12・Return to ...

 「あ、ありました。これですよね。印。」


 ごくごく平穏な紀久君の声がそう告げました。こんなにも安定した声色だと、不安に駆られていた私がなんだか惨めっぽく思えてしまいます。そして、それと同時に大きな安堵を感じます。紀久君は眼鏡だから目が悪いだろうな、印がちゃんと視えるかな、なんて少しでも考えていたついさっきまでの私は穴に埋めておきましょう。


 「そうね。間違いない。じゃあ、ここからこの壁に垂直に真っすぐ歩けば、」


 「はい、”神の箱”に戻れるということですね。」


 ”神の箱”とあえて言う紀久君のおちゃめな一面を垣間見ながら、頷きます。


 慎重に壁との垂直を測り、その向きに歩き始めます。私は最後の最後まで名残惜しそうに壁に触れていましたが、そうしても居られません。前後左右なにも見渡せない真っ暗な空間に、踏み出します。


 先ほどよりも慎重に、ゆっくりと、まっすぐになるように歩きます。はぐれないように、気付いたら自然と手をつないでいました。手の中は冷や汗でビタビタです。


 真っすぐ歩けているだろうか、もし曲がってしまっていたら、エレベーターに戻れないのではないか。もしかすると、行きに壁に到達したときに既にエレベーターから曲がって進んできていたのではないか。いろいろな不安がよぎります。


 手に汗握る、とはまさにこのことでしょう。ふたりの手の中には、握られるほどの(主に私の)汗が満ちています。不安と恐怖でとても喋る気にはなれず、そうして抑え込まれた言葉たちが手汗として染み出しているかのようです。


 意識は、方向感覚とつないだ手だけに収斂していき、研ぎ澄まされていきます。だんだんと自分の心音が大きくなり、不安がこれまでになく膨張しきったとき、少し遠くに白いところがあることを見つけました。進んでいくたび、その白いものは大きく、そしてだんだんとオレンジ色に見えてきます。


 その光にすがるようにして進んでいくと、目のまえに鉄格子が現れました。そして、その奥には口を開けたままのエレベーターがあります。


 「や、やった!エレベーターに戻ってこれたわね!」


 「はい、よかったです。今回ばかりは緊張しました。」


 今までの不安が一気に霧散し、安堵と喜びに変わります。紀久君も大きな深呼吸をひとつ。どうやら、本当に気を張っていたみたいです。手は、いつの間にか放していました。


 私たちは、鉄格子に空いた(私が空けた)隙間から体をねじり込んで中に入りました。鉄格子の隅では、私たちが残してきた2つの灯油ランプの明かりが、弱弱しく揺れています。さっと辺りを見回しますが、私たちがここを離れた時と特に変わったことは無さそうです。


 「ここの鉄格子は、あんまり変わりないですね。」


 「そうですね。まだランプもついていますし。何より、僕たちが持って行ったこのランプが途中で消えなくてよかったです。」


 「ほんとにそうですよね。途中で消えてたら……パニックでした。」


 私がパニックになるのは本当にそうなのですが、紀久君はやはりそんなことは無さそうな、まるで他人事かのような落ち着き具合で「消えなくてよかった」と言います。


 「じゃあ、エレベーターも見てみますか。」


 「そうですね。行先が変わっていたりしたらいいんですけど……。」


 私も、行先が変わっていることに、もはや屋上行きになっていることを願ってエレベーターに乗り込みます。


 相変わらず古い(良く言えばレトロな)エレベーターです。乗り込むと、私たちの体重で少し床板が軋み、エレベーター全体が少し沈みます。なんだか、この感覚が懐かしいようにさえ思えます。これは、完全にさっきまでの暗闇のせいです。そして、エレベーターの真ん中に相変わらず突っ立っている看板にも、もう慣れっこです。


 「ええっと、看板は――」


 〈このエレベーターは80階までです〉


 「やった!紀久君、これでかなり上まで行けそうね。」


 「そうですね。屋上が何回かは分かんないですですけど、大きな前進ですね。」


 そう言うと、紀久君はくるりと振り返ってエレベーターのボタンをチェックします。確かに、そこにはしっかりと80階のボタンが用意してあって、ちゃんと押せるようになっています。逆に、0階から50階までのボタンは無く、51階から79階までのボタンはあるものの、それはただの文字で、ボタンとして押せるようにはなっていません。


 そうしてボタンをふたりで確認していた時です。


 ――バキン!!――


 エレベーターの外から、大きな金属音が聞こえました。それこそ、外の鉄格子が突然爆ぜたような、へし折られたような大きな音です。


 「な、なんの音でしょう?」


 「外から聞こえてきましたね。晴音さん、ちょっと僕見てきます。」


 紀久君がエレベーターから降ります。私も、後ろに続いていきます。ひとりでエレベーターに残るのは、心細すぎます。


 私は、薄暗く目に映る鉄格子と、その奥の闇に眼を凝らします。しかし、鉄格子には特に何も変わりはありませんし、その闇の奥にも、もちろん何も――


 その時です、暗闇の中から、突然”何か”が現れました。


 ――バキン!――


 「!!!」

 「!!!」


 暗闇の中から現れた”何か”が、鉄格子にぶつかりました。鉄格子が、少し曲がります。でも、それが”何”かは分かりません。ただ、私たちよりも明らかに体の大きい真っ黒な”何か”――それは多分なにかしらの生物のようなもの――が、こちらに向かって突き進もうとしています。

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