風邪
「あなたでも風邪をひくんですね」
「あはは。俺もそう思っていました」
ゴホゴホと苦しそうに咳きこむユアンに、フィーネはいいから寝て下さいと無理矢理寝かしつける。
「食欲はありますか?」
「正直あまりありませんが、あなたが作ったものなら無理にでも食べてみせます」
はいはい、とフィーネは立ち上がって台所へ向かう。
朝、珍しくユアンより早く起きたなとフィーネが時計を見ると、時間はいつもと変わらず、ユアンが寝過ごしただけだった。そして慌てて起きだしてきた彼の顔は、ほんのりと赤かった。
額に手をあてると、案の定じんわりと熱く、フィーネは風邪だと診断した。季節の変わり目で朝方冷えてきたからだろう。
「それと仕事のしすぎです」
いつも夜遅くまで机に向かって、そのくせ朝はフィーネよりも早い。睡眠時間が圧倒的に不足しているのだ。風邪をひいてしまうのも最もだとフィーネは思った。
「はい。どうぞ」
栄養たっぷりの野菜スープを作って差し出すと、ユアンはなぜかじっとフィーネを見つめて手をつけようとしない。
「言っておきますが、何もおかしなものは入れていませんから」
フィーネがそう言うと、ユアンは苦笑いした。
「違いますよ」
ではなんだ。ユアンはほんのりと赤い顔のまま、にっこりと笑った。
「食べさせてください」
「……ご自分で食べられるでしょう?」
「無理です」
即答するユアンに、フィーネは絶対嘘だろうと思った。だが相手は病人である。本当に食べる気力がないのかもしれない。
ふう、とフィーネはため息をついた。
「わかりました。今回だけですよ」
「はい。ありがとうございます」
スープを冷まして食べさせることが、こんなにも恥ずかしいことなのかと、フィーネはユアンの顔を見て思った。
「フィーネ?」
「……いえ。なんでもありません」
余計なことをあれこれと考えるからいけないのだ。フィーネは無心でスプーンを彼の口元へ運んだ。
ユアンはとても美味しいですと、こんな時でもフィーネを褒めるのを忘れなかった。
「あなたが教えてくれたスープと、何も変わりませんわ」
「好きな人が作ったのは、格別に美味しいんです」
フィーネはそうですか、とそっけなく答えた。彼のストレートな言葉は、いつも反応に困ってしまう。
「さあ、薬も飲みましたし、あとは安静になさっていて下さい」
「フィーネ。そばにいてください」
一人で寝られるでしょう、とフィーネは言いたかった。だが以前自分も似たようなことをしており、その時のユアンの行動を思えば、断ることはできなかった。
立ち上がりかけたフィーネはまた椅子に座り直し、じっと自分の手元を見つめた。ひしひしと病人の視線を感じる。
「何か、話してください」
「注文が多い人ですね」
「あなたの声が聞きたいんです」
お願いします、とユアンは上目遣いでフィーネを見上げた。そんな目で頼まれて、いったい誰が断ることができようか。
「もう、わかりましたから」
だが話といっても何を話せばいいかわからない。フィーネは雑談の類もあまり得意ではなかった。
「あの、本を声に出して読むとかでもかまいませんか」
「ええ、それで」
フィーネは迷った末、詩の朗読をした。
ユアンは目を瞑り、じっとフィーネの声に耳を澄ませている。そのうち薬が効いてきたのか、彼はすうすうと寝息をたて始めた。
フィーネは本を閉じて、じっと男の寝顔を見つめる。相変わらず綺麗な顔だと思った。
(彼と初めて会った時は、まさかこうして一緒に暮らすなんて思いもしなかった)
どうなることかと思ったユアンとの生活も、不思議と上手くいっている。
(彼が、そうしてくれてるんだわ)
フィーネが生活しやすいように、不安にならないように、ユアンはずっとあれこれと気を遣っているに違いない。フィーネはそれに甘えているだけでよかった。
「うっ……」
ユアンは苦しそうに呻き、息をするのも辛そうだった。フィーネはこまめに額の布を濡らしてやり、呼吸が楽になるよう湯気のたつ鍋をベッド近くの台へと置いたりした。
(夕飯は何か食べれるかしら……)
昼食はわざと明るく振る舞っていたが、本当は無理して食べているようにも見えた。温かい野菜スープもいいが、風邪の時はみょうに喉が渇き、冷たくて甘いものがとても美味しく感じる。
(りんごのすりおろしとかだったら食べるかもしれない)
フィーネはさっそく店で買ってこようと、寝ているユアンの布団をしっかりと肩まで被せ、家を出た。
床で臥せっているユアンの姿が思い浮かび、大丈夫だろうかと不安になりながら目当てのものを探す。買い物を手早く済ませると、フィーネは一刻も早く家へ帰らねばならぬ気がした。
「フィーネ!」
ようやく自宅が見えてきた所で、フィーネは自分の名を呼ぶ声を聞いた。
「ユアン!」
なんとユアンが庭に出てきょろきょろと誰かを探しているではないか。どうして大人しく寝ていないのだと若干腹が立ちながらも、彼の名を大声で呼んだ。
ユアンはフィーネを見ると、ふらふらとこちらへ寄ってきた。そして倒れ込むようにして彼女を抱きしめたのだった。
「よかった……! どこかへ行ってしまわれたかと」
「こんな状態のあなたを置いて、どこかへ行けるわけないでしょう」
さあ、戻りましょうとフィーネはユアンを寝床へ連れていった。
書き置きを残してきたが、気づかなかったみたいだ。目が覚めるまで待って、直接口で言えばよかった。
フィーネは自分の行動に後悔したが、すぐにユアンの看病に専念することにした。外を歩き回ったせいか、朝より熱は上がったようだった。
陽が沈み、夕食の時間まで彼はぐったりと眠り続けた。何か食べるかと聞いても、弱々しく首を振られ、リンゴのすりおろしを口にするのが結局精いっぱいだった。
「今日はここで眠りますわ」
「うつるといけませんから、別のところで寝てください……」
「いいえ。嫌です」
フィーネはやんわりと、だがきっぱりと彼のお願いを却下した。
「あなたのことが気になって、安心して眠れませんもの」
沈黙がおり、フィーネは怒ったように言った。
「とにかく、私はここで眠りますから!」
目を瞬いていたユアンはくすりと笑い、緩慢な動作で頷いた。
「……はい。わかりました」
ふんとフィーネはソファに毛布を運び終えると、椅子に座ってユアンと目を合わせた。
「あなたが眠るまで私が監視していますから、安心して眠って下さい」
ユアンは手を伸ばし、フィーネに触れようとした。彼女は顔を近づけ、頬を撫でる彼の手を握ってやる。
フィーネ、とユアンが掠れた声でつぶやいた。はい、とフィーネは答える。
「時々、あなたが俺のもとから逃げる夢を見るんです。俺は、絶対に逃げ出さないよう、あなたを閉じ込めて置くんです。それでもあなたは……目を離した隙に、いつもどこかへ逃げ出してしまう……」
熱に浮かされたように、彼は苦しげな声で言った。フィーネは握る手に力を込めた。
「私が行くところなんて、どこにもありはしませんわ」
「いいえ、ありますよ」
彼は寂しそうに笑った。
「俺は絶対にあなたを離さない。あなたが、泣いて懇願しても、決して……」
「ええ、わかりましたから。もう、寝てください」
フィーネは今までユアンがそうしてくれたように、優しい声で彼の不安を取り除いてやった。どうか彼が自分と同じように安心してくれますようにと願いながら。
その願いが通じたのか、単に薬の影響か、ユアンはしばらくすると気を失うように目を閉じた。
フィーネはそれをじっと見届けながら、ふうと息を吐く。
ユアンの自分に対する想いは尋常ではない。
彼はどうしてこんなにも自分に執着してくれるのだろうか。
――でもそれはフィーネ自身にも言えた。
(私だって、あの人のために命を差し出しても構わないと思っていた)
どうしてそこまでできたのか。決まっている。愛していたからだ。
ユアンがずっと自分のそばにいてくれるのも、フィーネを愛しているからだ。
フィーネは、ユアンと暮らし、愛されることがどういうことなのか、初めてわかった気がした。
それはニコラスとはまた別の愛だった。
もっと深く、穏やかな、日の光の暖かさを感じるようで、寂しい夜道を照らしてくれる月を思わせる。
フィーネが今ここにいるのも、ユアンがいてくれたからだ。
もし風邪をひいたのが、フィーネだったら――ユアンは間違いなく必死に看病しただろう。風邪だけではなく、フィーネが辛くて泣きたいと思う時も、彼は力になろうとあれこれ頭を捻ってくれたはずだ。今までがそうだったように。
フィーネは自分も返したいと思った。
ユアンが辛い時も、苦しい時も、一緒に傍にいて、慰めてあげたい。
「ユアン。早く、元気になって下さいね」
――翌朝、椅子に腰かけたまま眠りに落ちていたフィーネははっと目を覚まし、すぐにユアンを見た。彼は穏やかな寝息を立てている。額に手をそっと当て、熱がひいたことを確認すると、よかったとフィーネは胸をなで下ろした。
すると身体の節々が痛いことに今更ながら気づいた。肩や腕を擦っていると、フィーネ、と掠れた声が耳に届く。
「ユアン。起きていたんですか」
起き上がろうとしたユアンを、フィーネは慌てて止める。
「まだ病み上がりなんですから無理をしてはいけません」
「もう、大丈夫です。あなたに看病してもらいましたからね」
ユアンは少々ばつの悪そうな顔でフィーネを見た。
「情けないところを見せてしまい、すみませんでした」
「あなたは常日頃から隙がないので、たまには見せるべきです」
フィーネは心からそう思った。それに、情けないところなら自分の方がよっぽど彼に見せている。
「あなたはいいんですよ」
「なんですか、それ」
だって、とユアンは朗らかに答えた。
「泣いているあなたを慰めるのは、俺だけの特権ですからね」
「……あなたの場合、無理矢理弱みを暴いたとも言えますがね」
そうでしょうか、とユアンはとぼけた表情をする。フィーネは呆れたように彼を見たが、やがて困った人だと微笑んだ。
「その調子だと、もうすっかり風邪はよくなったみたいですね」
「ええ。フィーネのおかげです」
本当にありがとうございます、とユアンが笑顔でお礼を述べる。フィーネは恥ずかしくなり、背を向けて答えた。
「朝食の準備をしてきますので、あなたは、まだ寝ていて下さい。治ったと言ってもまだ、」
「フィーネ」
ユアンが後ろからフィーネを抱きしめた。突然のことで驚いていると、彼はこらえきれないように言った。
「俺、あなたが好きです」
「……そんなの、もう知っていますわ」
「はい。言いたかっただけです」
ぎゅっときつく抱きしめると、ユアンはぱっと身体を離して微笑んだ。
「朝食の準備、俺も手伝いますよ」
「だから休んでいて下さいってば」
文句を言いながらも、元気になってよかったとフィーネは笑みを浮かべた。
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