20 熱い想いを内に隠して
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工事の進捗状況を報告する日、ジェニファーはエリックとともに王子を訪問した。すべて順調に進み、エリックは大いに喜ぶが、ジェニファーは王子に心を奪われていることを痛感する。シャリファ王女に女だけの集まりに誘われ、ジェニファーは断り切れずに一緒に買い物に行く。
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砂漠への遠乗りのあと、ジェニファーは思いを断ち切るかのように仕事に励んだ。何度かユーセフはプラントの視察におとずれていたが、言葉をかわす機会はなかった。いつも現場の責任者たちと護衛がぴったりついていたからだ。王子を見かけるとどうしても胸が苦しくなってしまう。ジェニファーは、根をつめすぎていると気づいていたが、考えることをやめようとして仕事に打ち込んでいた。
そしてついに、初めての進捗状況報告の日となった。工事はおおむね順調に進み、設計図との食い違いも今のところ、ごくマイナーな点だけにとどまっている。そのほとんどはすでにエリックと通訳を通して現場に伝えられ、修整措置がとられていた。
ただし、向上の余地はいくつか見つかっている。これはサンフランシスコの本社での机上の仕事でなく、現場の状況を直接把握したからこそ気づけた改良点だ。細かい部分はまだこの先、本社のほかの技術者たちとの意見交換が必要だったが、少なくとも現時点でそれをユーセフ王子に伝えられる。ようやく本来の力が発揮できるのだ。
なぜかユーセフの前では、いつも保護されるべき存在という気分にさせられてしまう。だから、そうではなく、一人前の技術者として会える機会はうれしかった。
「ユーセフ殿下が執務室でお待ちだ。わたしが案内しよう」
宮殿をおとずれて、前回と同じ広間で待っていると、冷淡な表情のラシードがあらわれた。宰相はいつものもったいぶった声で告げると、先に立って歩きだした。
今日のユーセフ王子はたっぷりとした長い丈のシャツに同色のズボンをはき、白いカフィーヤを黒いイカールで頭に留めていた。スーツ姿も颯爽としてすてきだったが、白いカフィーヤ姿もジェニファーは気に入っていた。白いカフィーヤがちょうど肖像画の額縁のように王子の顔を包み、整った顔立ちがいっそう際立っている。
エリックには詳細は話さなかったが、乗馬のお供をしたこと、そしてパーティの夜にミーティングでのお手並み拝見と言われ、直接ディスカッションに参加できるようになったことを伝えてある。エリックは急な展開にかなり驚いていたが、それでもスムーズに仕事が進むのはいいことだと喜んでくれた。
進捗状況の報告は順調に進んだ。用意してきた資料を王子に手渡すと、まずエリックが工事全体の概況を口頭で伝えた。そのあとジェニファーとふたりで大きなテーブルに何枚もの図面を広げはじめたが、1枚の図面に記された要確認の文字を目にするなり、エリックはしまったという顔をした。
「すみません。きのうのうちに確認が取れなかったものがひとつ残っています。もうしわけありませんが、ちょっと現場に連絡させてください」
エリックは王子の許可を得ると、恐縮したそぶりで一礼し、そそくさと部屋のすみへ移動して、背をこちらに向けたまま電話をかけはじめた。
ジェニファーはテーブルをぐるりとまわりながら、ひとりで残りの図面を並べていった。ユーセフの視線を感じつつ、最後の図面を広げおえ、どうしても丸まってしまう1枚を平らにならしていると、勢いあまってユーセフの手に触れてしまった。
「失礼しました」
あわてて引きかけたジェニファーの手をとると、王子はやさしく彼女の指先を握った。ジェニファーははっと息をのんだ。目を上げると、熱いまなざしがジェニファーにそそがれている。
エリックの電話の声が低く流れてくるほかは、しんと静まり返った部屋のなかで、ジェニファーの胸の鼓動が耳にとどろきわたった。その脈動が指にも伝わり震えだすのではないかと不安になりはじめたとき、王子がゆっくりと目を伏せ、ジェニファーの手を持ち上げた。そして、手に唇を押しあてた。ジェニファーは自分の手の甲のやわらかな、熱く湿った感触のほかは、なにも感じられなくなった。今度はほんとうに、手から腕をつたって全身に小さな震えが走った。動くことができずにただ王子の顔を見つめていた。すると王子の視線がふたたび彼女の瞳をとらえた。
「あれからは無事だったようで何よりだ」
ジェニファーは、ひたすら王子の目を見つめ返していた。
エリックが電話を終える気配がして、王子がジェニファーの手をそっと放した。ジェニファーはその場を取りつくろうように、右手にはめたパワーストーンのブレスレットの位置をなおした。王子の目がボルダーオパールの石に留まった。
「あの、これはお守りなんです」ジェニファーはかすれた声で弁解した。「アクセサリーを控える習慣は理解しています。でも、これはアクセサリーではなく、お守りなので」
ジェニファーのあわてる姿にけげんな顔をしていた王子は、ようやく気づいたように眉を上げた。
「もちろん、お守りは多くの者が身に着けている」
エリックがきょとんとした表情でふたりを交互に見やりながら、部屋のすみから戻ってきた。
「お待たせしてすみませんでした。報告を続けてもよろしいですか」
エリックの言葉で部屋の空気がビジネスの流れに戻った。王子がうなずき、ジェニファーはひとつ大きく深呼吸をした。頭を切り換えなくては。わたしは大事な仕事をしに来たのだもの。
「それでは、次は代わって、わたしがご説明させていただきます」
きびきびとした口調ではじめながら、ジェニファーは報告内容以外のいっさいを頭から締め出した。
報告は無事に終わった。ユーセフ王子の真剣なまなざしが書類や図面からジェニファーの顔に移るたびにどぎまぎしたが、ジェニファーは技術者という仕事上の鎧に身を固めて、心のささやきに負けることはなかった。
王子の執務室にいるあいだじゅう、憎らしいことにジェニファーの心の声は王子の濃く黒いまつげや、すっきりと弓形を描く太い眉、形のいい鼻、彫刻のようにくっきりと浮き上がった唇に目を向けろとうるさいくらいせっついていたのだ。
王子の執務室を辞したあと、ジェニファーはエリックと顔を見合わせ、いっしょに大きく息をついた。それから片手を上げて、互いのてのひらをぽんと打ち合わせる。
「おめでとう、すばらしい報告だったよ」
エリックが日焼けした顔を大きくほころばせて言った。
「あなたのサポートがあったからよ、エリック」
「さっそく、本社に朗報を伝えなくちゃな。小さな改良点だが、これで確実に作業効率がアップする」
ふたりは弾んだ足取りで宮殿を出ると駐車場に向かった。エリックの車に乗り込もうとしたとき、白いトーブを着た使用人にうしろから呼び止められた。
「失礼いたします。もうしわけありませんが、女のかただけ、あちらの車にお乗りください」
あまりうまくない英語だ。
ジェニファーはびっくりしてエリックを見た。またなにか彼がジェニファーに伝え忘れた習慣でもあるのかと思ったのだが、エリックも同じように驚いた顔でジェニファーを見返している。
「どういうことですか? これからプラントの建設現場に戻るところなんです。たった今ユーセフ殿下にお会いしましたけれど、なにもおっしゃっていませんでしたよ」
「いえ、あちらからのご指示です」
見ると、向こうのほうの黒塗りの車の窓からシャリファらしき民族衣装の女性が手を振っている。
「あら、たぶんシャリファ王女よ」エリックに言う。「おおやけの場だから、男性がいたら話しかけられないのかしら」
エリックを置いて車に向かうと、やはりシャリファ王女だった。
「良かった、ちょうど会えて。あのとき携帯の番号を聞かなかったから連絡できなくて」
「まあ、なにかご用でしたか?」
「明日は金曜でしょう? もし夜に予定がなかったら、女たちの集まりにご一緒しないかと思って」
「それは……」
仕事のことで頭がいっぱいのジェニファーはためらった。
「ねえ、お願い! このあいだは兄があなたをひとりじめしていて、大学のこととか、何も聞けなかったんですもの」妹らしい甘え上手な声でシャリファはたのんだ。「それに、女たちの集まりってかなり退屈なのよ。ほとんどが結婚とファッションと美容の話ばかり。とても話し相手がいないと耐えられないのよ」
「参加しないというわけには?」
ジェニファーはやさしくたずねた。
「あら、もちろん無理よ。王女としての義務なの。ねえお願い、わたしを助けると思ってご一緒してもらえないかしら」
そうまで言われては、とてもことわることなどできない。
「わかりました。ではご一緒します」
「ありがとう! じゃあ、さっそく行きましょう」
シャリファは手をとり、車の中にジェニファーを引き込もうとした。
「え? 集まりは明日の夜では?」
「あら、もちろん準備は今日のうちにしなくちゃ。こちら風の服は持っていないでしょう?」
強引な兄には強引な妹ということのようだ。どうやら王女はこのままジェニファーと過ごすつもりらしい。
「ちょっと待ってくださいね。同僚に言ってこないと」
どうにかことわる口実を見つけようと、エリックのところまで戻って事情を説明した。
「そうか、じゃあ今日はこれで解散しよう」
思いがけないほどあっさりとエリックは了解した。
「ちょ、ちょっと待ってよ、プラントに戻って今日のミーティングをまとめないと」
ジェニファーはあわてた。
「ああ、もちろん。だがきみのレポートはほとんど完璧だから、あとは補足して本社に送るだけだしな。おれだけでも大丈夫だが、もう一度目を通したいなら、明朝確認しよう」
たしかにこれから1時間かけてオフィスに戻ったとしても、作業できるのは1時間ほどだ。それなら明日早めに行ってしっかり確認してからのほうが間違いはないだろう。
「わかったわ、王女におつきあいすることにするわ」
ジェニファーはあきらめたように言った。
「ああ、王族との交流は願ってもできることじゃないからね。よろしく頼んだよ、プリンセス・ジェニファー」
エリックはいたずらっぽく笑うとウインクした。
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