第20話 決別

「こんばんは」

「んぁ?」

 半ば意識を飛ばしていたわたしは、星空を遮って現れた男に反応できなかった。

 この時間、この場所にめったに人は来ないはずだけど。

「ひさしぶりだね」

 男は顔がよく、銀と紫が混ざったような長めの髪が特徴的だけど、まったく覚えがなかったから、ナンパかな? と考えた瞬間――

 夜宵が腹筋の力でバネのように跳ね起きて、地面に這いつくばって臨戦態勢を取る。

「夜宵?」

「冬子さん、その男……悪魔です」

「え?」

 わたしは上半身を起こして、男に向き直る。

「ベレト。ソロモン七十二柱の十三位。オレより上位の悪魔の王だ」

「まじ?」

「マジ」

 ベレトは爽やかな笑顔をわたしに向ける。

「冬子ちゃん、ありがとう。グラシャ=ラボラスは優秀な依代を見つけたみたいだね」

 その言葉はなぜかわたしをいら立たせた。

「友愛クラブの第一位から武器を奪い無力化するなんて、悪魔に成り立ての女の子とは思えない功績だよ。将来が楽しみだね」

 ベレトはラベンダー色のシャツを着て、蛇柄のパンツを履き、まっ白なジャケットを羽織っていた。

 イケメンじゃなかったらとても見てられない格好だ。

「武器がないとはいえ、雨森夜宵は僕らの同胞を二柱も葬ってる傑物だ。キミひとりじゃもしものことがあるかもしれないから、ボクも加勢に来たよ」

 ベレトは背が高く、立っているだけで大理石の柱のようだった。

「さぁ、我らが宿敵を共に滅ぼそうじゃないか」

 ベレトはわたしに手を差し出し、夜宵の動向を観察する。

 夜宵はあいかわらず、地面に低く構えた姿勢で、いつでも走り出せるように準備していた。

「冬子、ここが決断のときだぞ」

 ウナギがわたしの胸から語りかけてくる。

「オレは言ったな。夜宵と友だちになるってことは、友愛クラブも悪魔も敵に回す行為だって」

「ここで選べ」

「夜宵を取って流血と殺戮の道を歩むのか、夜宵を諦めて悪魔の世界で生きていくのか」

「ふたつにひとつだ」

 わたしは地面から立ち上がって、ホットパンツをパンパンとはたいた。

 ベレトはまだわたしに手を差し出して、柔和な笑みを浮かべている。

 あーあ。

 この時間がずっとつづけばいいって、思ってたのになぁ。

「ウナギ」

 ウナギは以心伝心でわたしの胸から飛び出して、口から短剣を吐き出した。

 宙を舞った短剣を、夜宵は右腕だけを振るって空中でつかんだ。

「いいんだな?」

「言ったでしょ? わたしは、この世界のすべてを手に入れるって」

 わたしの右手の爪が歯に、手の平が口に変わっていく。

「わたしの邪魔をするヤツは、ヒトだろうが悪魔だろうが轢き潰す!」

 わたしがそう宣言するよりも速く、夜宵はオリンピックのスプリンターばりの踏み切りでベレトに向かっていた。

「どういうことだい?」

 夜宵の俊速の斬撃を、ベレトは前宙で避けて夜宵と位置を変わる。

「なぜソロモンの悪魔がエクソシスト教会の味方をする?」

 夜宵は斬撃の勢いのまま踏み込んだ足を軸に回転し、背後のベレトに飛びかかる。

「オレだって聞きてぇよ」

 ウナギはぼやきながら身をよじる。

「数百年生きたが、こんなでたらめなことになるとは思わなかったぜ」

 ベレトは夜宵の斬撃をワルツでも踊るように紙一重で避ける。

「ウナギ、お仲間を裏切って、ひとり残らず殺し尽くす準備はいい?」

「一生いいわけねぇだろ」

「よかった。今日からわたしたちは世界の敵だね」

 悪魔の血で増強した脚力でコンクリートを吹き飛ばしながら、ベレトに突っ込む。

「せいっ!」

 わたしの右手が数瞬前までベレトがいた地面を抉り取った。

「まだだ」

 バックステップでわたしの一撃を避けたベレトの背後から、体を伸ばしたウナギが噛みつく。

「小賢しいな」

 ベレトは人類を超えた脚力で地面を蹴り、空中に浮かび上がってウナギの歯を交わし――

 こちらも人類の限界に近い脚力で木を蹴って跳躍した夜宵が、ベレトの頭上から短剣を振り下ろす。

「チィッ……!」

 ベレトははじめて顔を歪めて舌打ちをし、大きな蝙蝠の翼を生やして空中に舞い上がった。

 夜宵が短剣を振り下ろして、地面に着地する。

「グラシャ=ラボラス」

「貴様、自分が何をやってるのか分かっているのか?」

 ベレトのラベンダー色のシャツの胸が一直線に裂けていて、薄く黒い血が染み出していた。

 ベレトは眉間にしわを寄せ、冷たい目でわたしを見下ろしていた。

「わかりゃしねぇよ」

 ウナギは空に浮かぶお仲間に吐き捨てた。

「オレもこんな風に魔生が転がるなんて思ったこともなかったよ。七十二柱によしみなんてあるはずもないが、大人しくここで死んでくれ」

「愚かだな、二十五位」

「オレもそう思うぜ、十三位」

 ベレトは両の手の平を重ね、包まれた空間に悪魔の血を凝縮する。

「滅べ」

 ベレトが両手を振り下ろす。

 ダイヤ型の悪魔の血の塊が、散弾銃のように降り注ぐ。

「ウナギ!」

 ウナギが傘のように展開し、夜宵が何の合図もなく傘の中に転がり込んでくる。

 血塊がウナギの体表に当たる衝撃で、傘の中に爆音が響く。

「夜宵、あいつ殺せそう?」

「時間をかければ……あるいは」

 夜宵の目は傘の向こうのベレトを見据えて、その横顔は美しかった。

「来るぞッ!」

 ウナギの声に弾かれてわたしたちは傘の外に飛び出す。

「潰れろ」

 空から降りてきたベレトが両手を重ねて傘の上から振り下ろした。

 悪魔の血が爆発したように吹き上がり、黒い血が雨のように地に降り注ぐ。

 ウナギは本体が黒い血だからどれだけ潰れても問題はない。

 夜宵がコマみたいに回転し、血の雨を弾き飛ばしながらベレトに斬撃をしかける。

「ヒトの身で……!」

 ベレトは両翼の機動力で夜宵の剣戟を避け、片手で地面を掘り返して石と砂を銃弾のように打ち出した。

 夜宵はその射線を読んで、地面に這いつくばって避ける。

「夜宵!」

 わたしはウナギを何本も体から生やして、網みたいにベレトの頭上から襲わせる。

 この密度のウナギていどだとベレトは片腕で切断するが。

 ベレトの動きが止まった。

「こいつ……!」

 一瞬、頭上のウナギの群れをさばくために視線をやったベレトの足元に、身を低く屈めた夜宵が飛び込む。

 夜宵は地面を蹴り上げて、下から上に斬撃を走らせる。

 ベレトは翼を広げて地面を蹴り、夜宵の短剣を避けようとするが――

 遅い。

 夜宵の短剣がベレトの内ももに裂け目を入れる。

「クソがッ!」

 内ももを黒く染めたベレトが空に舞う。

 聖カタリナの短剣による傷口はすぐにはふさがらない。

 悪魔の本体である血が、時間が経てば経つほど抜けていく。

 悪魔にとって致命的になりうるエクソシスト教会の特級聖遺物。

「塵ひとつ残さんッ……!」

 ベレトは悪魔の血を凝縮し、バランスボール大の球体をつくりだす。

「冬子、さん。逃げます」

 夜宵が持ち前の感覚で危険を察して提案する。

「丘ごと吹き飛ばす気です」

「クレイジーじゃん」

 わたしたちは坂道を一心不乱に駆け降りる。

「グラシャ=ラボラス、盾をお願いします」

「わかってるが、どこまで守れるかはわかんねぇぞ」

 ウナギがドームのように展開して、わたしたちを包み込む。

 ウナギはその身に悪魔の血を凝縮して盾の密度を高めていく。

「悪魔ってあんなのバンバン打てんの?」

「よっぽどキレてんだよ。あんなマネしたら、エクソシスト教会にすぐ位置が割れ――来るぞ!」

 わたしは衝撃に備えて、地面に這いつくばって目を閉じる。

「……なんだあれ?」

 ウナギの視覚情報がわたしに伝わってくる。

 ベレトが生み出した黒い光球が衝撃波とともにわたしたちに打ち出されて――

 飛び出してきた人影が、光球を切り裂いた。

「はぁ?」

 わたしの様子を察して、夜宵がウナギの外に顔を出す。

「……虹籤にじくじ十字じゅうじ

 ウィルバーが着ていたようなキャソックに、和柄のストラをかけた治安の悪そうな神父がいた。

 銀色のオールバックにサングラスというおよそ神父とは思えない風貌だ。

 身長はベレトと同じくらいだったけど、筋肉のぶん大きく見える。

 神父は古びた長い槍の矛先を中空のベレトに向けていた。

「夜宵ィ……生きてたのか。俺はとっくに死んでんのかと思ってたぜ」

「最悪だな」

 ウナギが低いトーンでぼやく。

「あれ誰?」

 ウナギに聞くと、夜宵が答えた。

「友愛クラブの第二位。《聖槍》のジュウジ。当代最高の祓魔師のひとりです。いまは京都にいると聞いていたのですが?」

「ハッ! てめぇが一週間以上も消えたって言うから、俺が呼び戻されたってわけだ! ヤヨイが死んだとなったら、俺が友愛クラブを背負って立つことになっからな!」

「ところがどうだ! 一週間もロストしたってのに、何で生きてんだ? 理解できねぇな」

 十字は首を傾けて夜宵の方に振り向くけど、視界の端にはベレトを入れているようだった。

 ベレトはベレトで、苦虫を噛み潰すような表情でわたしたちを見下ろしている。

 それもそうだ。

 二体一で夜宵を狩るはずが、友愛クラブの一位と二位が集まったうえに、ソロモンの悪魔は味方じゃないという状況。

 その顔になる気持ちはわかる。

「グラシャ=ラボラスに負けましたが、命までは奪われなかったというわけです」

「わけわかんねぇな。何で悪魔が負かした祓魔師を生かしてやがんだ?」

「悪魔憑きの意向です。悪魔憑きは、私と友だちになりたいそうです」

 十字は口を薄く開けたまましばらく動きを止め、大声で笑い出した。

「ハッ! 悪魔がッ! 祓魔師と友だちになりたいと……ハッ! 傑作じゃねぇか!」

 十字は唇を歪めたまま夜宵に問う。

 そのにやけた表情とは相反して、声は低く冷めきっていた。

「それで……てめぇはどうするんだ?」

 十字の迫力が増す。

「返答しだいでは、俺より若ぇ目の上のたんこぶを切除できる大義名分が与えられるんだが?」

 キャソックの下はウィルバーに負けず劣らずの筋肉がありそうで、力を込められたそれが盛り上がっているのを感じる。

「私は……」

 わたしは夜宵から目が離せない。

 彼女が何て答えるのか、わたしのことをどう思ってるのか。

 夜宵はわたしの顔を見るでもなく、十字からまったく目を逸らさずに答えた。

「友だちというものが分かりません」

「生まれてからいままで、友だちと呼べるような人はひとりもいなかったからです」

 夜宵は、

 いつも誠実で、

 嘘をつかなかった。

「今日友だちがするようなことをやってみたのですが、まだ私には、私と冬子さんが友だちかどうか判断をつけることができません」

「なので」

 夜宵は私のほうに振り向いた。

「冬子さん、ありがとうございました」

 夜宵は深く、頭を下げた。

「今日という日が私にとってどんな意味を持つか、まだ私には分かりませんが、お世話になりました」

「たぶん今日感じたのが〝楽しい〟という感情だったのだろうと思います。貴重な体験をさせていただいたこと、感謝しています」

 夜宵は口元に優しいほほ笑みを浮かべていた。

「今日かかった費用については、友愛クラブの『雨森夜宵』宛に請求してもらえれば、全額私費で支払います」

「冬子さん、私は命を助けられたことに感謝しません。私を生かしたことも、私と友だちになることも、冬子さんの選択です」

「ただ、私に素晴らしい時間を過ごさせていただいたことに、感謝しています」

 夜宵はわたしから視線を切って、十字のほうに向かおうとする。

「夜宵……どこ行くの?」

 わたしの顔にはひきつった笑みが浮かんでいるはずだ。

「わたしは、やはり祓魔師です」

「悪魔を祓うことを生業とする、神の使徒です」

「だから、私は友愛クラブに戻ります」

 夜宵はわたしに背中を見せて、首だけでわたしを見ている。

「嘘。わたしたち……友だちだよね?」

 わたしは夜宵の肩をつかんで引きとめることも、夜宵の側に駆け寄ることもできずにいた。

「わかりません」

 夜宵の笑顔は、どこまでも優しかった。

「けれど、私は祓魔師です。次に会ったときは……」

「約束、必ず果たします」

 約束。

 その言葉が、あまりに重く、わたしに刺さる。

 それは、わたしの言い出したとり決め。

 わたしはそれ以上夜宵に何も言えずに、奥歯を噛み締める。

 たぶん、ひどく歪んだ顔と、くしゃくしゃの心で、むりやり笑顔をつくった。

「……約束、守ってね」

 夜宵は一瞬だけ表情を変え、またすぐ慈愛にあふれた笑顔に戻った。

「はい、必ず」

 十字のもとに向かう夜宵を、わたしは見守ることしかできなかった。

「十字、この場をまかせてもいいですか?」

「はぁ? てめぇソロモン級の悪魔が2体もいんだぞ?」

「私は戻ります。会長に無事を報告し、明日から業務に復帰します」

「ちょっと待てよ――」

 十字は高い身長で夜宵を見下ろしながら考えているようだった。

「ソロモン級の悪魔2体だ。こいつらを俺が祓えば……俺が友愛クラブの一位だよな?」

「はい。間違いありません。友愛クラブは、結果でしか祓魔師を評価しません。第一位の座は、十字のものです」

「だよなぁ?」

 十字は少し黙ってから、口を開いた。

「夜宵、やっぱいいわ。帰れ帰れ。ソロモンの悪魔2体くれぇなら、俺が祓っとくわ」

「十字、寛大な心遣いに感謝します」

「帰ったら俺が一位だ。荷物の整理しとけよ」

「つつがなく。御武運を」

「楽勝だろ?」

 夜宵は坂道に戻らず、ガードレールを飛び越えて崖を降りていく。

 わたしは、ベレー帽を押さえながら闇に沈んでいく夜宵の姿を、ただ見ていた。

「ってなわけだ。ソロモンの悪魔たち」

 十字は槍を構えたまま二人の悪魔に目配せする。

「俺の昇進の踏み台になれ」

 わたしは、その言葉すらほとんど聞いていなかった。

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