10 疲れと暑さとストレスと

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仕事のやりとりはすべて男性であるエリック経由というやり方は、ジェニファーにとってストレスの元だった。砂漠の暑さと慣れない異国の風習に、ジェニファーの疲労が募る。


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「いいえ、エリック、そうじゃないの。貯蔵タンクの容量から逆算すると、この溶接部分の強度をもっと上げておきたいということなのよ」

 ここ3日、ジェニファーはこれまでの作業を詳細に図面とつきあわせるために、広大な施設内をかけまわっていた。タフなエリックでさえ根をあげそうな勢いだ。

 いまジェニファーとエリックは事務棟のオフィスに戻り、テーブルの上に図面を広げている。パソコンの画面には、さっき撮影したデジタル写真が表示されている。その写真を示しながら、ジェニファーはエリックに説明していた。

「図面ではどうなっているんだ?」

「図面には、ここに数字で指定してあるわ。ところが実際にはこの隣の数字が使用されてしまっている」

「わかったよ。じゃあ、それも含めて、きみが指摘した点をあしたの朝、いちばんで担当部門の現場監督に伝えよう」

「ねえ、あなたにはほかにも作業員の補充だとかローテーションの調整だとか、いろいろ仕事がたまっているのはわかってるの。通訳のサジクを貸してさえもらえれば、わたしから伝えられるわ。そのほうがお互いに仕事がはかどるじゃない」もどかしさのあまり、ジェニファーの声が大きくなる。

 同席していた、現地技術者であり技術的な面の通訳のためにいるサジクの顔がくもった。その顔にはっきりと、女と仕事をするだけでも苦痛なのに、まして指示されるなどとんでもないと書いてある。

 エリックはその表情を見てとると、厳しい顔をジェニファーに向けた。

「だめだ、ジェニファー。このあいだ納得してくれたじゃないか。きみは優秀だし、このやりかたがもどかしいのもよくわかる。だけど、現地の作業員は女性のきみから直接指図されたら、あしたからもう来なくなるんだ」横で作業服姿の大柄なサジクも、もっともらしくうなずいている。「もうしわけないけど、これだけは譲れない。現場での検分と進行管理はきみの力がなくては進められないが、指示する部分はどうかおれにまかせてくれ」

 ジェニファーは目をつぶると、大きくため息をついた。

「ごめんなさい、エリック。頭ではわかってるのに、ついいらいらしてしまって。サジクも、ごめんなさい、あなたの国の習慣を尊重したくないわけじゃないのよ」

「もちろん、わかっています」サジクが、言葉では下手に出ながらも、尊大にうなずいた。「だが、女には女の領分というものがありますから」

 思わず、そんなことと仕事とは関係ないでしょう、と言い返しそうになったものの、ジェニファーは言葉を飲み込んだ。それでもサジクはましなほうだったからだ。ジェニファーを仕事仲間と認めてくれてはいる。

「暑さのせいもあるよ。まだ体が慣れていないからね。今日はもうおしまいにして、ゆっくり休んだほうがいい。3カ月もあるんだから、はじめに飛ばしすぎると、どっと疲れが出る」

「そうね。あなたさえよければそうさせてもらうわ」ジェニファーは大きく息を吐くと、ぐったり体を椅子にあずけた。

 現場の作業員たちは好奇の目でジェニファーを見たり、露骨に女として目を向けてきたりすることもあるが、基本的には無視していた。まるでこの国に来て以来、自分という存在が無くなってしまったようだ。女であること以外の価値が消えてしまったようで、もどかしさと歯がゆさにジェニファーは押しつぶされそうになっていた。やはりイスラム圏で女が仕事をするのは、並大抵のことではないようだ。

 わずか3日で、途方もなく大きな壁に素手で立ち向かうようなむなしさを、ジェニファーはたっぷり味わっていた。

 その日、ジェニファーは砂漠の広大な赤い夕日にあとをつけられながら家路についた。エリックの言うとおりだった。たしかに自分は成果をあげようと急ぎすぎているのかもしれない。

 ふと、あの黒曜石のように黒く、吸い込まれそうに美しい目をした王子を思い出した。私、少しむきになっているのかもしれない。あんなに冷たいまなざしと侮辱的な言葉を投げかけた王子と宰相に、そしてわからずやのこの国の男たち全員に。自分がプラント建設に必要な人間だと証明したくて、少し意地になっているのかも。全身に倦怠感をおぼえながら、大量の資料とともにジェニファーはホテルへと戻った。


 翌日は土曜日で現場は休みだった。ジェニファーは久しぶりにホテルのラウンジでゆっくり朝食をとっていた。すると、エリックがあたふたとやって来た。

「おはよう、ジェニファー。ちょうど良かった」

「おはよう、何かあった?」

 週末には街を案内しようとエリックが申し出ていたが、さすがに時差ぼけと慣れない暑さで疲れていたこともあり、この週末はゆっくりしたいと言ってあったのだ。なのに朝からあらわれたエリックは、ジェニファーの前の席にどさりと腰をおろし、コーヒーを注文した。

「昨日家に帰ったら、私用のアドレスにイギリス大使のジェフから連絡が入っていたんだ。来週、非公式のパーティを開きたいから出席しないかって言うんだ」いきなりエリックが話し出した。

「パーティですって?」わざわざ来たのは、たかがパーティのことなの? ジェニファーは、けげんな顔をした。

「ああ。この国に英米圏の人間はそう多くはないからね。たまにはのんびり交流しようってことだ。それに」エリックは身を寄せて来た。「どうやらユーセフ王子の留学時代の友人も来るらしい」

「友人ですって?」

「つまり王子も来る可能性が高いってことだ」

「それって、どういうこと?」

 わかってないな、という顔でエリックは座り直した。

「以前、アメリカ人の女性が騒動を起こしたことを聞いただろう?」

「ええ」

「彼らはアメリカ人なら同じことをすると思い込んでいる。王子も留学先がイギリスだったこともあって、アメリカ人にはいい印象を抱いていないふしがある」

「たしかに、このあいだはそんな感じがしたわ」

「だろう? それに、おれは宰相のラシードとはどうも相性が良くないらしい。時々、王子との面会をのばされたり、はずそうとされたりするんだ」エリックは話をつづけた。「だから、これは王子と近づきになるいいチャンスだと思うんだ。もちろん王子はあのとおり、近づきがたいタイプだ。だが、仕事に対する熱心さは大したものだと思っている。直接王子とパイプをつなぐことができたら、仕事のほうもぐっとやりやすくなると思うんだよ」

 ひと息に言うと、エリックは運ばれて来た水をぐいっと飲んだ。

「それに、きみのほうだって勘ちがいされたままだったらくやしいだろう?」

「くやしくはないけど、そういう人間だって思われるのは不本意だわ」

 エリックはうんうん、とうなずいた。

「で、大使から週末のうちに準備したいから、出席する人間の名前を連絡してくれと言って来たんだ」

「名前を? なぜなの、非公式なパーティなのに」

 すると、エリックが得意気に言った。「それこそがメッセージさ。大物の王室関係者が来るっていう。非公式とは言っても、王室関係者が来る以上、身元のはっきりしない人間を入れるわけにはいかない。だからこそ、ただのパーティではあっても出席者をはっきりさせておく必要があるのさ」

「そういうことなのね」

「ああ、だから王子が来ることはほぼ間違いない。で、非公式である以上、ラシード宰相が来る確率は低い。彼は、表向きはさほど外交活動はしていないからね」

 どうやら私邸でのロビー活動は熱心らしいが、という言葉は飲み込んだ。短期滞在のジェニファーは、知らなくてもいい情報だ。

「わかったわ。正直、まだ工事の全体像がつかめてないから、パーティはお断りしようかと思ったけど、そういうことなら出席させてもらうわ」それに、もう一度王子に会える機会だし……。

「わざわざ来ることもないと思ったけれど、直接会って説明したほうが早いと思ったんだ。来週金曜日の夜だ。この週末にお肌を磨きたいんなら、通訳に言って女性専用のサウナってやつを手配するぜ」

「それはしばらく遠慮しておくわ」ジェニファーが笑いながら言った。「まだ日焼けしてないくらいだもの」

 エリックはにやりと笑った。「まあ、俺としちゃ美味しいビールがたっぷり飲める機会は逃したくないからね」そう言ってぬるくなったコーヒーをぐいとあおると、腰を上げた。

「もう行くの?」

「ああ、週末くらいゆっくり家族に連絡したいからね。それに、時差を気にせず大リーグの試合を見られるのは週末くらいだからな」

 エリックは家族を置いて単身赴任してきている。

「わかったわ。それじゃ、月曜に」

「ああ」

 そう言うと、エリックはさっさとラウンジを後にしていった。

 しばらくぼんやりとコーヒーを飲みながら、ジェニファーは考えていた。プライベートではないけれど王子に会うと思うと、胸がときめいた。

 何を考えているの? 自分でもおかしいと思ったが、あまりにも近寄りがたく魅力的なユーセフのことは、やはり気になって仕方がない。

 ふいに、ロビーにただよう異国の香りが強まったように感じた。

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