05 黒曜石の瞳

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翌日ジェニファーは王宮に行き、建造物の美しさに心を奪われる。驚いたことに、謁見に現れた王子は砂漠で鷹狩をしていた男性だった。そして王子にも女性とはビジネスしないと釘を刺される。


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 シャスヒ王国の宮殿は首都ディルムンのほぼ中央にある小高い丘の上に位置している。

 翌朝、エリックの車で宮殿に向かったジェニファーは、街の様子に目をみはった。昨夜は、ライトに浮かびあがる白亜の宮殿やモスク、ダウンタウンのメインストリートに立ち並ぶ異国情緒あふれる店にばかり気を取られていた。

 ところが今朝、ショッピング街から一本通りを抜け、ビジネス地区に入ったとたん、近代的なビルに囲まれていた。観光だけがおもな産業だったこの国の砂漠に油田が見つかったのは、わずか20数年前。その後、石油産業を中心に急成長を遂げたのだ。

 昼前の街には強烈な日射しが照りつけていた。気温は40度を超えているにちがいない。アスファルトの照り返しがまぶしい。やがて車が右折すると、前方の高台に宮殿が見えてきた。砂色をした四角い城館風の建物で、窓やバルコニーが白く縁取られ、まるでレースの縁飾りをつけたようだ。

 きらびやかなイスラム美術とは異質に思えたがそれは遠目だけで、近づくにつれ、精巧な細工がベールを脱ぐように明らかになった。

 車を降りて、白いターバンをまとった係の者になかに通されると、そこはもうアラベスクの宝庫だった。

「なんて素晴らしいのかしら」

ジェニファーは壁から天井まで見あげて感嘆した。

 豪華な文様の写真集をひらくように、手の込んだ彫刻のほどこされたアーチをくぐり回廊を抜けるたび、驚きの声をあげずにいられない。

 天井も壁もぎっしりと模様で埋まっている。立ち止まって見て行きたい気持ちをおさえ、円柱の森に圧倒されながら、ジェニファーはエリックとともに広間に入った。

 大理石の床に彩色タイルのはめ込まれた壁が映っている。天井を見あげてまたしてもため息をついていると、部屋の向こうから白いカフィーヤに黒のイカール(留め輪)、白いトーブ(ワンピース風の長衣)という伝統的な衣装に身を包んだいかめしい顔つきの中年男性がつかつかと歩いてきて、ジェニファーたちの数歩前で立ちどまった。ラシード・シャマーン宰相にちがいない。

「アッサラーム・アライクム」

 少ししゃがれた声で挨拶されて、教わったとおり、ジェニファーもエリックの声に合わせて「ワ・アライクムッサラーム」と答えた。

 ラシードは右手を軽く胸に当ててから、エリックに差し出した。エリックがその手を軽く握る。

「エリック、代わりの技術者を連れて来てくれたのだな」

 ラシードはジェニファーに目を向けることさえせず、話しかけた。

「そうです、ラシード」エリックが顔を向けて、ジェニファーを示した。「こちらがそのジェニファー・スウェンソンです。このたびの変更をこころよく了承してくださったこと、心から感謝しています」

 ラシードは無表情に受け流した。

「ブラウワー社長からくわしい事情は聞いている。いたしかたないとはいえ、わたしたちが面食らっていることは事実だ。なにしろ、このシャスヒでは女性がこういったビジネスにかかわるのは前代未聞のことだからな」

「はい、ご迷惑おかけしてもうしわけありません」

「初めまして。どうぞよろしくお願いいたします」

 ジェニファーは、まるで自分がいないかのように交わされている会話に我慢できなくなり、思わず口をはさんだ。横でエリックがはっとするのがわかった。

 ラシードは初めてまっすぐにジェニファーのほうを向き、頭のてっぺんから足もとまで、じろりと一瞥した。この謁見のために、ジェニファーは今朝、クリーム色のパンツスーツに淡い水色のブラウスを選んでいた。波打つ金髪はまとめて白い大きな帽子のなかに押し込み、スカーフで首筋をさりげなく覆ってある。アクセサリーは着けず、せめて青い目が引き立つようにと選んだスカーフの明るい色づかいに、少しだけおしゃれ心をのぞかせた。まずかっただろうか……。

 ラシードがふたたび目をあげ、軽くこちらに会釈した。どうやら検閲をパスしたらしい。

「よろしく頼む」

 ラシードはふたたび視線をエリックに戻し、壁際の椅子を指差した。

「どうぞ座って、少しだけお待ちを。ユーセフ殿下に到着を知らせてくる」


 待つことじたいは、いやではなかった。自由に歩きまわっていいのなら、ジェニファーはこのまま何時間ほうっておかれても喜んで宮殿を眺めていられるだろう。けれどもユーセフ皇太子との謁見を目の前にして、10分、20分と待たされるうちに不安がつのってきた。

 ジェニファーは広間を見まわし、過去何百年ものあいだにこの広間を行きかった人々に思いをはせ、気をまぎらわそうとした。広間の右手奥は中庭につながっているようだ。庭の中央に噴水があり、動物をかたどった石の彫刻がまわりを囲んでいる。もっと近くから見てみたくなり、立ち上がりかけたとき、奥の階段をおりてくる背の高い人影が目にはいった。

 王子をひと目見たジェニファーは息をのんだ。

 光沢のあるダークグレイのトーブをまとい、生成りのカフィーヤを折り曲げて軽く頭に巻いている王子の、ちょうど額のあたりに茶色い織り模様が浮かび出ている。なんと美しい男性なのだろう。ジェニファーは目がはなせなかった。男の人を美しいと思ったのは初めてだ。つややかな黒髪、大きな黒い瞳、きりりとした眉、すっきり通った鼻筋、そして滑らかな浅黒い肌。形のいいセクシーな唇。ジェニファーは思わず、ぽかんと口をあけて見つめそうになった。

 王子はにっこりとほほ笑んで――もちろんエリックにだが――イスラムの挨拶をした。その声は低く豊かで、あたりの空気が震えたように思えた。エリックが挨拶の言葉を返しているのが、どこか遠くから聞こえる。そして、王子がジェニファーを見た。黒曜石のように輝く彼の目と目が合った瞬間、ジェニファーの心臓が大きく飛びはねた。同時に、昨晩覚えたはずの挨拶の言葉が頭から抜けおちた。思い出そうと必死で記憶を探っても、突然、頭がからっぽになり、まったく使い物にならならない。ジェニファーは右手を胸に当てると、せめて心からの祈りをこめて見つめ返そうとした。そうすれば彼の平安を願っていることが伝わるにちがいない。ユーセフ王子の目を見つめて小さくうなずいたとき、奇跡のように「ワ・アライクムッサラーム」という言葉が自分の唇からこぼれ落ちた。

 王子の口の端がかすかに持ちあがったように思えた。

「あなたが新しい技術者か。ユーセフ・ヒジャドだ」

 かすかにイギリスなまりの感じられるなめらかな英語だった。ジェニファーは皇太子がオックスフォードの大学院で経営学を学んでいたことを思い出した。今は32歳。帰国してからの8年間、国王の右腕として油田の管理と開発を一手に引き受け、自国の発展に欠かすことのできない実力者と言われている。世界に名だたる富豪一族の未来の長。そして独身だ。

 ジェニファーはすっと姿勢を正して返事をした。

「はい。ジェニファー・スウェンソンともうします。エナジー・スター社の技術者のひとりとして、この重要なプロジェクトに関わらせていただけることを誇りに思っています。砂漠のプラント建設にかかわることは長年の夢でした」

 ジェニファーはからからになった喉にごくりとつばをのみ込むと、まるで告白するかのような熱心さで答えた。それから、急に出過ぎた挨拶をしたように思えて、急いで目を伏せた。

「ありがとう、ジェニファー」

 皇太子はひと呼吸おいた。「このプラント建設はわが国の将来を大きく左右する大事な国家事業だ。つつがなく工事が進むよう、全面的な協力をお願いしたい」王子の瞳は無感情にジェニファーを見つめている。いや、むしろ冷たいくらいだ。その口もとがふたたび引き締まり、真剣な目つきになった。

「皇太子殿下、ジェニファーは3カ月ほどこちらにとどまり、エンジニアリング面の調整役として工程の確認と、必要であれば変更の可能性をご提案します」

 打ち合わせどおり、エリックがジェニファーに代わって今回の出張に関する予定を説明しはじめた。

「まず現場を見てまわり、計画書との照合がすみましたら、改めて殿下に、直接ご報告します」

「エリック、それにはおよばない。報告はこれまでどおり、きみからしてもらおう」

 ユーセフがきっぱりとエリックに言った。ジェニファーは驚いて王子を見たが、彼はエリックの顔に目を据えたまま、先を続けた。

「知ってのとおり、この国では男が進めているプロジェクトに女性が同席することはいっさいない。今回は特例として認めざるをえないが、それはきみたちの都合だ」

 予想してはいたものの、王子の口から直接この国での女性の立場を聞いて、ジェニファーはたじろいだ。思っていた以上に厳しいことになりそうだ。

「建設工事にかかわる作業は、くれぐれもこの国の文化を重視するかたちで進めてほしい。定期的な報告は今回も直接してもらうが、エリック、あくまでもきみの説明を彼女が補佐するという形にしてくれ」

 エリックがとまどいを隠しきれない様子でうなずいた。

 王子はそこでようやくジェニファーに向きなおった。彼女の目をとらえたとき、その眼差しが一瞬揺らいだように見えたが、すぐにまた鋭さを取りもどした。初めて会ったのに、そうは思えない……。その瞳から目がはなせないまま、ジェニファーはそう感じていた。

「短期間とはいえこの仕事でシャスヒ国に駐在するのは、エナジー・スター社の社員としてプラント建設を完成させるためだ。アメリカ流の個人主義とやらを実践して、まわりを困らせたり問題を起こしたりすることのないよう、くれぐれも行動には気をつけるように」

 問題を起こすですって? 強引な、決めつけるような言い方にジェニファーは呆然とした。気を取りなおして自分の立場を説明しようとしたときには、すでに皇太子はエリックに会釈し、「アッサラーム・アライクム」の言葉を残して、去って行くところだった。


「このプロジェクトは国家の一大事業だから、殿下もたいへん慎重になっておられるのだ」

 ジェニファーが何も言えず見送っていると、横からシャマーン宰相が、とりなすかのようにうっすらと笑みを浮かべてジェニファーに話しかけた。

「あなたのような美人が目立ったことをなさると、作業員たちの士気にかかわるのでね」

 舐めるようなぶしつけな視線を向けながら、宰相はジェニファーに反論の余地を与えず、すぐに言葉を続けた。

「イスラムの国々の古くからの教えに、主人と客人に関するものがある。主人とは師、客人とは道を学ぶ者を指し、修行におけるグループの必要性を説いているが、たんに額面どおりに受けとったとしてもじゅうぶんにありがたい教訓だ」

 宰相はそう言って、ジェニファーの目を見つめた。

「お客のなかには、客の立場からどういう貢献をおこない、なにを得るかを知らずにいる者もいる。だから、それを導く案内役が必要だという話だ。ユーセフ殿下は、たった今、そのお役目を買って出られた。まあ、とにかくこのプロジェクトはわれわれだけでも、あなたがただけでも完成しない。お互いに相手を尊重しながら進めていくことにしよう」

 宰相は満足そうにそう締めくくると、別れの言葉を述べ、ジェニファーとエリックを広間に残して出ていった。

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