第2話 カイト・クローバーの鞄を持つ女

「……ぁ」

 わたしは朝日で目覚めた。

 ビルとビルの隙間、ジグソーパズルのように切り取られた空から日の光が降っていた。

 何を取られるでもなく、誰に奪われるでもなく、わたしは路地裏に寝転んでいた。

「やっと目ぇ覚ましたか……生まれ変わった気分はどうだ?」

 わたしの目の前には、目のない黒いウナギに人の口がついたような生きものがいた。

 その生きものは、わたしのセーラー服の襟元から顔を出している。

「ちょっと、どこ入ってんのよ」

 悪魔をにらむ。

「Gehe! しゃあねぇだろ、生えてんだから」

 セーラー服の裾に手を突っ込んで、手の平を肌の上ですべらせる。

 ちょうど胸のあいだから、黒いウナギが生えていた。

「きっしょ」

「あぁん!? これでもオレはソロモン七十二柱の一角」

「うるさい、死に損ない」

「ぐぅ」

 悪魔を黙らせる。

 そんなこと、心底どうでもいい。

 喉……乾いたな。

 わたしは体を起こし、大通りに歩き出した。


「いらっしゃいませー」

 いちばん最初に見つけたコンビニに立ち寄る。

 栄養ドリンクにも雑誌にも目もくれず、まっすぐ清涼飲料水のならぶ冷蔵庫を目指す。

 迷わず扉を開いて、ピンクのラベルのミネラルウォーターをパーカーのポケットにねじ込んだ。

 そしてそのまま、プールでターンを決めるように華麗に退店した。


「……まじかよ」

 わたしのパーカーの襟元からウナギが顔を出してぼやく。

「悪魔が万引きで驚いてどうすんの?」

 ミネラルウォーターのキャップを開けて、冷たい水を喉に流し込む。

 乾いた喉に、水はとてもおいしく感じられた。

「タダで飲む水はうめぇだろ?」

「変わんないよ。0円でも、150円でも。喉が乾いてたからおいしいんだよ」

「ちげぇねぇ、Gehe!」

 笑う悪魔にかまわずに、高架下を通って公園を目指す。

 その途中。

 おしゃれな格好をした女が高架下の向こうから歩いてきた。

 女が左手にさげていたのはカイト・クローバーの新作のバッグだった。

 ピンクの薔薇の蕾の装飾がかわいい、革のバッグ。

 わたしの所持金じゃ、とても手が出ない代物だ。

「ねぇウナギ、あの女殺そ」

「はぁ!? てめぇサイコキラーか?」

 人なんか殺したことはない。

「あの女が持ってるバッグ、欲しいんだよね。だから殺そ」

「やっべぇヤツと契約しちまったな……」

 ウナギは絶句してぽかんと口を開ける。

「えー! やだやだ! 力をくれるって言うから命の半分あげたのに」

「強盗のために命の半分を捧げたのか……?」

 この悪魔融通がきかない。

 せっかく命を助けてやったのに。

「ううん。これはその一部。わたしはこの世界のぜんぶが欲しいの。欲しいと思ったときに、欲しいものを手に入れる力が欲しいの」

「とんだ強欲だな」

「うん、そうだよ。じゃないと生まれた意味ないじゃん。せっかくこの世界に生まれたんだから、この世界のすべてが欲しいよ」

「Gehe、Gehe!」

 悪魔がきっしょい笑い方をする。

「気に入ったぜ。おめぇヒトのくせに、悪魔じみてやがる」

「でしょ? じゃあサクッと殺しちゃお」

「ダメだ」

「えー!」

 ウナギはパーカーに潜って、襟元から声を出す。

「オレが死にかけてたの見ただろ。鞄が欲しいなんて理由でヒト殺してたら、すぐに友愛クラブのヤツらが来てブチ殺されて終わりだ」

「ゆーあいくらぶ?」

祓魔師エクソシストの連中だ」

 ふーん。

 どうでもいい。

「で、殺るの? 殺らないの?」

「殺らねぇよ! それにだな――」

 ウナギは口元を吊り上げて、笑みのような表情をつくる。

「鞄が欲しいだけなら、殺す必要ねぇだろ」

「どゆこと?」

「鞄だけ奪えばいいってことだよ。余計なリスクを取る必要なんか微塵もねぇ」

「そっかぁ! ウナギ頭いいね!」

「ウナギィ? オレはソロモン七十二柱の」

「あーはいはい! じゃあよろしくね」

 ウナギは不服そうにわたしのパーカーでとぐろを巻く。

 ちょうど女とすれ違おうとする瞬間、わたしのパーカーの裾からウナギが顔を出して女の鞄に噛みついた。

 わたしはウナギの口から鞄を奪い取って、全力で走り出す。

 唖然とした表情の女は、瞬時に眉を吊り上げてわたしを追って来た。

 女はヒールを履いてるのに、おたがいの距離が縮まり、わたしは自分の運動能力に嫌気がさす。

「ウナギ、頼める?」

「オレはウナギじゃねぇ!」

 わたしの脚に悪魔の血が流れ込むのがわかる。

 ぼこぼこと皮膚が波うち、悪魔の力でできた嘘の筋肉がわたしの足に浮き上がる。

「せいっ!」

 高台の公園までつづく長い階段の踊り場まで、わたしは一息で飛び上がった。

 さらに踏み込み、数十段はあろう階段を跳躍し、勢い余って空高く舞い上がる。

 跳躍の勢いが止まって空中で静止した瞬間――呆然として立ち止まった女、高いビルが反射する空の青、何本も走るJRの電車、電線を走らせる電柱のてっぺん、それらが一目で見渡せたときの全能感は、わたしがこれまで生きてきたなかで、いちばん素晴らしいものだった。

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