夢診る雨音は夢を乞う

沖田一

夢見る雨音は夢を診る

始まりの夢

1・Syndrome

 みなさん、はじめまして。私は佐藤雨音あまねという者です。年齢は……ついこの間、お酒を飲めるようになったとだけ言っておきましょう。職業は、ひとつは大学生、もう一つは……いや、そうですね。それについてお話するためにも、今日は少し、私の幼い頃と数年前に体験した、少し不思議なお話をしましょう。


 みなさんは「不思議の国のアリス症候群」ってご存じでしょうか?最近は少し有名になりましたかね。ネットで調べればすぐに分かると思いますが、なんとも不思議なものです。簡単に言えば、認知する物の大きさがおかしくなってしまうのです。


 私は幼い頃、小学校低学年くらいまで、この病気に苦しめられました。当時の私は寝際によくこの症状が出て、それと数時間を闘っては、夜中に「眠れない」と両親の寝室に逃げ込んだものです。


 私の主な症状は、「物が大きく見える」と「空間を限りなく大きく感じる」というものでした。このふたつ、なんとも相性の悪いものでした。目を開ければ部屋の時計はビッグ・ベンのごとき巨躯に映り、それを怖がって目を閉じれば、そこには無限の空間が広がっているのです。


 大きく見える方はまだいいのですが(全然良くはないのですが)、無限の空間を感じるというのは、とても恐ろしいことでした。そこは真っ黒で上も下もなく、どこまでも際限なく広がり、でもその中に確かにポツンと存在する、限りなく小さな「自我」を俯瞰しているのです。今自分がいるのはたった数畳の寝室なのに、この広い宇宙の真ん中に自分一人だけ浮かんでいるような、そんな自分を自分で見ているのです。


 そんな(今思えば)なつかしい体験も、大きくなってからはすっかりなくなってしまいました。でも、高校に入ったその年の梅雨の頃、私は数年ぶり、いやもう10年以上のことだったのかもしれません。私は、再び「不思議の国」を見たのです。


 その日、私は就寝しようといつも通りベッドに入り、ふと時計を見ました。そのとき、少し時計の輪郭が揺らいだような感覚がして、一度目を閉じてから再び時計を見ました。するとどうでしょうか。そこには、私の寝室の壁には、久方ぶりに雄大なビッグ・ベンが鎮座していたのです。


 とても久しい症状だったので、正直かなり驚きました。でも、それと同時に懐かしく、どこか楽しい気持ちさえ、ふつふつと湧いていました。


 その長針がひとメモリ分動くまで、私はまじまじと懐かしき時計盤を眺めていました。今考えれば、あれほどに長い時間「不思議の国」を注視したのは、それがはじめてだったかもしれません。


 私はふと、目を閉じたらまた無限の空間を感じることが出来るのかと、そう気が付きました。そう思ったらやらずにはいられませんでした。私は、期待と少しの怯えと共に、まぶたを下ろしました。

 

 でも、そこは、私の目に映ったのはただのまぶたの裏でした。そこは有限で、すぐ近くに寝室の壁を感じ、上には天井を、下にはベッドと床を感じる、ごく普通の空間でした。


 私は少しがっかりしました。もちろん、安堵もありました。ただ、どれだけ恐ろしかった体験といえど、それが久方ぶりとなれば多少は楽しむ気分が起こるものです。私は、少し(小さじ1杯分)の安堵と、少し(大さじ1杯分)の落胆とともに、まぶたをあげました。


 まぶたをあげると、そこにはなおビッグ・ベンが大きな大きな存在を主張していました。首を傾け天井に目をやると、そこにあるライトも輪郭を膨張させ、私の頭にぶつかるのではないかと思うほどに部屋を圧迫しています。


 私はそのライトも気が済むまで眺めました。自分の身長よりもはるかに大きい直径をもつ半球の天井ライト。もしこれがメロンパンだったらいいのにな、とか思っていたことを覚えています。


 さすがに首と目が疲れたので、私はもう寝ようと天井の巨大ライトに別れを告げ、最後にビッグ・ベンも拝んでおこうかと、壁に目をやりました。


 するとどうでしょう。確かにそこにビッグ・ベンはあるのです。しかし、15分ほどを指す長針の上に、コビトが腰をかけているではありませんか。


 いえ、コビトと言うのでは語弊があります。正確には小学校5,6年生ほどの背丈の少女がいました。ただ、どうにも驚きがせり出してしまって、その時の私は彼女をコビトだと、そう一瞬思ってしまったのです。


 「あ、あなたは何……誰?」


 驚きと混乱に乗って、私の口からそう音が漏れ出ました。しかし、その少女は返事をせず、可愛らしくも、すでに美しさを秘めたほほえみで、私をまっすぐに見つめているだけです。


 少女はノースリーブの、可憐なワンピースを着ていました。ワンピースはとてもつややかな生地で出来ているようで、部屋に差し込む月光が生地に反射して、細かくてなめらかな光沢を映していました。


 しかし、そのワンピースの柄はと言うと、それがとても不思議なのです。最初に見たときは肩からおなかのあたりまでが白く、腰から下は澄んだ湖のような深い青緑のグラデーション柄だったのですが、気付けばそれは虹を散りばめたような可愛らしい水玉模様に変わっています。こうしている今もその柄はゆっくりと移り変わっているのです。


 「私はね……」


 私が未だ混乱した頭で目の前にいる少女を眺めていると、少女はゆっくりと口をひらきました。そして、座るには急な傾きになってきたビッグ・ベンの長針から飛び降り、私の部屋の床にふわりと着地します。足もとをみれば、ワンピースの裾からは華奢な、そして差し込む月明りよりも白い足がのぞいています。


 そして、すっと背を伸ばした少女は、見た目の年齢相当の甘い声で、こう言ったのです。


 「私は……神様……かな。夢の世界に住んでるの。」



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