第2話 ジャーンジャーンジャーン! “燕人” 張 益徳

 オレの名乗りと啖呵たんかがビリリと響いて、周囲がざわめいた。


 その刹那、牙を剥き出しにした虎が高く跳んで、オレはげきを逆手に持ち替えその場に屈んだ。そして虎の白い喉元を柄でドガンッと突き上げる。


「オラァッ!!」

「ギャゥン!」


 一撃、虎は仰向けになって盛大に吹っ飛んだ。


 人も獣も喉を突かれれば堪らないもの。オレは倒れた虎の背にヒラリ飛び乗ると、腕に引っ掛けられていた領巾ひれを使って首を絞め、サクッと失神させた。

 そして素早く帯を解くと、虎の口をぐるぐる巻いて縛り、脱いだ上衣うわぎでその顔を覆う。それから侍女たちの帯を拝借して、虎の手足を縛って戟に括り付けた。豚を丸焼きにする時のあの感じだ。


「よし、これでいい。おう! 誰か虎を引き取りに来い!」


 しばらくすると、回廊の向こうから鎖を持った兵士が駆けつけ虎を運んでいった。



「ったく、ちゃんと首輪つけとけよなぁ」


 虎ではあるがあれは飼い猫だ。どうにも物足りねぇなと苦笑いで頭をガシガシ掻いてたら、軽く立ち回ったせいかかんざしで飾られた髪がぼろりと崩れた。

 ったく、衣装だけでなく長ったらしい髪も邪魔で仕方がねぇ。


「あ、あの……!」

「ん? ああ、帯使っちまって悪かったな。上等なもんだったろう?」


 へたり込んでいた女は顔を横に振り、何故か瞳を輝かせオレを見上げている。


「なあ? ところでちょっと教えてほしいんだがよ、ここは一体どこだ?」


 オレがそう訊ね振り向くと、女たちだけでなく周囲の人間も平伏へいふくしていた。


「ここはえん国の後宮でございます」

「……燕? 後宮、だと!?」


 後宮といえば、美女千人ともいわれる皇帝の妃がいる場所だろう?

 なんでそんな場所に……って、そうか、女が後宮の女ってことか。いやいや待て、だからオレは一体どうしちまってこの女になってんだ!? というか燕国だと? その国は、今はもうないはずだろ……?


「どういうことだ?」

「恐れながら……ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」


「ん? ああ、構わん」

「先程、『燕人えんひと』とおっしゃいましたか」


「ああ、言ったな。それがどうした?」


 そう返したら、平伏していた者たちから感極まったような声が上がった。何故かお互いに手を取り喜んでいる。


「……あぁ?」


 “燕人”なんて、言い慣れたオレのお決まりの口上だ。


 だってオレは “燕人” 張 益徳ちょう えきとく――しょくの将軍で、劉 玄徳りゅう げんとく関 雲長かん うんちょうの義弟である男だからな!



 ◆



えい翼妃よくひ飛燕ひえんさま。お迎えに上がりました」


 何が何だか分からねぇうちに衣装を整えられたと思ったら、見たところそこそこ高位だろう兵士がオレを迎えにきた。


 着飾ったの姿を見てハッとしたとこを見ると、鎧も着てるし宦官じゃねぇんだなと思い、オレはフッと笑った。


 やけに鮮明に映る鏡で目にしたこの飛燕は、なかなかに美しい娘だった。

 豊かな黒髪にキリリとした眉の整った顔。ツンと上向いた胸に、まあまあ細い腰と形のいい尻。しかしどうしたことだか、腕や脚は思ったよりも硬く、それから腹はうっすらと六つに割れている。


 こんな女は見たことがないと首を傾げていたら、衣装替えをしていた侍女たちがスッと目を逸らし、揃って藏狐チベットスナギツネのような顔をしたので一先ず何も聞かずにおいた。


 そうして着飾らされたオレの姿はまったく見事なもの。


 翡翠ひすい色の川蝉カワセミが描かれた上衣うわぎに深い紫である至極色しごくいろの帯。履いているヒラヒラした襦裙じゅくんも同じく至極色だが、透ける布地で作られているので、下の布地に描かれている波模様が上品に見え隠れしている。


 こう見えてオレは絵心があるからな! 女の衣装のことはよく分からんが、この装いはいい趣味だと上機嫌で廊下を歩いていた。そしてあの回廊に差し掛かったところで、面白い声が降ってきた。



「――まあ、ご覧になって? 野蛮な雌大猩猩メスゴリラが着飾っていますわ」

「珍しいこと! いつもは宮女のような格好で武器を振り回しておりますのに!」


 クスクスと、全く忍んでいない忍び笑いが聞こえ、オレはスッと視線を上げた。

 高く結い上げた髪に派手な簪をつけた年若い美人。黒の上衣うわぎにはびっしりと刺繍が施されていて、周囲も似た装いだ。

 うーん。贅沢で豪華な装いだが、少々品に欠けてるな。


「あちらのお口の悪い方はげん尾妃びひさまです。いつも飛燕さまをああして悪し様に罵るのです」

「上級四妃しひであるというのにほんっとうに下品な方!」


「プッ……下品か。にしても後宮っぽい洗礼だな」


 これはこれで面白い。どこだろうと、知らねぇ世界を覗けるのはワクワクするもんだ!


「『燕人』さまだなんて……狂言でなくって?」

「思い込みかもしれなくてよ? そもそも雌大猩猩メスゴリラが四妃三位の翼妃よくひということがおかしいのですわ」

「ええ、ええ! 武門の名門えい家と言いますけど……単に古い家というだけですのに!」


 よくもまあ、四方八方から悪口がぽんぽん飛んでくるもんだ。

 飛燕は日頃からこんな中にいたとは……後宮妃もなかなか大変なものだなぁとオレは苦笑するが、しかし。


 一歩進む毎にこれではさすがに煩わしい。


 オレは歩を止めて、威圧を籠めてギロリと周囲を睨んだ。

 すると女たちはビクリと肩を揺らし、揃って口を閉じ押し黙る。


 だが、その中でただ一人。

 濃い赤色の衣装をまとった女だけが、変わらぬ視線でオレを睨んでいた。

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