第二章

第二章

その日の二時に客はやってきた。名前を斎藤雅江さんというその彼女は、一見してみると、普通に暮らしている女性という感じなのだが、腕にはリストカットを何回も繰り返したと思われる傷跡が多数見られ、何処かで苦労した女性なんだろうな、と思われた。

とりあえず、彼女を仕事場に招き入れて、蘭は、日本伝統刺青の話をはじめた。現在の日本伝統刺青というと、どうしても暴力団のイメージがついて回るが、本当はそういうものではなく、江戸時代までは、職人や火消、大工などの職業の人たちが、制服のようにいれていたこと、外国の君主などは、日本を訪問したときに、刺青をしたなど、決して悪い物ではないということを、蘭は、しっかり話すようにしている。まず刺青を入れる本人にこの事情を理解してもらわないといけないということを、彫師として心がけている。次に話すのは、刺青だけではなく、着物等にも使われている、日本の伝統文様

の事を話す。日本人が、「変わらない事」を願って、作った吉祥文様は、いつの時代も変わらず受け継がれていくだろうと蘭は思っている。

「ありがとうございます。じゃあ、私にも、そういう縁起のいい柄を彫ってください。」

と、すべての話を聞いて、斎藤雅江さんは、蘭に改めて御願いした。

「了解いたしました。縁起のいい柄と言ってもいろいろありますけど、何か希望される柄はありますか?」

蘭が聞くと、

「ええ、梅の花を腕に彫ってください。」

と、言って彼女は左腕を差し出した。これはひどいなあと蘭はおもった。需要が多い、リストカットや、虐待のあとを消すための刺青であるが、あまりにも傷跡が大きいと、針が通りにくいので、彫るのはなかなか難しくなる。蘭は、それをお客さんにいうのはあえてしないことにしているが、でも、時々、これは彫るのは難しいなと思われる客もいる。

「分かりました。じゃあ先ず筋彫りからはじめましょうか。どの柄でも、筋彫りをして、色を入れていくというのが、日本伝統刺青の基本です。」

と、蘭はにこやかにわらって、道具箱の中から、筋彫りようの針を取り出した。

「針が少ないので、痛みは大きいですから、もし、可能であれば、おしゃべりして気を紛らわしてくれればいいですよ。」

と、蘭は、にこやかに笑って、彼女の傷だらけの腕をアルコールで消毒し、ぶすぶすと針を刺し始める

。確かに手彫りというのは痛いので、彼女は辛そうな顔をする。

「お客さんは、何処か、病院にでも通っていましたか?いや、ここまですごいとね、正直、何処か精神関係で病院に言ったのではないでしょうか?ご家族も見ていられなかったのでは?」

蘭は、針を刺しながら、できるだけ優しく、彼女に話しかけた。

「ええ。確かに病院には行きましたけど、お医者さんも、何回か診察はしてくれたんですけど、私が

いつまでたっても回復しないので、さじを投げてしまったと思います。はじめのころは、自律神経の乱れだとかおっしゃってくれたんですけどね。でも、幾ら薬とか使っても、体調が良くならないので、私も病院に行かなくなってしまったし。」

という彼女に、蘭はこの事実に嘘はないということを確信した。彫っている間、お客さんたちはお喋りをすることが多いが、手彫りの激痛が伴われている時なので、嘘を作ろうという余裕はできなくなるからだ。いや、黙っていられるお客さんなんているだろうかというくらいだ。

「そうですか。確かに神経がどうのこうのと言われても、何もわからないですよね。それでは、つらい状態が続くだけでしょう。それは確かに、お辛かったでしょうね。」

蘭は、彼女の話しにそう言って同調してあげた。

「それで私、もう病院というのはあきらめて、ヒーリングとか、そういうところに通うことにしました。そういうところであれば、もうちょっと、親身になってくれるかなと思ったんですよ。」

「ああ、そうなんですか。確かに病院よりもずっといいっていうひともいますよね。どちらのヒーリングサロンにいかれたんですか?」

蘭は一般的に言われている事を言うと、

「熱海市の、クマの家というところです。ヒーラーの先生が、テディベアを集めるのが好きで、クマの家という名前にしたそうです。」

と、彼女は答えた。

「でも、テレビに出ている位偉い人だから、私の事ちゃんと見てくれるかなと思ったんですけど、それは違った見たいでした。あの、ニュースでよく出ている、大槻富士子先生という方ですが、私が、体調が悪いと言って、何とかしてくれと言ったんですが、その前に親から自立して、自分でお金を

かせげるようにならなければダメと言って、私、叱られたんです。すごく傷つきました。そんなこと、できるんだったら、とっくにしているって思ったのに。」

「はあ、そうですか、本来ヒーラーさんというのは、クライエントさんを叱るという事は、しない仕事何ですけどね。」

と、蘭は彼女の話しに合わせた。

「そうですよね。でも私は、働いていないのはまぎれもない事実なので、それではいけないのかなと思ってしまって、それで余計にリストカットしてしまいました。」

「それじゃあ意味がないでしょう。ヒーリングというのは、あなたが感じている苦痛を和らげるためにあるんですよ。でも、あの大槻富士子先生がそういう事をいうなんて一寸信じられませんね。」

蘭は大いに驚いてしまった。テレビで慈善事業をやっていることが報道されているヒーラーが、そのようなことをいうだろうか?人間ってほんとにわからない物だなと蘭は思う。

「でも、確かに私はそういうことを言われて。」

と、彼女はちょっと泣き出してしまった。

「まあ、有名な人が、すべて人格者であるとは、限りません。あなたも、今回の事でそれが分かったんですから、それで良かったんじゃないですか。そういう変な人も人間社会にはいるってわかって、それを勉強したと思えば、悪いことにはならないですよ。まあ、気にするなと言ってもあなたのような人はできないでしょうから、そういう時は、僕みたいな人を使ってくれてけっこうです。」

蘭は優しく言ってあげた。こういう人に対抗するというか、弱い人はどうしても有名な人に頼って生きていかなければならないこともあるだろうから、そういうひとにひどいことを言われた場合の、対策を施すというのは、まだ未知の分野ではないかと思われることもあった。

「大体の人は、有名な人のいうことは正しい事と思い込んでしまうんですけど、そうではないことだって、きっとありますよ。誰でも、観音様とか、仏様のようにはなれませんよ、人間ですから。」

蘭はそう言って彼女を励ましてあげた。

「だから、有名な人のいうことは、全部が正しいんだと思い込まないでください。人間ですから、だれでもできないことも、できることもありますよ。そういうことですから、時に、あなたには当てははまらないことをいうことだってあります。」

と、蘭は彼女の腕に刺した針を抜きながら、そういうことを言った。

「ありがとうございます。先生。本当に、先生がそう言ってくれて楽になりました。有名な人が必ず偉い人とは限らないって言ってくれて、本当にありがとうございます。」

にこやかに笑ってくれた彼女に、蘭自身もほっとするのだった。刺青を彫るというのは、お客さんの方も平常心でいてくれないと、うまく彫ることができないこともある。なぜなら、刺青というものは一度入れたら二度と消せない物でもあるからだ。

ちょうどその時、玄関の鳩時計が三回、音を立ててなった。

「あ、一時間経ちました。時間ごとに料金を頂戴しているのですが、もうしばらくつづけますか?」

と、蘭は聞く。

「いいえ、今日はこの後用事があります、三時までにしてください。」

彼女がそう言ったので、蘭は分かりましたと言って、針を抜いた。

「それでは、今日は一時間突きましたので、一時間一万円でもよろしいですか?」

蘭が聞くと、彼女は、はいわかりましたと言って、財布の中から一万円を蘭に渡す。蘭は、にこやかに笑ってそれを受け取り、代わりに領収書を書いて、彼女に渡した。

「ありがとうございます。じゃあ、次回は、筋彫りの修正と、色入れに入れるといいですね。あ、もちろん、あなたのペースでいいんですよ。ゆっくり入れる人もいますし、短期集中型の方もいます。それは、人によりけりだから、あなたが決めてください。」

「ありがとうございます。先生にあわせますよ。」

そういう彼女に、

「何をいうんですか。刺青を入れるのは僕だけど、それを背負うのは、あなたですよ。あなたが主導権を握らないでどうするんです?さっきも言ったけど、刺青というのは、もう入れる前の自分には戻れないんですよ。」

と、蘭は丁重に言った。

「ご、ごめんなさい。そういうことなら、週に一回先生のところで一時間突いて頂くという感じでいいですか?ごめんなさい。私もいろいろ行くところがあって、先生のところには、一時間いたら、帰らなければならない事情がありまして。」

という彼女に蘭は、

「はい、分かりました。じゃあ、週に一回、ここで作業をするということでよろしいですね。希望する曜日などありましたら教えて下さい。」

というと、彼女は、

「今日は火曜日だから、それで御願いします。火曜日が一番来やすいです。嬉しいな、ここで先生とお話しできるなんて。なんかアメリカ合衆国の大統領選挙に出てくるスーパーチューズデーみたいですね。」

と、とても嬉しそうに笑っていった。

「はあ、そうですか。まあ名称とかそういうものはどうでもいいんですが、とにかく、おかしな思想に走らず、前向きに、現実的に生きるようにしてください。」

と、蘭は、手帖に書き込んでいる彼女を見ながらそういうことを言った。とても、嬉しそうだった。そのときは、そう見えたのであるが。

「じゃあ、来週の火曜日にまた来ます。先生、そのときは、もっと強くなれるようになります。」

そういって帰り支度をはじめる彼女を、蘭は、少しでも元気になってくれたかなと思って、見守っていた。

「それでは、よろしくお願いします。先生、今日はどうもありがとうございました。」

と、彼女は蘭に最敬礼して、玄関へ向かって出ていくのだった。蘭は、家族に問題があるとか、自分がどうしようもない過去と決別できないでいるとか、そういう問題がある女性を、刺青で何とかしてやれて良かったと思った。

その夜になった。その夜も又雨が降った。蘭たちが住んでいる静岡県ではなく、遠く離れたところであるが、短時間だけ特別警報が出てしまうほど、大雨が降った。特別警報が出たのは、二時間程度ですぐ解除されたとテレビでいっていたから、さほど被害は出なかった模様である。翌日は、そんな特別警報なんて大嘘であると思われるほど良く晴れた。

蘭は朝起きて、朝ご飯を食べて、依頼された刺青の下絵を書く仕事をはじめようとしたところだった。

妻のアリスは、先日から、担当の妊婦さんの世話をするために、その家に泊りがけで出かけていて留守だった。蘭が絵筆をとったのと同時に、インターフォンがなった。

「伊能さん、警察です。ちょっとお尋ねしたいことがありまして。」

と、間延びした声が聞こえてきた。なんでこんな時に警察が訪ねてくるのだろうかと思ったが、

「今手が放せないので上がってきてください。」

とだけ言った。

「おう、そういうことならそうさせてもらうぜ、蘭。今回はちょっと、聞きたいことがあって、来たんだから。」

と、声がして、どかどかいいながら家に入ってくる音がする。やってきたのは華岡と部下の刑事が一人だった。

「どうしたんだよ華岡。又何か事件が勃発したのか?」

入ってくる華岡たちにお茶を出してやりながら、蘭はそう聞くと、

「蘭はテレビを見ないのか?もう大騒ぎで大変なんだよ。被害者は斎藤雅江という女性だ。今朝、潤井川の中州で遺体でみつかった。死因はまだわかっていないが、昨日、大雨が降って、潤井川が決壊しそうになったことは、お前も知っているな?なので、俺たちは、足を滑らせて川に落ちたか、それとも故意に落とされたのと両方で捜査している。」

と、華岡は事件の概要を説明した。

「斎藤雅江、、、。」

「そうなんだよ、蘭。昨日お前のところに、刺青を入れに来たそうじゃないか。そのときに、彼女は何か言ってなかったか?自殺したいとか、そういうことをさ。」

「もう華岡さ、華岡は事件の事は慣れているから、すぐにそうやって要約できちゃうんだと思うけど、僕たちは、素人だ。もっと詳しく事件の事を話してからにしてくれ。確かに彼女は僕のところに来たよ。でも、ひどく落ち込んでいる様子でもなかったし、何かにくよくよしている様子もなかった。まあ確かに、腕にリストカットしたあとが沢山あったので、訳ありの女性かなと思われはしたけどさ。でも、死にたいとか、そういう雰囲気はなかったよ。」

蘭は、華岡の質問に、ため息を突いてそう答えたのであった。

「失礼ですが、伊能さんは、テレビを見ないんですか?事件があったことは、ほとんどの局で放送されましたが?」

と、部下の刑事がそう聞くと、

「ええ、テレビは、不要なことまで気にしてしまうので、見ないことにしています。」

蘭はそう答えた。確かにテレビを見るのは、今現在当たり前のようになっていることだ。それが嫌いという人は珍しい。事実部下の若い刑事は、その回答に、変な人だなという顔をしている。

「まあ、色んな奴がいるからな。でも蘭、斎藤雅江さんが、遺体でみつかったことはまぎれもない事実だし、お前の家に彼女が来たこともわかっているんだから、お前にも捜査に協力してもらうよ。それはよろしく頼むな。」

そういう華岡に、蘭は、ああわかったよとだけ言った。其れと同時に、部下の刑事のスマートフォンがなった。彼は、二言三言交して電話を切った。

「警視、彼女の死亡推定時刻が分かりました。死亡したのは、昨日の午後10時前後だそうです。直接の死因は溺死だそうですが、彼女の後頭部に打撲痕があったので、何かで殴ったあと、潤井川に落ちたということだそうです。」

「はああ、なるほど。」

華岡は、考えこんだ。

「となると、自殺という線は考えにくくなるな。誰かが、斎藤雅江を殴って、殺害したということになるな。」

「僕は、華岡がいう前にそう思っていたよ。少なくとも昨日会った彼女は、自殺なんかするような雰囲気じゃなかった。」

蘭は、華岡に向って、そう言った。

「ああ、すまんすまん。それでさ、お前に彼女が会いに来たときな、どんな話をしていったんだ?それだけは教えてくれよ。彼女の家族にも教えてくれといったんだが、彼女の家族は意気消沈してしまって、はっきりとした証言がえられないんだよ。」

確かに、精神障害のある人の家族は、大体の人が脆弱である場合が多い。口が極端にうまくないとか、感情の処理が難しくて、言葉にする前に泣き出してしまうとか、そういうひとで構成されている。

「ああ分かったよ。昨日彼女は、僕のところに来て、なんでも、原因がわからず、医者に見せても改善しない症状があって、落ち込んでしまっていたと話してくれた。それで、えーとなんて言ったかな、なんとかの家というヒーリングルームに通いだしたが、ヒーラーさんから、先ず親から自立しろという、実現不可能なことを言われてしまったようで、それで落ち込んでいると話してくれた。」

「そうですか、伊能さん、そのヒーラーさんというひとの名前を知りませんかね?」

部下の刑事がそう聞くと、

「ああ、えーとね。最近テレビでよく見る人だというんだが、なんでも大槻富士子という女性だったらしい。」

と蘭は答えた。

「大槻富士子。あの女優みたいに綺麗な奴だよな。俺たちから見れば、ただ、体をなでたり、触ったりするだけで、何も意味ないようにしか見えないけどねえ。」

華岡は、手帖に、大槻富士子と書きながら、そう言った。

「ああ、あの女性ですか。確かに今ちょこちょこテレビに出てますよね。熱海の土砂崩れの被災者にヒーリングを施して楽にしてやっているとか何とか。でも、そんな人が、果たしてそんなことできるのかなって一般庶民の俺は思いますけど、何なんでしょうか?」

と、スマートフォンで何か調べながら、部下の刑事は言った。

「で、斎藤雅江は、彼女の施術を受けていたのか?」

と、華岡が聞くと、

「ええ。僕もそのあたりははっきりしませんが、斎藤雅江さんが、彼女のもとへ行ったのは間違いありません。多分、自律神経が弱いとか診断されて、どうにもならなかったのではないでしょうか。医者であっても、はっきりしない症例は沢山ありますから。」

蘭は、華岡の質問に答えた。

「そうか。じゃあその時、大槻富士子が斎藤雅江に、自立するようにといったのか。どうにもならない症状に悩まされていた斎藤雅江は、大槻にそう言われて、自殺したと言えば辻褄が合うんだが、でも、頭に打撲痕があったとなると、また違うぞ。」

「警視、なんでも簡単に考えてしまうところ、警視の悪いところですよ。斎藤雅江が自殺するような表情ではなかったって、伊能さんが言っているじゃないですか。其れなら、別の事情があるんですよ。捜査は、すぐに結論を出すな、慎重にやれって、言いふらしているの、警視でしょ?」

そういう華岡に、部下の刑事は、大きなため息をついた。確かに華岡の持っている警視という称号はかなり使える称号であることは間違いないが、細かい事情から、現場を知っている刑事よりも、経験が不足してしまうという欠点があった。

「まあとにかくね、もう少し、詳しく捜査することが必要だな。よし、その大槻富士子が、斎藤雅江とどんな関係があるか、調べてみることにするか。蘭、ありがとう。捜査会議が始まってしまうので、これで失礼するよ。」

華岡と刑事は、椅子から立ち上がって、蘭の家をあとにした。蘭は、どうも物騒な世の中になったなと思いながら、下絵の続きに取り掛かった。


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