第22話 告白
私は友愛クラブのビルの前で立ち止まった。
全力疾走しただけで息が乱れていて、気持ちが逸っていたのが分かる。
自動ドアをくぐってロビーを通り抜ける。
エレベーターには押しボタンがなく、会員証を読み込むリーダーがあるだけだ。
ポケットから取り出したカードをリーダーに押し当ててエレベーターを呼んだ。
エレベーターの駆動音がして、しばらく待つと扉が開く。
エレベーターに乗って、最上階である27階のボタンを押す。
最上階の部屋は友愛クラブの会長である父の部屋になっている。
友愛クラブで序列のついている祓魔師は実働部隊で、組織の運営は別の人間が携わっている。
そのトップが父というわけだ。
私はめずらしく緊張していた。
父と話すときでさえ、ひとりの祓魔師としてしか話したことがなかった。
だから、任務以外の話をしようとするのは、これがはじめてかもしれない。
電子パネルによる階数表示の数字が上がっていくにつれて、脈拍が速くなっていくのが分かった。
自分の身体情報を把握する能力には長けていたので、知覚できるすべての情報が体調の異常を示していた。
人並みに緊張することがあるのだという事実が、少しだけうれしかった。
エレベーターが27階に到着し、ドアが左右に開く。
会長室の内装は赤い絨毯と木製の調度品という豪奢な設えだった。
革製の椅子に座る父の前まで進み、机の前に跪いた。
「雨森夜宵、ただいま戻りました」
父は私を見下ろして、連絡の取れなかった実の娘が一週間ぶりに帰ってきたというのに、眉ひとつ動かさなかった。
父は、そういう人だ。
「倒したか?」
父の彫りの深い顔で陰になった瞳は私と同じ色をしていたが、どこまでも暗く深かった。
「グラシャ=ラボラスを倒したのかと聞いている」
父の声は低く、胃のあたりに響いてくるようだった。
さて、どう答えるべきか。
私は嘘をつかない。
「逃しました」
「二度もか?」
「申しわけありません。私の練度不足です」
「聞くまでもない」
「……」
父はキャソックに紫にストラを肩からかけていた。
祓魔師の正装だ。
「9日のあいだ、連絡もよこさず何をしていた?」
私は逡巡する。
人並みの女の子みたいに、父に叱られたくないという気持ちがあることを新鮮に思う。
「グラシャ=ラボラスに負けました」
「何?」
父が眉間にしわを寄せて目を細めた。
「なぜ、生きている?」
「グラシャ=ラボラスの依代が、終冬子という悪魔憑きでして、これが大層な変わり者でした」
「私は彼女に負けたときに死を覚悟しました」
「しかし、彼女は私の命を奪いませんでした。そのまま私をビジネスホテルの一室に監禁し、『夜宵と友だちになりたい』と言いました」
「何を言っている?」
私だって同じ気持ちだ。
私は、何を言ってるんだろう?
言葉が、堰を切って止まらなかった。
「悪魔憑きの考えです。常軌を逸していて当然です。私も当初、彼女の言葉がまったく理解できず、友だちになどなれるはずがないと思っていました」
「しかし、彼女は諦めませんでした。私は拘束されてはいましたが、食事を摂り、シャワーを浴びる機会を与えられ、彼女の話を聞かされました」
「彼女は欲しいものがたくさんあったそうですが、悪魔と契約し、好きなものが手に入れられるようになって、自分のほんとうに欲しいものが分からなかくなってしまったそうです」
「そうして街を歩いているときに私と接触し、私を見たときに、彼女がほんとうに欲しいものを知ったと言っていました」
「そして私を手に入れるために策を弄し、倒したと。いまでも彼女が何を言っているのか、ほとんど分かりません」
「しかし、彼女が本気なのは理解できました。このまま友だちになるのを拒んでいると、一生ビジネスホテルから出られないのだと理解できました」
「彼女から解放されるために、私は友だちになるという約束をしました。聖カタリナの短剣も奪われていたので、状況を打開するには他に選択肢がありませんでした」
「そして、私と彼女は友だちになりました」
「友だちがどういったものか分からなかったので、いまでも実感はありませんが、彼女は友だちが何をするのかを教えてくれました」
「まず服を買いました。戦闘衣以外の服を着ることはほとんどなかったので、はじめての経験でした」
「服の良し悪しなど分からなかったので、冬子さんがすべて選んでくれました。帽子は変装する時にしか被ったことがなかったし、こんな装飾のついたブラウスも、鮮やかなコートも、模様の入ったスカートも、はじめて身につけました」
「この衣装を着た自分を鏡で見たときの衝撃は、言葉にし難いです。光を反射する鏡面に映る人間が、私だとは信じられませんでした。衣服がここまで印象を変えるとは思いませんでした」
「それだけではありません。新しい衣装を身に纏うと、心持ちまで変わりました。気持ちが弾むというか、ただ歩いているだけでもなぜか楽しくなるのが不思議でした」
「その格好で私たちは街に出ました。クレープを食べて、映画を観て、友だちが遊ぶようなことをしてみました」
「映画というのが、またすごいのです。大きなスクリーンで登場人物が動き回り、内臓まで揺らすような音が響き渡り、終わった頃にはスクリーンを眺めて我を忘れている自分に気づきました」
「それから冬子さんの勧めで電車を乗り継ぎ、郊外の駅で降りました。はじめて来る場所で、何か特別なものがあるようには見えませんでした」
「冬子さんに言われるがままに、坂道を登っていきました。さすがにちょっと登れば目的地に着くだろうと思っていましたが、結局1時間近く歩いて、ただの丘にたどり着きました。展望台だけしかない、ただの丘です」
「ただ、街の灯と月の光に照らされた夜の海がありました。その場に寝転んで空を見上げると天蓋に散る星の輝きが空を覆っていました」
「夜景を見るのも、夜空を見るのも、はじめてではありませんでした。しかし、見ようと思って見たことははじめてでした」
「何にも縛れない時間を使って街の明かりや夜の星を見るのは、とても豊かな経験だったと思います。胸の器に光の粒を浮かべた夜を注がれる気持ちでした」
「けれど……」
「しばらくそうしていると、ソロモンの悪魔が現れました」
「ソロモン七十二柱の十三位、ベレトです。それを見た瞬間、考えるよりも速く私の体が動いていました」
「体のバネで跳ね起き、距離を取り、懐から聖カタリナの短剣を取り出そうとし、それがないことに思い至りました」
「けれど、あろうことか冬子さんは短剣を返し、共同戦線を張ろうとしました。私が祓魔師で、彼女が悪魔であるにも関わらずに」
「生まれてはじめて悪魔と手を組んで戦いました。打ちあわせなどする暇もなく、その場の呼吸で共闘をしました。悪魔の力を借り、いつもよりもうまくソロモンの悪魔と戦えたと思います」
「それから十字が現れました。私はその場を十字に預け、戻りました。会長とお話したいと思ったからです」
「会長、私は――やはり悪魔を祓う者であるということです」
「ベレトが現れた瞬間に気づきました。血が沸騰し、即座に臨戦態勢を取り、魔を祓うための思考で頭を回転させていました」
「私はどこまでいっても魔を祓う者です。グラシャ=ラボラスに敗北し、二度までも獲り逃がし、ベレトを前にして戻って参りましたこと、申しわけございません」
「それでも、伝えたかったのです。私は、私が選んで、祓魔師の道を選ぶということを」
そこまで言って、私の言葉が途切れた。
喉が渇いて、頭から血の気が引いてくる。
喋りすぎた。
父に向かってこんなに言葉を重ねたのは生まれてはじめてだった。
まるで、14年間の人生で積み重なった言葉の箱をひっくり返したようだった。
「………」
沈黙が耳に痛い。
冷や汗で肌が冷たくなる。
そんな感覚さえ、はじめてのことだった。
「お前は――」
父が地鳴りのような声で私に呼びかける。
「悪魔に唆されている」
父の眼光は鋭く、どこまでも冷たかった。
「悪魔は人を騙し、道を誤らせ、破滅に誘う。悪魔と口を聞くなと言ったはずだが?」
「申しわけございません」
跪いたまま頭を低くして謝った。
「祓魔師と悪魔が友誼を交わすなどありえない」
「ごもっともです」
「悪魔は甘言を弄し、人に幻を見せる。そうやって築かれた同胞の墓標を知らぬわけではあるまい?」
「はい」
「そして夜宵――」
父が言葉を切り、私は落雷に身構える。
「お前が祓魔師であるのは当然だ」
その言葉は私の予想通りだった。
「お前は、祓魔師になるために生まれ、そのように育てた」
「考えるまでもなく、お前はそういうものだ」
私は目を閉じて、唾液を飲み込んだ。
「それなのにお前はソロモンの悪魔に負け、あまつさえ命を助けられ、ソロモンの悪魔を見逃して戻ってきたというのか?」
「私の不徳の致すところです」
「言語道断だ」
私の胃は重く、体は絨毯に沈み込むようだった。
「夜宵。悪魔に敗走することなど許されるはずがないし、悪魔を目の前にして逃げ帰ることなどあってはならん」
「返す言葉もございません」
父がそう言うのであれば、それはきっと正しい。
「ましてや祓魔師であることを選んだなどと言う讒言は聞くに値せん」
「お前は、そういう存在なのだ」
「仰せの通りです」
父の言葉をただ聞いていた。
父の言葉は私にとって、絶対の指針だからだ。
「分かったらすぐにベレトとグラシャ=ラボラスを祓いに行け。今度はしくじるな」
「はい。教会の刃となり、必ず彼の者らを引き裂きます」
私は立ち上がり、父に背を向ける。
当然だ。
父に正直に思いを伝えれば、こうなることは分かりきっていた。
それでも私は、父に言葉を届けたいと思ったのだ。
祓魔師として生きたいと願ったのだ。
だから、後悔はなかった。
「それと」
父の低い声が私を呼び止めた。
「そのけばけばしい服は捨てろ。見るに耐えん」
私は反射的に踏み出した足を軸に、父の方に振り返った。
「お言葉ですが」
考えるよりも先に、言葉が口をついて出ていた。
「この服は、とても素敵なものだと思います」
それは、反論にさえなっていない子どものような主張。
けれど、はじめての反抗だった。
父は驚いて目を見開き、また眉根を厳しく寄せた。
「お前は祓魔師だ。祓魔師に、戦闘のための装束以外は必要ない」
そうだ。
私は祓魔師だ。
それを伝えに、ここに来たんだ。
「はじめてこの衣装を纏ったとき、鏡に映る私が私だと信じられませんでした。この目で魔法を見たのだと、私は疑いませんでした」
「それが不必要だと言っている。着飾る暇があれば剣技を磨き、戦術を練り、魔を祓え」
父の言っていることは正しい。
私は祓魔師だ。
自らその道を選んだんだ。
なのに。
なぜ私はこんなことを言ってるんだろう。
「この服は冬子さんが選んで買ってくれました。帽子ひとつでさえも悩みに悩み抜き、最も私に似合うものを選んでくれました」
「これを身につけると、気持ちまで華やぎ、ただ街を歩いているだけでも胸が高鳴りました。これも、私にとっては未知の体験でした」
「悪魔は人を唆す! お前も悪魔憑きに騙され、道を誤ったのだ!」
父が机を叩いて立ち上がる。
父の身長は私より40センチほどは高く、高い壁のように見えた。
「いいえ、私はそうは思いません。会長は映画を観たことがありますか?」
「ある。昔の話だ」
「ずるい!」
私は子どものように床を蹴った。
「下らん子ども騙しだ。椅子に座り何時間もそのままでいるような時間はお前にない。技を研ぎ澄まし、刃を交え、この世界から悪魔を根絶させるまで祓い続けなければならん」
「……」
その言葉は何度も言い聞かされていた。
私は、彼女のまねをして父に問う。
「では……悪魔をすべて殺し尽くしたとき、私に何が残りますか?」
「悪魔は無数にいる。殺し尽くしたときのことなど案ずる必要はない」
「そうですか。私は悪魔を祓つづける道を自ら選んだので、安心しました。それでも聞きたいのです。もし悪魔を絶滅させたとき、私に何が残るのかと」
「愚問だ。悪魔を絶滅させることこそお前の存在意義だ。すべての悪魔を祓ったとき、お前の生きる意味は消える」
「そう、ですか」
父から視線を落とし、目を閉じた。
「ひとつだけ聞かせてください」
「……」
私は父が何と答えていても質問をするつもりだった。
「私を祓魔師として育てたのは、母の復讐のためですか?」
父はわずかに口を開いて、しばらく何かを考えていた。
「……悪魔は、一匹残らず滅ばさねばならんのだ」
父の無表情は変わらず、まるで私を通してどこか遠くの景色でも見ているようだった。
「……そうですか」
私は父に背中を向けて、懐から聖カタリナの短剣を取り出した。
短剣を握りしめたまま、エレベーターに向かう。
「私は……祓魔師です」
「ベレトとグラシャ=ラボラスを滅ぼしに行きます」
「けれど」
私はエレベーターのボタンを押して、首だけで父の方に振り向く。
「友愛クラブには、戻りません。いままで、ありがとうございました」
「夜宵ッ!!」
父が、ひさしぶりに私の名を呼んだ。
私は閉まっていくエレベーターのドアの隙間から、怒りをにじませる父の顔を見ていた。
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