16 突然のキス
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夜風に当たろうとバルコニーに出たジェニファーは、ユーセフ王子とばったり出会う。王子にいきなりキスされたジェニファーは、思わず頬を平手打ちする。
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バルコニーに出ると、昼間の暑さが信じられないほど夜気は涼しく、澄みわたった夜空に星がまたたいていた。思いきり頭を倒して上を見上げると、黒いベルベットにダイヤの粒をちりばめたような満天の星空に吸い込まれそうだった。
なんて美しい夜だろう。
心地よい夜風に身をまかせながらうっとりと星を見つめていると、背後に人の気配がして、おだやかな声が聞こえた。
「気持ちのいい晩だ」
ユーセフ王子の声だった。驚いて振り向くと、先ほどとは打って変わって、王子がおだやかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。ジェニファーはどぎまぎした。
「そして美しい夜でもある」
王子は口もとに笑みを浮かべたまま近づいてきて、ジェニファーの隣に少しだけ距離を置いて立った。先ほどは気づかなかったが、さわやかな柑橘系にスパイスの混じった香りがほのかに漂ってくる。あの時の香りだわ。ジェニファーの鼓動が早くなった。
座っているときにはよくわからなかったが、長身の王子はスーツをみごとに着こなしていた。引き締まった体が、仕立てのいいスーツにぴったりおさまっている。先ほどより親しみのある態度に勇気づけられ、ジェニファーは言葉を継いだ。
「こんな美しい星空を毎日のように眺められるなんて、シャスヒの人たちがうらやましいわ」
「きみの国にも、美しい夜空はあるだろう」
王子の黒い瞳がジェニファーに向けられる。ジェニファーはその視線に誘われるように話しはじめた。
「ええ。わたしが育った場所は山や森の多い自然に恵まれた土地だから、街をはなれればきれいな星空も見られるわ。でも今は、だいぶ変わってしまっているけれど」
「いまは育った場所をはなれているのかな?」
「大学で学ぶために家を出てからは、年に1度戻るくらいかしら。環境問題を技術で解決することに興味を持って、カリフォルニアの大学で環境工学を学んだから」ジェニファーは熱心に学んだ学生時代を思い出していた。「気がついたら、ふつうの女性とは違う道を歩いていたみたいです」
「さきほどはふつうの女性に見えていたが」
「ああ、もちろんそうでしょうね」ジェニファーは苦笑した。「環境工学の世界は男の人ばかりだから、女のわたしが本気で学んでいるなんて思わない人が多かったわ」
「そうだったのか」
「ええ。でももちろん、女性に対して無礼な男にはどうすればいいか、ちゃんと心得ているから大丈夫」そう言って、小さく肩をすくめた。
そんなはずはあるまい。ユーセフは思った。さきほどのことと言い、無理をしすぎて倒れたことと言い、どうも彼女は自分を過信しているようだ。どうやら、まるで自分のことをわかっていないらしい。それがユーセフにはたまらなく腹立たしかった。倒れたり、ひどい目にあってからでは遅すぎるだろうに。
ユーセフの瞳がきらりと光った。急に黙ってしまったユーセフの様子に、ジェニファーはかわいらしく首をかしげて見入っている。
「では、どうするのか見せてもらおう」
ユーセフは一歩踏み込むとジェニファーを腕の中に引き寄せた。
あまりにも突然のことに、ジェニファーはかたまってしまった。王子のそばにいてどんどん引きつけられ、もっと近くにいたいと思っていた気持ちを見透かされたようで、頭にかっと血がのぼってしまった。
「あ、あの……」ジェニファーはあらがったが、ユーセフのたくましい腕はびくともしない。
そしてなぜか、ユーセフの瞳には怒りの炎が見えた。一瞬ののち、ジェニファーのあごに手がそえられ、あっという間に唇をうばわれていた。
「ん、んむむ……」
厚い胸板を押し返そうとむなしく抵抗したものの、王子に抱きしめられ、2人のからだがこれ以上ないくらいぴったり合わさった。そして衝撃的なくらいはなれがたいキスの魔力に、ジェニファーの力は抜けていった。
ああ、どうしたんだろう、キスってこんなにすごいものだった?……。
気を失いそうな気分になっていたところに、ふいに王子が身をはなした。黒い瞳がきらきらと輝いている。
「なにもできない、というのが本当のところのようだな」
呆然としていたジェニファーは王子の言葉でわれに返った。そして何が起きたかを悟ると、頭にかっと血がのぼった。そして考える間もなく手が出ていた。
パチン!
平手がユーセフの頬をとらえてはじめて、ジェニファーは自分のしでかしたことの重大さに気づいて真っ青になった。
「あ、あ、あの、ごめんなさい。いえ、そうではないわ。あなたが悪いのよ!」
そのとき、王子が高らかに笑った。心の底から楽しそうに。
「味わい深い唇だった。いまの無礼は平手打ちで帳消しにしてもらおう」
ジェニファーはほっとした。
「だが、なんでも自分で解決できるとは思わないことだな」
男性特有の見下すような物言いでユーセフは警告した。女は男の保護下にあるべきだという、なじみのある言い方だ。
そして、ジェニファーはその言い方がもっとも嫌いだった。
「いまは油断していただけです!」
憤慨して両足をしっかりひらき、ユーセフを見あげる。挑戦的な態度にユーセフも受けて立った。彼女はどうしてもわからないらしい。その愛らしくか細いからだで何でもできるつもりだというのか。
「では今回のプロジェクトで、それを見せてもらおう。報告の場で直接話を聞かないと言ったが撤回する。どこまでのことができるのか、お手並み拝見といこう」
ジェニファーの目にも怒りの炎があがった。
「もちろん、しっかりやりとげて見せます! 仕事については妥協しませんから、直接話に加わらせたことを、あとで後悔しないでくださいね」
王子が今度は軽く声をあげて笑った。
「強情な女を手なずけるのは慣れている」
ジェニファーは一瞬、どきりとした。その表情をとらえて王子は片方の眉を上げ、それからいたずらっぽく笑った。
「わたしの愛馬ジャミラは、とても負けん気が強い。彼女は砂漠に遠乗りに出ると、隙あらばわたしの指示を無視しようとする」
「言うことをきかせることができないのかしら」
ジェニファーは挑戦するように、唇を引き結んで王子を見上げた。王子は心持ち頭をかがめると、ぐっと声をひそめ、ささやくように言った。
「いいや、ジャミラはわたしの言うことをきくしかないんだ。首筋をなでながら、耳もとでこうささやくからな。『ジャミラ、おまえはすばらしい。この国いちばんの美女だ。わたしはおまえに首ったけだ』とね」
突然、変わった王子の甘くやさしい声にジェニファーの膝から力が抜けそうになった。温かく、包み込まれるような声だった。
「そうだ、乗馬は?」ユーセフが尋ねた。
ジェニファーはほんのり頬を赤くしながら答えた。「小さいころはしょっちゅう乗っていました。今は休暇のときに、ごくたまに」
「それなら一度、砂漠で馬に乗ってみるといい。環境を肌で知ることも大切だと思うが」
肌で知る──比喩だとわかっていても、ジェニファーはどきまぎしてしまった。どうしてもユーセフに心乱されてしまう。
「今、妹が帰ってきているのでちょうどいい。この前から同行を頼まれている。いっしょにどうだろうか」
やや挑戦的なユーセフからの思いがけない誘いに、ジェニファーは目を大きく見開いた。
「でも、砂漠で走ったことはないわ……」
先ほどまでのいきおいと一緒に、いきどおりまで消えてしまった。そして砂漠での乗馬には、大きく心を動かされた。でも、いきなりキスするような人を、たとえ王子であっても信用してもいいものだろうか。
「心配はいらない。それに妹に西欧の文化やしきたりについて、いろいろ教えてもらえるとありがたい」ジェニファーの迷いを読み取ったように、ユーセフがたたみかけた。「さっそくだが、次の日曜の午後は予定があるだろうか」
「いいえ、とくには」
本気で誘っているの?
「それなら、2時過ぎに迎えの車をまわそう」
あいかわらず強引にユーセフは決めてしまった。
ジェニファーはこの急な展開に驚いて、小さく口を開けたまま、じっと王子を見つめていた。
王子がその目を熱いまなざしで見つめ返した。ジェニファーは心のなかをのぞき込まれているような気がした。心臓が大きく脈打ちはじめる。
「いいね?」
視線をからみ合わせたまま、王子がささやくように言った。ジェニファーは黙ってうなずいた。ふたたび、そのまま王子が近づいてくるような、そんな気がして視線をはずせなかった。もう一度王子の腕の中に引き寄せられてキスされてしまいそう……。気づくとユーセフとの距離はさらに近くなっていた。
「あら、こちらにいらしたわ」
ふいに甲高い女性の声と、ヒールがバルコニーの床をこつこつと打つ音がして、ふたりは同時にはっとわれに返った。
「殿下、こんなところにいらっしゃったんですか。お探ししたんですよ」
また別の声が響いて、王子の肩越しに、女性客が数人広間からバルコニーに出てくるのが見えた。後ろのほうにはイソベルの顔も見え、刺すような視線を感じた。すっかり王子の魅力にとらわれていたことに気づき、自分には後ろめたいことなど何もないはずなのに、そちらを見られない。
ユーセフ王子が、なごりを惜しむかのようにゆっくりと視線をはずし、ジェニファーにうなずいた。
「もう戻らなければ。楽しいひとときだった」
ジェニファーは言葉を失ったまま、まだどきどきしている胸に手をあてがい、王子のうしろ姿を見送った。
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