エンドロールの君へ

鈴狐(すずこ)

エンドロールの君へ

鳴り続ける目覚まし時計を止める。7時42分。ぼわんとした目と頭で周りを見渡す。あぁ今は......現実だ。その証拠に、小さく動く時計の秒針は一瞬でも止まることがないし、無機質な自分の部屋はやはり無機質なまま変わらない。面白味のない。つまらない日常の一片。階下から母の作る卵焼きの甘い匂いが僕の所まで届く。僕はゆっくりと立ち、ハンガーにかかった制服に手をかけた。


夢と現実の狭間はいつもあやふやだ。どこまでが夢なのか、どこまでが現実なのか。夢の中では夢が現実であり、真実の世界なのに、現実に戻るとやっぱり夢は夢でしかない。脳が勝手に作り出した偽物の世界。しかしそんな脆く、美しい夢の中が僕の唯一の居場所だ。夢の中だったら、全て僕の思い通りになる。夢の中だったら、僕は絶対的な存在。そう、夢の中だったら、僕がずっと憧れていた世界が広がるのだ。いじめもない。差別もない。素晴らしい人間たち、そして素晴らしい家族。勉強もない、運動もない。好きな事を永遠にして、思い通りに暮らせる。それから......僕のサキちゃん。儚く、可憐な僕の唯一無二の親友......。


ぼんやりとしながらリビングに入ると、既に起きていた両親と姉と弟が食卓を囲んでいた。誰もひっそりリビングに入ってきた僕には気づかない。片手で新聞を読みながら片手で珈琲をすする父。時々箸を止めながら参考書を広げ勉強に勤しむ姉。サッカーの動画を真剣に見ながらトーストに齧り付く弟。唯一、無心で味噌汁を啜る母はようやく僕に気づき、一瞥をくれたが、何も言わなかった。家族と最後に会話したのはいつだっただろう?台所の菓子入れのカゴから菓子パンを抜き取りながら考える。高校受験に失敗した時か。両親の絶望した顔と姉の僕を蔑む目と嘲笑が忘れられない。それとも......。と僕は菓子パンの袋を勢いよく破る。三年前、遥斗に有名サッカーチームからのオファーが来た時か。僕はその日にサッカー部を辞めたんだっけ。


もう一度食卓を見る。一応用意され、もう湯気の立っていない僕の朝食がテーブルの端にこじんまりと置いてあった。あれはいつも捨てられるのかな。まあ、知ったこっちゃないけど。


イチゴジャムのコッペパンは少しも美味しくはなかった。ただベタベタに甘く、口の中に嫌な後味が残る。結局半分残し、駅のゴミ箱に捨ててしまった。


僕と同じ制服を着た人が何人も同じ電車に揺られていた。ああ、この人たちとも話したことないな。高校に入ってから、友達が一人も出来ていない。だから家でも学校でも口を開くことは無い。僕の口はなんの為にあるのだろう?


友達が出来なかった理由は些細な事だった。中学時代に付き合っていた馬鹿元カノが、僕にフラれた腹いせにある事ない事を噂として流したのだ。彼女には人のツテがあり、僕の進学先の高校にもすぐ伝わってしまった。その結果、僕は入学早々敬遠され、誰からも構われなかった。確かに僕も中学時代に馬鹿な事をしてしまっていたし、それをバラされるのも仕方がない。ただ、僕はショックで昔より口をきくことが難しくなってしまった。


いっその事......と僕は考える。永遠に夢の中で過ごせたら。今更現実世界でやり残したことなんてないし。胸の中に浮かぶのは夢の中にだけ存在するサキちゃんの姿だけ。

彼女は僕の理想の女の子。真っ白ワンピースから見える陶器のような手足。柔らかい笑顔で唯一、僕の目をしっかり見てくれる子。絹のような美しい黒い髪をサラリと風に靡かせ、僕の話をうんうんと聞きながら、ふわりと笑う。

時折、そんなサキちゃんに触れてみたくなる。しかし、それは出来そうにない。もし触れたら崩れて消え去ってしまいそうで。そのくらい儚い存在だ。


そんなことを考えていたら、突然、僕は誰かに右肩を叩かれた。何だ?電車の中だけど?

恐る恐るゆっくり振り返る。久しぶりに現実で口を開かなければならない事実は、僕を十分に怖がらせた。


「ねえ、私だよ」


僕はその声にハッとする。反射的に声が出た。


「サキちゃん!」


そう。そのサキちゃんだ。後ろには、優しい微笑みを湛えたサキちゃんがいた。今日は爽やかなセーラー服を着ている。


「会いたかったよ。我慢出来ずに、ケンちゃんのとこ、来ちゃった」


とぴょんぴょん小さく跳ねながら、サキちゃんは言う。


「誰かに名前で呼ばれたのなんて久しぶりだ」


僕は照れ隠しでそう言って、目線をサキちゃんから逸らした。


サキちゃんは笑った。


「私がいっぱいケンちゃんの名前、呼んだげる。ねえ、今日、高校サボっちゃわない?私、学校サボってきたんだ。」


サキちゃんは、何も入っていなそうなスクールバッグを掲げた。


僕はその言葉に、凝り固まった口角を上げて笑った。


「そうだね。僕、綺麗な海が見える場所に行きたいな」


「行こう!」


サキちゃんは目を輝かせた。


電車が終点に着いた。僕が降りる予定だった学校の最寄り駅は比較的都会の方で、ビルが立ち並ぶ場所だが、この終点の駅は最寄り駅と比べ、ガラリと情景が変わる。小さな駅に大きな海。締め付けられた都会とは大きく違い、開放的だ。


新鮮な空気を大きく吸う。潮風が流れ、きめ細やかな砂が僕たちの足元をすくう。平日の朝とだけあって、ここには僕とサキちゃん以外誰もいない。


サキちゃんは海の方へ走り、制服が濡れることを気にせずに、両手で水をすくい、真上に放り投げた。水しぶきが太陽に反射し、虹色になってキラキラと光り、落ちる。


「ねえ、ケンちゃんも!楽しいよ!」


サキちゃんは手招きしながら叫んだ。


僕たちはそのまま水のかけあいをした。僕のワイシャツは透け、ズボンは水で重みを増した。互いに大きく笑い、海の中を走り、転び、水を跳ねさせた。


「楽しいね」


とサキちゃん。


「楽しいな」


と僕。


「たまには、こういうのもいいかも」


「そうだね、ケンちゃん、多分これが幸せって言うんだね」


僕は幸せという言葉を聞き、水をかける手を止めた。頭の中に今までの17年の人生が駆ける。何かが込み上げてきそうで、僕は小さく呻いた。


そうか......これが幸せっていうのか。


サキちゃんがいきなりの僕の異変に慌てて駆け寄ってくる。


「ケンちゃんどうしたの?!」


「僕、この世界から消えちゃおうかな」


ポロリと出た言葉は、サキちゃんの顔を歪ませた。


「なんで!そしたら私も一緒にいくよ」


「駄目だよ。サキちゃんは生きなきゃ」


「そんなこと出来っこないし、嫌だよ。ケンちゃんがいないと私は生きていけないの」


サキちゃんはワッと泣き出した。僕はどうすることも出来ずに、後悔しながら、うずくまって泣くサキちゃんをただ見つめていた。


唐突に目眩がした。サキちゃんが遠くなっていく。ごめん、サキちゃん。そんな言葉すら言えずに僕の目の前は少しずつ闇に包まれていった。


『次は終点〜』


聞き慣れない言葉のアナウンスを聞き、僕は慌てて目を開けた。あれ......なんだ...今の夢か。縋り付くように彼女の影を探そうと見渡すと、彼女は愚か、車内はもぬけの殻だった。同じ制服を着た人たちももういない。いつの間にか眠って乗り過ごしちゃったんだ。僕は息をついた。最寄り駅で起こしてくれる友達はいない。虚しさと寂しさに苦しくなる。込み上げる涙は抑えることが出来ずに、僕の頬を撫でた。


幻想。妄想。空想。


そんなことはもうとっくのとうに分かってる。それでもずっと彼女といたい。幸せな時間を手放したくないから。代わりに今から現実を手放そう。


終点で降りて、真っ直ぐ海に向かう。さっき見た夢の中の情景と瓜二つで、初めて来る場所なのに初めてだとは感じない。寧ろ懐かしく、この場所こそ自分のこれからにうってつけの場所だとさえ思う。


傍らにそびえる崖に登った。


目の前には青く深く広がる海。


僕は一息つくと、虚空に身体を舞わせた。


直後、前から僕の手を掴むものがあった。絹のような誰かの髪が僕の肌に触れた。


ゆっくり顔を上げると、光る輪を頭の上に乗せたサキちゃんがいて、悲しそうに寂しそうに僕に微笑みかけていた。僕は驚きもせず、何も言わずに、ただただサキちゃんを見つめ続けた。......やっぱり一緒に来てくれるんだね。


僕の身体は落ちていく。


けれど身体の芯の部分は登っていく。


薄明の光。走馬灯。


最期に別れを告げた。


「バイバイ」



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