2・She Has /no/ Name

 「か、神様……?」


 少女の突拍子もない答えに、すでに混乱していた私の頭にはさらなる混乱が合流して、とめどない「?」が湧き出ました。そもそも、この少女は一体何なのでしょうか。神様、それも夢の国の神様というのはどういうことなのでしょう。


 「そう、神様よ。でも、日本の神道の神様とかイエス・キリストとは違うのよ。私は夢の国の管理人さん、ってところかしら。」


 「夢の国の……?」


 「そう、夢の国の。今あなたが見ているこの時計も、あなたが幼い頃に見ていた不思議な大きさの家具も、全部ぜーんぶ、夢の国の一部なのよ。」


 私は、次々と私の理解をこえるお話が飛び出してきたせいで、頭の混乱の収拾がつきませんでした。まだ高校時代の数学Ⅱとかの方が理解に容易かったでしょう。そんな私を見て、少女は桜色の裾を揺らしながらゆっくりとこちらに向かって歩いてくると、私のベッドの隅に腰をかけました。そして、ゆっくりと、「夢の国」と「不思議の国のアリス症候群」についてのお話をしてくれました。


 少女の住む「夢の国」はこの世界と背中合わせで、表裏一体で存在しているのだそうです。でも、その2つの世界は決して通れない膜で隔たれていて、基本的には2つの世界が交わることはないのだそうです。


 そして、「夢の国」では大きさという概念があいまいで、物は一定の輪郭を保ちつつも、それは常に大きくなったり小さくなったりと、不定なのだとも話していました。物の大きさが不定だということは、その空間の距離も不定であるということです。数ミリ先が千里の距離にもなり、何光年先の世界がすぐそこにも現れるのだそうです。


 さらに、私たち人間が夢を見るのは、睡眠によってこの世界にある私たちの意識、つまりは自我が途切れ、そこに「夢の国」が少々入り込み、それを脳と心が勝手に解釈することによって起こるのだと、そうどこか弾む声で説明してくれました。


 それから、少女は私たちの世界で「不思議の国のアリス症候群」と呼ばれる現象についても話してくれました。簡単に言えば、2つの世界を隔てる膜に穴が開き、この世界から「夢の国」を覗いている状態なのだそうです。


 ですから、その症状はものが大きく見える、小さく見えるというもので、私の感じた無限も、距離の概念が不定な「夢の国」の影響なのだそうです。私がこどもの頃に症状が出て、大きくなってから出なくなったのも、幼い子供はそもそもまだ自我が曖昧だから、起きながらにして「夢の国」の膜が開いてしまうからなのだそうです。ましてや寝際ともなれば、なおさらという話でしょう。


 「……っていうことなのよ。少しは分かってもらえたかしら?」


 一気に説明を終えた少女は、私にそう問いかけてきました。


 「え、ええ……。なんとなくは理解したわ。でも、なんか胸に少しつっかえる感じがする。話がちょっと信じられないようなことすぎて、少し変な感じ。」


 私は率直な思いを述べました。今なら分かりますが、その時私の胸につっかえていたのはただ「不思議」や「理解できない」という不信感だけではありませんでした。そこには、少なからず(甲子園球児が持って帰る砂の量くらいには)この世界の知られざる秘密を知ってしまったという優越感や興奮も混じっていました。女子だって、そういった秘密には多少の興味を持つものです。


 「そうね。今すぐに理解するっていうのは難しいかもしれないわね……。」


 私の返事を聞いて、少女はなぜかまた少し声を弾ませて言いました。少女のワンピースは梅雨の季節らしい、紫陽花のような小さな花びらが敷き詰まった柄になっています。


 その時、私はふと少女の名前を知らないことに気が付きました。少女から与えられた数々の情報に理解が追い付きはじめ、他のことに考えを馳せられるようになったということでしょう。


 「ところで、あなたの名前は何て言うの?」


 私は少女にそう問うてみました。すぐに答えを聞けると思っていましたが、少女はすっと視線をベッドに落し、考えはじめてしまいました。


 名前を聞かれてすぐに答えられないというとき、その理由は2つくらいしかないのではないでしょうか。ひとつは相手に聞かれては困るような名を持っているとき。もうひとつは名前がないとき……です。そして、少女はおそらく後者の理由であるということぐらいは、未だ動きの悪い私の脳でも直感的にわかりました。


 「あなた、もしかして名前が――」


 「あなたの名前は雨音あまねだったわね。綺麗な響きをした名前だわ。」


 私の言葉を遮って、少女はそう言いました。まだ私は彼女に自分の名前を言っていないのに、です。でも、それまでの現象と少女の話のほうがよっぽど衝撃に満ちていたので、その時の私はもうそれにはあまり気を留めませんでした。


 「じゃあ、私の名前は晴音はるねよ。『夢の国』とこの世界は表裏一体。だから私の名前は晴音はるね。どうぞよろしくね。」


 晴音と名乗った少女は、濃い水色と橙のマーブル柄のノースリーブワンピースから生える華奢な腕を私の方に伸ばし、握手をもとめてきました。


 いったい何がよろしいのかはまったく分かりませんでしたが、美少女が屈託のない笑顔で求めてくる握手を断れる人がいるでしょうか。少なくとも、私はほぼ反射的に彼女の手を握ろうと手を伸ばしました。


 「よ、よろしく――」


 晴音の手を握ると、「よろしくね」の言葉を言い切らないうちに、重ねた手の内側から白とも黄色とも言えない光が溢れでてきました。


 「っ!!こ、これは……何!?」


 そう言いながら、あまりの眩しさに私は目を閉じました。そうして数秒、5秒くらい経ったでしょうか。まぶたを通して感じる光が見えなくなると、私はゆっくり目をあけました。


 するとどうでしょう。そこは確かに私の部屋です。目の前には舞踏会でも引けをとらない深紅のワンピースを着た少女が、先ほどと同じく私の手を握ったまま、ベッドの端に座っています。


 しかし、どうにも違和感があります。目に映る物どれも、ニスを塗られた木材のように、テカテカというか、つやつやというか、そのような透明の膜で覆われているようにみえます。


 その奇妙な部屋の光景をきょろきょろと見回す私に、晴音はどこか自慢げにこう言ったのです。


 「ようこそ、『夢の国』へ。私の世界へ。」


 

 

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