第19話 蜜月

 わたしは夜宵を連れて、服を売っているビルに向かう。

 いろいろな種類の服を売る店がならんでいる。

「夜宵はどんな服が好きなの?」

「動きやすい服ですね」

 案の定だった。

 しかも夜宵の場合は好きというよりも、ずっと実利的な理由だろう。

「うーん……」

 わたしが口元に手を当てて無言になると、夜宵はわたしの横顔を見てくる。

「どうかしたのですか?」

「ちょっと来て」

 わたしは夜宵を引っぱって一軒の店の前まで連れていく。

「何かピンとくるものとかある?」

「いえ……帽子ですか?」

 そこは帽子を専門に売ってるショップだ。

 わたしは夜宵ににあいそうな帽子を探す。

「これかぶってみて」

 わたしはまっ白なスラウチ・ハットを手渡す。

 広いつばがソフトに垂れている、優雅な女優帽だ。

「こんな感じですか?」

 夜宵は帽子をかぶるというより、素朴に頭に乗せた。

「んー……素材がいいから何でもハマるんだけど」

 つばでできた陰に夜宵の目元が隠れてミステリアスな印象になった。

 ただ、三つ編みもあいまってどこか野暮ったい感じもする。

「次はこれね!」

 わたしはスラウチ・ハットを戻し、クローシュを手渡す。

 鐘のような形でつばが下を向いている帽子だ。

「私にはどれがいいのか分かりませんが」

 夜宵は山の深い帽子をしっかりかぶった。

「んー……やっぱりこの路線じゃないのかもなぁ」

 大人しめの帽子だと三つ編みとあいまって地味な感じになってしまう。

 もうちょっと遊び心があったほうがいいのかも。

「これいってみよ!」

 わたしは夜宵にベースボールキャップを選ぶ。

「野球帽ですか……?」

 夜宵は斜めにかぶったりせずに、つばを持って気持ち目深にかぶった。

「おぉ」

 思わず声を出していた。

 にあってる。

 夜宵の凛々しい雰囲気にキャップはハマっていた。

 つばの下から覗く大きな目と鋭い眉が、さらに野性的な印象になった。

 にあっている。

 にあっているのだが。

「ほぼ少年なんだよなぁ」

 夜宵の体つき……いや、中性的なイメージもあいまって、思春期の美少年に見えてしまう。

 これはこれでジーンズでも履いてくれれば、さらにグッとくるのだろうが……。

「もっとギャップを狙いたいんだよなぁ……」

 わたしは野球帽を戻して、次の帽子を探す。

「でも、かぶりものひとつで印象がガラッと変わって、たしかにおもしろいですね」

 わたしについて来ながら、夜宵は無表情でそう言った。

「でしょ? 何を着るかで、見た目だけじゃなくて、気持ちもガラッと変わっちゃうんだから」

「そんなものですか」

 夜宵は、あまりわかっていない様子で相づちを打つ。

「これなんかどう?」

 わたしはクリーム色のニット帽をかぶせた。

「やわらかいですね」

 デザインのよく分からない夜宵はかぶり心地の話をする。

「……これもいいなぁ」

 夜宵のトレードマークのおでこにぴったりはりつくニット帽は、その素材からか、優しい印象をあたえた。

 夜宵は顔つきが中性的で、言葉も動作もストイックな雰囲気だから、服でやわらげてあげるとまた違った魅力が出てくる。

 仕事に不必要なニット帽をかぶってると、どこか垢抜けた印象になった。

「なるほどね。こういう感じか……」

「何がなるほどなのかは分かりかねますが」

 ニット帽もかなりいい線いってたが、わたしは粘り強く夜宵にぴったりの帽子を探す。

 必ず、必ずあるはずだ。

 夜宵が、もっと魅力的になる方法が。

 わたしは店の中をぐるぐると回る。

「いつも帽子を選ぶのに、こんなに時間をかけるのですか?」

「時と場合によるけど……わたしはわりとあるかな」

「非生産的です」

 あいかわらずの無表情。

 夜宵からすれば、そうかもしれない。

 こうなったら意地でも夜宵に、この時間が何を生み出すか見せてあげたい。

 わたしは店の全体を見て、無心で感じ取る。

 あんまり頭を使うのは得意じゃないから、これだと思うものが輪郭を結ぶまで、ただ見つめる。

「……」

 わたしは無言で棚に近寄っていき、グリーンのベレー帽を手に取った。

「はい、かぶってみて」

 わたしは夜宵の手に帽子を乗せる。

 夜宵はまた無骨な手つきで帽子を頭に乗せ、わたしはそれを角度がつきすぎないていどに斜めに調整する。

「ほら」

 わたしは夜宵の両肩を持って鏡に向ける。

 夜宵は、あいかわらず表情筋を使わなかったけど。

 深緑が落ちついた夜宵の雰囲気とマッチし、やわらかい素材が凛々しい印象を和ませ、芸術とは縁遠い夜宵のイメージに遊び心を生んでいた。

「うん、ぴったり」

 わたしは会心の出来に思わずほほ笑む。

 当の本人は、ベレー帽を指先で触れ、微妙に角度をずらしたりしながら、鏡を眺めている。

「夜宵は、どう?」

 夜宵は返事をしなかったけど、鏡の向こうに別の世界があるみたいに見入っていた。

「……わるくはないですね」

 わたしはつい顔をほころばせる。

「お買いあげ〜♪」

 わたしは夜宵の頭から帽子を取ってレジに向かう。

「それ、買うのですか」

「もちろん。わたしからのプレゼント」

「……それはいけません。友愛クラブに戻れば、私の通帳があります」

「いいの! わたしがプレゼントしたいから買うの。だから受け取って」

 夜宵はちょっと考えてからか、薄く口を開いた。

「ありがとうございます」

 わたしはレジで手早く会計を済ませる。

「これかぶってくんで、タグ切ってください」

 夜宵が目を丸くしている。

 わたしは店員から受け取ったベレー帽を夜宵の頭にかぶせる。

 まるで天使が輪っかをつけたみたいに、ぴったりだった。

「へへ。かわいいね」

「……誰かからプレゼントをもらうのは、はじめてです」

「え!?」

 今度はわたしが驚く番だった。

 そうか……そういえば友だちがいないって言ってたな。

「親とかは?」

「母は私が生まれてすぐ亡くなり、父とは祓魔師の師匠と弟子の関係なので、そのようなことはありませんでした」

「そっか」

 わたしは夜宵の両方のほっぺたをつまんで口角を上げる。

「ひょっと! はにひへるんへすか!」

 夜宵が怒ってわたしの手を振り払う。

「にへへ〜。ごめんね〜」

「わけが分かりません……」

 夜宵はいつものむすっとした表情でそっぽを向く。

「じゃあ次! 服選びに行くよ!」

「えっ……!? これで終わりじゃないんですか?」

 わたしは夜宵に振り返り、とびっきりの笑顔をつくる。

「トータルコーディネートだから、上から下までぜんぶだよ」

「ぜんぶ……」

 夜宵は呆然と立ちつくす。

「そうだよ。朝やってる女の子向けのアニメみたいに……って観たことないよね。今日、夜宵は変身するんだよ」

「……また帽子みたいに選ぶのですか?」

「そうだよ。今日はつきあってくれるよね?」

「しかし、私は悪魔を祓うために日々鍛錬し、悪魔が隠れる場所を探索し、こんなことをしている時間は――」

 そこまで言って夜宵は、言葉を切る。

「……いえ、それを言い出せばいまさらですね」

 夜宵はうつむいてから、また視線を上げる。

「今日は、つきあいます。わたしにどんな服がにあうのか、教えてください」

 夜宵は目を閉じて軽く会釈をした。

「いいの? 丸一日かかっちゃうかもよ」

「ええ、こんなに任務を離れたことがなかったので……つい」

 わたしは夜宵の手を引いて、洋服を売っているエリアまで歩いていく。


 わたしはあーでもないこーでもないと言いながら、夜宵に服を着がえてもらう。

 夜宵の魅力を引き出しながら、ガラッと印象を変えてしまうような、そんな服を探す。

 わたしの惚れた美しさをさらに高められるように。

 そんなことをすればきっと、この輝きに目を奪われる人はさらに増えるだろう。

 それはちょっとさみしい。

 けど、それでも、夜宵を美しくすることをやめることができない。

 そのくらい、わたしは夜宵に惚れ込んでいた。

「夜宵、どう?」

「……あまりよく分かりませんが、少なくともわるくはないです」

 夜宵はそればかり言う。

 ただ、あんまりにあってないとわたしも思っていたとき、夜宵はその言葉を口にしないので、それが彼女なりの誠実さなんだろう。

「開けていい?」

「どうぞ」

 わたしは試着室のカーテンを開ける。

 このとき、また人生で最高の瞬間が更新された。

 トップスは白いボウタイのついたブラウス。

 生地にはつやがあって、キリッとした夜宵にガーリーな印象をあたえている。

 アウターはショート丈で緑のチェスターコート。

 ブラウスのかわいさを上品にまとめ、ベレー帽とおそろいの色で調和を演出する。

 緑は夜宵のイメージカラーだ。

 スカートは膝上のストレートスカートで、柄はブラウンのオーバー・チェック。

 丈の短めのスカートでグッと女の子っぽさが出て、柄も明るく、華やかさが増した印象だ。

 ティーン雑誌モデルの休日の姿と言われてもまったく遜色ない。

 我ながら素晴らしい出来だった。

「ねぇ、見て。ぜんぜん見違えたでしょ?」

「……たしかに。同じ人物とは思えないほど印象が違いますね」

 夜宵はスカートの胴回りから指を入れて、丈を調整している。

「まだちょっと落ちつきませんが」

「大丈夫。とってもかわいいよ」

「……………ありがとうございます」

 夜宵は、かなりためらってからお礼の言葉を口にする。

 その顔はいつもの無表情ではなく、ほほを赤らめて視線を逸らしていた。

 わたしはその仕草に胸の動悸が抑えられなくなる。

「すいません。これそのまま着ていきます」

「あ、また!」

 わたしは定員さんに頼んで、いつものお願いをする。

「いいの! どうせわたしは、自分が欲しいもの買ってもすぐ飽きちゃうんだから」

「だとしても、全身面倒見てもらっていては、私も立つ瀬がありません」

「わたしが好きでやってるんだから!」

「とはいえ、です。それじゃまるで……お母さん、みたいじゃないですか」

 お母さん。

 その言葉はわたしに複雑な感情を抱かせた。

 それは夜宵も同じようで、何とも言えない、ばつのわるそうな顔をしている。

「じゃあ、今日はとことんつきあってよ! 一日遊び回るよ!」

「……もう、ぜんぜん聞いてくれないんですから」

 諦めろ、こいつはそういうヤツだ、って。

 いつものウナギなら茶化したろうけど、今日はわたしの胸元で静かにしていた。

 なんというか、気の利く悪魔だ。

「よし! 遊び倒すぞー!」

「強引なんだから……」

 夜宵の手を引いてビルの外へ向かった。


 わたしは、ほころぶ顔をコントロールできなかった。

 すれ違う人が夜宵に目を奪われるのがわかる。

「ねぇ、着飾るのもわるくないでしょ?」

「……やはり落ちつきませんが、こう、気持ちが弾みますね」

 そう言う夜宵の顔はほぼ無表情だったけど、高揚してるのが、ほほの赤みや足取りから伝わってくる。

 夜宵はおしゃれをするとティーンモデルのようで、これでメイクでもすればそのまま雑誌に載れそうだった。

 コーディネートをしたわたしとしても鼻が高い。

「夜宵! そこの壁の前でポーズ取った」

 わたしパーカーのポケットからスマホを出す。

「こんな感じですか?」

 夜宵は明らかに何らかの武術の型であろう構えをする。

「ごめん! やっぱりふつうに立って!」

 夜宵はちょっと不服そうに壁の前に立つ。

「読モの募集に送っちゃおうかな……」

 撮れた写真のできばえに満足してスマホをしまう。

 わたしは流れで、雑踏を歩きながら見つけたクレープ屋さんの列にならぶ。

「クレープ食べたことある?」

 ふつうの友だちならこんな質問はしないのだが、

「間食をすることはほとんどありません」

 夜宵は案の定こう答えた。

「まじ? 甘くないのもあるらしいけど、甘いのがおすすめかな。口のなかで甘みがパレードはじめる感じ」

「穏やかじゃないですね」

 たわいもない会話をしていると、わたしたちの番になった。

「バナナチョコクリームで! 夜宵は?」

「えっと……」

 夜宵はカタカナの洪水に戸惑っているようで、写真を指さした。

「あとフレッシュいちごカスタード! ……かわいいな」

「……そうですか?」

「いや、なんか想像と違ったから」

 わたしは手早く会計を済ませて、クレープを待つ。

 今日でかなり散財したけど、夜宵にお金を使うことは不思議と気にならなかった。

「はい、どうも〜!」

 わたしはクレープをふたつ受け取って夜宵に手渡す。

「あむ。はむ。う〜ん、ほいひい」

 夜宵は食べ方がわからないのか、口が小さいからか、口を開けてはためらってかじりつけずにいる。

「こうやってかぶりつくの。あむ。はむ。うまうま」

「口がクリームだらけになりませんか?」

「ウェットティッシュあるよ」

「では」

 夜宵は小さな口をめいいっぱい開いてクレープに歯を立てる。

「んぐんぐ……たしかに。色んな甘みが口の中に広がりますね」

「れしょ?」

 わたしたちは歩道の縁石に腰かけてクレープをほおばる。

 昼日中の都会の雑踏には、色んな種類のたくさんの人が歩いていて、見てて飽きなかった。

「おいひい?」

「かなり甘いですけど、嫌な甘さではないです」

 おいしいってことだ。

 夜宵は慎重だから、確実に自分にわかることから口に出す。

「夜宵、視線ちょうだい」

 わたしはスマホをインカメにして空に掲げる。

「はいチーズ」

「……」

 クレープを持ってにっこりとほほ笑むわたしと、クレープにかじりつき無表情の夜宵の写真が撮れる。

 わたしは夜宵の持つクレープを指さす。

「クレープ包んでる三角袋の下にチョコソースがたまって、漏れてくることあるから気をつけてね」

「……? あ、ほんとだ」

 夜宵の持つクレープの紙袋の下から、ぽたぽたとチョコソースが垂れていた。

「はむ。むぐ。あむ」

 わたしと夜宵は急いでクレープを胃に収める。

「ほら、顔向けて」

「ん」

 わたしは夜宵の口元についたクリームを丁寧にふき取っていく。

 薄桃色の唇をウェットティッシュでなぞる。

 夜宵の唇は薄く、日の光を受けて輝いていた。

「……自分でできましたが、ありがとうございます」

 わたしたちはゴミ箱にクレープの包み紙を放り込んで歩き出す。

「次はどこに行くんですか?」

「お、乗り気じゃん」

「まぁ、約束ですから?」

「へへっ」

 わたしは夜宵を連れて、映画館に向かった。


「夜宵、映画は観るの?」

「存在は知っています」

「言葉の力が強いな」

 わたしはラインナップから夜宵好みの映画を探してみるけど、いかんせん夜宵の趣味がつかめない。

 アクション、SF、ホラー、ラブストーリー、ヒューマンドラマ、アニメ。

 どれがいいんだろ?

「好きそうなのある?」

「……どれもよく分からないですが、このぬいぐるみみたいなのが気になります」

 それはテレビの短編枠で人気が出たパペットアニメの劇場版だった。

「夜宵って意外とかわいいもの好きなんだ」

「変ですか?」

「ううん。なんかほんとに14歳なんだって感じがして、いい」

「そうですよ。来年の3月25日で15歳になります」

「いいじゃん。パーティーしなきゃね」

「……」

 わたしはチケットを2枚取って、エレベーターで映画館に入っていく。


 劇場の中の明かりが落ちて、スクリーンに映像が流れはじめる。

 隣の席で夜宵が目を見開き、映像を見つめている。

 夜宵の大きな瞳にスクリーンの青い光が反射してきらめいている。

 夜宵はあいかわらずの無表情だったけど、映画に夢中になってるのがわかった。

 わたしは、特に原作のアニメを観ていたわけではないし、パペットアニメに興味津々なわけでもなかったから、ずっと夜宵を見ていた。

 こうして見ると無表情な夜宵だけど、感情がないわけじゃないとわかる。

 パペットが窮地に陥ったときには顔の筋肉が緊張してこわばり、苦難を乗り越えて街に平和が訪れたときには夜宵の瞳はわずかに潤んでいた。

 たぶん、感情を顔に出すのに慣れていないんだろう。

 映画は70分くらいだったけど、わたしが飽きることはなかった。


 上映が終わり、わたしは外の空気を吸って背伸びをする。

「うーん……どうだった?」

「……決して、わるくはなかったです」

 そう言う夜宵の目は赤らんで、わたしと目を合わせようとしなかった。

「すごくよかった?」

「……否定することはできません」

 わたしは子どもと遊ぶときのような笑顔になる。

「映画館、音がすごいですね。はじめはこんなたくさんの人が暗い部屋にいることに違和感があったのですが、気づいたら映像から目が離せなくなっていました」

 こんなに純粋に映画を楽しめてうらやましい。

「よかったじゃん。また来なよ」

「は……」

 夜宵はうなずこうとして、言葉に詰まる。

「いいんだよ。来たければ来れば」

「しかし、私には……使命があり……」

「うん」


 わたしは頭ごなしに否定せず、口元に手を当てて考えるポーズを取る。

「じゃあ両方やってみれば? なにも映画観てたら悪魔を祓えないってわけじゃないでしょ?」

「いえ、昔から父にお前は祓魔師として生まれたのだから、一分一秒たりとも悪魔を祓うことを考えて生きよと教えられました。そうやって生きてきたので、いま映画を観ていること自体が異常事態なのです。いまさらでは……ありますが」

「そっか」

 わたしたちは駅の方に歩き出す。

「夜宵は……祓魔師であることを自分で選んだと思ってる?」

「? いえ、それは私にとって当然のことです」

 夕方の空は橙色に染って、西日が金色に輝いていた。

「わたしは、悪魔と契約することを選んだよ。この世界のすべてを手に入れるって、自分で決めたよ。だから、夜宵には負けられなかった」

 夜宵はわたしの顔を見て、何を考えているのか探っているようだった。

「だから、ほんとに夜宵が祓魔師の道を自分で選び取ったときは――」

「必ず、わたしを殺しに来てね」

 夜宵は目を見開き、わたしの顔をじっと見つめる。

「他の誰にも、殺されたりしないから」

 夜宵はその言葉を反芻するみたいに、しばらく黙っていた。

「………わかりました。そのときは、私があなたを殺しにいきます」

 夜宵は薄く、ほとんどわからないくらいの薄さでほほ笑んでいた。

「終冬子だよ。まぁ、名前は知ってるか」

「……冬子、さんですね」

「……!」

「大丈夫です。名前は覚えています」

 夜宵は前を見ながら、わたしの顔を見ずに言った。

「呼び捨ててでいいのに」

「年上ですから」

 夜宵は律儀だった。

 わたしたちは駅に向かう。

 夕陽が横断歩道を照らし、黄金色の街をたくさんの人々が歩いていく。


 わたしたちは隣に座り、電車に揺られながら次の街を目指す。

 窓枠に切り取られた夕陽が車内に四角い光を落とす。

「冬子さんは色んなとこに行ってたんですか?」

「そだね。家に帰りたくなかったから」

「家に……」

 都心から離れていくにつれ、街の景色に緑が多くなっていく。

「お父さんと仲悪かったからね。あんまり家には帰ってなかったな」

「だから友だちの家に泊まったり、野宿してみたり、安いホテル使ってみたり、色々してたな」

「夜宵は、お父さんとはうまくいってる?」

「……私は、父には祓魔師としての戦闘術しか教わったことがないので」

「まじ?」

 まぁ、なんとなくそういう家庭なんだろうなとは思ってたけど、あらためて聞くと驚いてしまう。

「はい。私はそのためにつくられた子どもといっても過言ではありません。一流の祓魔師の両親のもとに生まれたので、私の生き方は定められていたようなものです」

「私が生まれてすぐ母が悪魔に殺されたということもあり、父の思いは揺るぎないものになったと思います。もの心ついたときから、父は私に祓魔の教育を施しました」

「父の記憶は、日夜と祓魔師としての訓練を行っていたことしかありません。もちろん学校にも行ったことがありません。あのセーラー服は、市街で活動する際に違和感なく溶け込むためのものです。しかし、我が家には書架があったので、寝る前に本を読むことでこの世界の事象を学んでいました」

「私は血統と常軌を逸した訓練のおかげで、すぐに祓魔師として名を上げました。はじめて悪魔を祓ったのは9歳のときで、11歳のときには友愛クラブに入会が認められました」

「その頃に父から、数多くの祓魔師が持て余していた聖遺物である、聖カタリナの短剣を譲り受けました。偶然もあったのか、短剣は私の手になじみ、それからは祓魔師としてさらなる飛躍を遂げました」

「さらに3年ほどかけ、私は友愛クラブの首位に最年少で抜擢されました。祓った悪魔の階級で功績が評価されるのですが、当時ソロモン級の悪魔を2体祓っていたのは私しかいなかったので、友愛クラブから選任されたわけです」

「そして3体目のソロモン級の悪魔をほとんど祓魔まで追い込み、すんでのところで逃がしてしまいました。悪魔は起死回生の策でひとりの少女と契約して命をつなぎ、私はその少女を祓うことで友愛クラブでの地位を確固としたものにする――はずでした」

 夜宵がちらとこちらの顔をうかがう。

 その口元はわずかに緩んでいる。

「ところが、人生とはうまくいかないもので、第一線で活躍し、将来も嘱望される祓魔師は、悪魔になりたての少女に完膚なきまでに敗北してしまったわけです」

 なぜか目をとじている夜宵の顔はすっきりしていた。

「なんかそれ聞くと、夜宵のキャリアの邪魔しちゃったみたいで悪いね」

「反省してください」

「う」

 夜宵はそこではじめて声を出して笑った。

「冗談です」

「ほんとは友愛クラブでの地位だとか、祓魔師からの評価とか、そんなのどうでもいいんです。私はただ夢中で祓魔の訓練に打ち込んで、魔を祓うことしか頭にありませんでした。だから、それ以外のことは、気にする暇もありませんでした」

「私は悪魔に負けるなんて思ったこともなかったし、負けたときは当然のように死ぬときだと思っていました。だから冬子さんに敗北し、ありうべからざる生をあたえられ、正直どうすればいいか戸惑っています」

 ガタンゴトンと電車が揺れ、窓の外を電線が走っていく。

「でも……冬子さんは、どうして私と友だちになろうと思ったんですか?」

「ふつうの人間は、自分を殺しに来た人間と、友だちになろうとは思わないんですよ」

「なるほど」

 わたしは納得してしまった。

「まぁ、そんな人だったから、私もつきあってみようと思ったんです。私を監禁した1週間も、特に何をするでもなく私に餌づけしてにこにこしてる。最初はほんとに頭のおかしい人に捕まったと思いましたが、危害を加えるわけでもなく、最近あったおもしろい話や、昔自分がどんなことして遊んでたかをずっと話してる」

「最初は警戒してましたけど、ずっとその調子なので拍子抜けしてしまって。なんだかよく分からないけど、この人の言う友だちってのに、なってみてもいいかなって気がしてきました。他にやるこもなかったですし」

「へへへ」

「照れるとこじゃねぇだろ」

 ウナギが間髪入れずに突っ込んでくる。

「いまでも頭のおかしい人という印象は変わってませんよ? でも、この人が何を考えているか分からなすぎて、ちょっとつきあってみよって気持ちになったんです」

 夜宵は目を閉じて座席の端の仕切りに寄りかかっていた。

「また、遊びに来ればいいんだよ。連絡くれれば、いつでも連れてくよ」

 夜宵は、目を閉じたままちょっと考えてるみたいだった。

「御免こうむります。悪魔の誘いなんて二度と乗りません」

「えー! いけずー!」

「ふふっ、冗談ですよ。その際は、お願いします。ちゃんと財布持ってきますよ」

「おー、やったー! いつにする? 夜宵のおごりでパフェ食べに行く!?」

 他愛もない話を交わし、日も沈んだころに、目的の駅に着いた。


 わたしたちは舗装された坂道を昇っていく。

 家々に明かりがつき、その中の幸せな家庭を連想させる。

 中身なんて、知れたもんじゃないけど。

「どれほど時間に余裕があれば、この坂を登ろうと思えるのですか?」

「はは! することなかったからね。坂ってか、丘かな?」

 街灯がわたしと夜宵の二本の影を長く引きのばす。

 わたしは意味もなく両手を広げてくるくると回りながら歩く。

「どうかしてるのはいまさらなので、深くは問いませんが」

「夜宵、意外とズバズバもの言うよね」

「冬子さんだけですよ。こんな気持ちになるのは」

「にゃはは〜。うれしいねぇ。わたしはいま幸せだよ」

「それはよかった」

「夜宵は幸せ?」

「……私は、幸せ、よく分からないです」

「……」

「悪魔を祓う訓練をしてるときも、悪魔と闘いそれを祓ったときも、幸せだと感じたことはありません。いまの私には、よく分からない感覚です」

 わたしと夜宵はしばらく黙ったまま、夜風を浴びて坂を登る。

「いつかわかるよ」

「……そんなものですか?」

「うん。いまじゃなくても、これから時間が経って、自分にとっての幸せって何だろって考えたときに、きっとわかるよ」

「……そうですか」

 わたしたちは丘の頂上を目指す。

 月のきれいな夜で、顔の横をウスバカゲロウがかすめていく。


「着いたー!!」

 わたしは両手を上げながら、丘の頂上に足をつける。

「……まさかあれから1時間近くも歩くとは思ってませんでした」

 夜宵は息ひとつ乱れてなかったけど、「こんな話聞いてない」という顔をしていた。

 丘のてっぺんは、草木が生い茂り、木で組まれた展望デッキと長椅子があるだけだった。

 ただ、それだけの場所。

「いい感じの夜景じゃない?」

 わたしは市街が一望できるデッキの特等席に夜宵を促す。

 夜宵は黙ったまま、その景色を見つめる。

 民家の窓から漏れる明かり、路上を走る車のヘッドライト、路地を照らす街灯、ビルの航空障害灯、黒い海の上の漁船の漁火、無数の人の生きる証が光となって街を輝かせていた。

「きれい、ですね」

「一時間歩いてよかったでしょ?」

「それは審議が必要ですが……」

 夜宵は茶化していたけど、夜景を映す大きな黒い瞳はマリンスノウのようにきらめいていた。

「上もすごいよ」

 それなりの標高まで登ってきたのもあって、街灯の光は届かず、すり鉢ですり潰したガラスを夜空にぶちまけたような星空が広がっていた。

 夜宵が首だけで夜空を見上げ星を瞳に映す。

 その横顔のあごから首のラインの美しさに目を奪われてしまう。

「これは……」

 夜風が夜宵の三つ編みを揺らす。

 夜宵はベレー帽が飛ばされないように片手で押さえた。

「よい、ものですね」

 あ。

 夜宵が。

 はじめてちゃんと、いい、と言ったかもしれない。

「でしょ?」

「友愛クラブは都心の高層ビルなので、ヒトのつくる夜景を見ることは多いのですが。たしかにこれは……」

「寝そべってみる?」

 わたしは石づくりの足場に横になった。

 夜宵はちょっと迷ってたみたいだけど、わたしの隣に寝そべる。

 視界いっぱいに星空が広がって、わたしは宙に浮いた気持ちになる。

「星を」

 夜宵は何かを考えているのか、ぽつりぽつりと言葉を吐き出す。

「眺めてみようと、思ったことがなかったので」

 わたしは口を挟まず、指先で恒星をつかもうとしていた。

「これも、よいものですね」

 そうだね。

 わたしは心のなかで相槌を打った。

 このまま、時間が止まってしまえばいいのに。

 悪魔の力をもってしても、それは叶わない夢だった。

 だから、せめてこの時間が長くつづくようにと、そう祈ったけれど。

 世界はわたしの思ったようにはいかなくて。

 だからこそ、わたしは悪魔なんかに命の半分を捧げたのだった。

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