィルバーは腹筋の力で、バク転をするように両手を地面に着けて避け、腕の力を使い両足で蹴り込んでくる。

私はウィルバーの靴底に合わせて自分の靴底を押しつけ、空中高く飛んで大きく距離を取った。

「ウィルバー、十字架背負ってないほうが強いんじゃない?」

「よろこんでいいやら、嘆くべきやらですね」

ウィルバーはボクシングの構えで、長い脚を活かして一気に距離を詰める。

右手を振りかぶったのを見て、私はバックステップで射程外に避けようとする。

ウィルバーはそのまま右の拳を振り下ろし、拳は私の眼前を通りすぎ、ウィルバーの背中側に回り――

バックステップで退いた私の鼻先を、一回転したウィルバーのかかと落としが降ってくる。

「おしい」

動けるだけじゃなくて、きちんと意表を突いてくる。

さすがに付き人をやっていただけあって、私の倒し方を心得ている。

私も、全身全霊で相手しないと潰される。

足を開き、腰を落とし、上半身を180度近く捻った。

膂力で劣る私の強みは、体のやわらかさと、回転力が生む速度と短剣の切れ味だ。

ウィルバーがボクシングの構えから、左足を軸に右脚を引く。

ローキック。

私は体のバネを使って回転力を生み、ウィルバーの右脚の上を転がった。

転がりざまに右脚のふとももに短剣を通す。

ふともものキャソックが斜めに裂けて、ウィルバーのふとももに赤い筋が残る。

「――クッ」

けれど、これで終わらない。

回転力を殺さずにウィルバーの背後に回り、慣性のままに体を大きく捻った私は、逆回転しながら地面を蹴る。

私は空中で回転しながら、ウィルバーの背中を切り上げた。

私は着地し、バレリーナのようなステップで、次の回転をはじめる。

「仕方ない」

ウィルバーが何かを決心したような表情になる。

私はウィルバーが顔の前で構えた右の前腕を狙って、短剣を振り――

私の短剣がウィルバーの二の腕に食い込み、骨で止まった。

「は?」

動きの止まった私の鳩尾にウィルバーの左のアッパーが突き刺さる。

「こひゅっ――」

私の肺から空気が漏れて、体が宙を浮いて、地面で転がる。

私はすぐに起き上がり短剣を構えた、が。

「こほっ、かはっ、ひゅーっ……」

うまく呼吸ができない。

胸骨にひびが入っている。

「肉を切らして骨を断つとはよく言ったものです」

ウィルバーは右の二の腕から血を流しながら額に汗を浮かべる。

私はウィルバーの前腕を狙ったのに、捕らえたのはウィルバーの二の腕だった。

ウィルバーが無防備にも間合いに踏み込んできたのだ。

そしてウィルバーの厚い筋肉と固い骨に阻まれて短剣が止まり、がら空きになった私の体に一撃を入れた。

私の短剣はウィルバーの腕を切り落とすには、細すぎる。

もちろんウィルバーも無事ではすまないが、ウィルバーの筋力からすれば私の装甲は紙だ。

これは――

「おたがいの肉体と精神力の削りあいです」

ウィルバーはボクシングの構えで、拳のあいだから青白い眼光を光らせる。

「どうか、早いとこ諦めてくださいね」

私は立ち上がって、体をバキバキと鳴らしてダンサーのように捻った。

「僕も、あなたが再起不能になるのを見たくありませんから」

ウィルバーが重戦車のような突進をしかけてくる。

私は力を抜いた上半身をしなやかに回転させて、ウィルバーを迎え打つために、後ろに飛んだ。

ウィルバーが舌打ちする。

私の短剣はウィルバーの左の前腕の切れ目を入れるが、止まらない。

ウィルバーの肉を切らせて骨を断つ戦闘につきあってたら、こっちの体が持たない。

勝負は間合いの取りあいになる。

ウィルバーはどれだけ間合いに入り込めるか。

私はどれだけ間合いを維持できるか。

私たちは攻防をくり返し、空き地をぐるぐると回る。

ウィルバーが押し、私が退く。

その間にも、ウィルバーの体を細かく刻んでいく。

ウィルバーが踏み込めば、私がダブルアクセルで避けつつ、ウィルバーに斬撃を入れる。

間合いの取りあいはミリ単位で距離感を把握できる私の得意分野だ。

まるで闘牛士と雄牛。

この調子なら、朝が来るころにウィルバーを戦闘不能にできるだろう。

「しゃらくさいですね」

ウィルバーは吐き捨てると体を前傾に倒し、二歩で距離を詰めてくる。

縮地。

古武術の歩法だ。

私は回転しながら距離を取りつつ一撃を入れようとするけど――

深すぎる。

咄嗟の判断で刃を引く。

けれど、ウィルバーの前蹴りはしっかりと私の胸に届く。

「ぐふっ」

肺から息が漏れ、目の前が暗くなる。

骨から伝わる激痛に意識が飛びそうになる。

私は地面を転がって、その回転を使いつつ立ち上がり体を捻る。

まだ呼吸はできていない。

「その程度で……悪魔と人間の双方を敵に回すつもりですか!?」

また縮地で距離を詰めてきたウィルバーが、ミドルキックをしかけてくる。

私はウィルバーの右脚に背中を這わせて、脚の上を巻きつくように回転した。

ウィルバーのキャソックに螺旋状の切り込みが入る。

「私は、私のなすべきことをします」

ウィルバーは高く掲げた足を、そのまままっすぐに私に落としてくる。

私はそれを左腕で受け、左の尺骨と橈骨が折れたのが分かる。

ウィルバーの足はそれでも止まらずに、私を押し潰して地面に叩き落とす。

「ぐあぁっ……!」

私はくぐもった悲鳴をあげながら、ウィルバーの右足のアキレス腱に短剣を添えて、振り抜いた。

「クッ……!」

ウィルバーが顔をしかめて、一歩下がるが、右足で体を支えられずにたたらを踏む。

私は折れた左腕をぶら下げながら、ウィルバーの間合いに踏み込む。

「このあとソロモンの悪魔を二匹祓わないといけないと思うと、めまいがします」

ウィルバーは顔の前で拳を重ねて頭を守る。

私は回転しながらウィルバーの右側面に入ろうとする。

するとウィルバーはどうしたって右足をかばい、左側面で受けようとする。

私は即座に逆回転し、体を沈み込ませ、ウィルバーの左足のアキレス腱を切り上げた。

「Shit……!」

ウィルバーが悪態をついてその場に座り込む。

私はウィルバーを見下ろして、短剣の血をハンカチで拭う。

「ヤヨイ様ッ……! どうして自ら過酷な道を往くのですか!? 友愛クラブにいれば、あなたの未来は約束されたようなものなのに! あなたはいったい、何を考えているのですかッ!?」

ウィルバーが刺すような視線で私を見上げてくる。

その言葉には、彼なりの思いやりがあるのを感じた。

「ウィルバー。私の付き人、ご苦労さまでした」

「私はとっつきづらくて苦労をかけることも多かったと思いますが、あなたのおかげで瑞々しい日々が過ごせました」

ウィルバーは悲しそうな瞳をして、私はすこし心が痛む。

「けれど私は、いまの生き方に満足できなくなってしまったんです」

「一時の感情で決めてしまうべき選択ではありません! お父上のことなら私が取り持ちます! ですからどうか、友愛クラブを離れないでください!」

私の頭に父の顔が浮かぶ。

父との関係が違っていれば、もっと違う未来があっただろうか、と。

そうかもしれない。

けど。

そんな妄想は意味をなさない。

父はこうとしか私を育てられなかったし、私はこういう風にしか生きられなかった。

で、あれば。

答えは明白だった。

「私は、決めたんです。この道を進むと。それがどんなに愚かで、先のない道だとしても」

「あなたは、騙されているだけです! 思春期の少女が悪魔に唆されて、道を誤っただけです! 考え直してください!」

「たしかに」

骨折した前腕が熱を持って青黒く腫れてくる。

「では、約束してください」

ウィルバーの縋るような目つきで、私の胸は締めつけられた。

「私が道を違え、世界の敵となった暁には――あなたが私を正してください」

ウィルバーの眉間のしわが深くなる。

「祓魔師として……いえ、雨森夜宵として、私があなたの正義を阻みます」

ウィルバーは拳を強く握りしめている。

「ですからどうかその日まで、この世界の不正を、怠惰を、あるべき姿に正しつづけてください」

私はウィルバーに背を向けて空き地を後にする。

左腕がじんじんと痛み、手首の太さが倍くらいになってしまった。

腕一本で、ベレトとグラシャ=ラボラスを祓えるだろうか。

私は、考えても意味のないことは考えない。

祓うんだ。

私は祓魔師で、そのために家を飛び出した。

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