フィーネとユアン

上手くゆかない

 何をやってもだめな時は、だめなものである。

 フィーネはそのことを今日一日よく痛感した。


 事の発端は朝、珍しくユアンより早く目が覚めたので朝食を自分一人で作って彼を驚かせようと考えてしまったこと。普段やらないことは時間がかかり、丁寧な手順を忘れて焦りがちだ。結果的にスープは全く味がせず、スクランブルエッグは焦がしてしまい、まともにできたのはサラダくらい。レタスを千切って皿に盛りつけることしか成功しなかった。


 次こそはと思い、掃除や洗濯に張り切って取り組むものの……バケツをひっくり返してしまったり、加減を間違えて泡だらけににしてしまったりと、もう呪われていると思うくらい上手くいかなかった。


「あなたはもともとお嬢様だったんですから、当然の結果ですよ。むしろこれくらいで済んでラッキーです」


 ユアンの揶揄い混じりの慰めにも、フィーネは皮肉で返す余裕がなかった。どうしてこんな簡単なことすら上手くできないのか、自分に苛立つ感情。気づけば癇癪を起した子どものように彼に八つ当たりして、そのまま家を飛び出してきてしまった。


 とぼとぼと歩きながら、フィーネはしだいに頭が冷えていく。


(私、何してるんだろう……)


 怒らず笑って許してくれたのに……さすがのユアンも呆れたのではないだろうか。


(いいえ、彼はいつも通りだったわ。出かける直前も帽子を忘れぬよう言ってたもの)


 きっと彼にとってフィーネがそんな態度をとるのは、慣れたものだったのだろう。そう考えるとますますフィーネは自分が情けなくなってくる。


 しっかりしなくてはいけないと思うのに、空回りばかりしている。失敗が続けば気分は落ち込み、思い出したくないことを思い出させ、ますます気持ちが沈んでいくという悪循環に陥る。


 今日の最悪な日も、以前から感じていたことの積み重ねが爆発したようなものである。


(どうしたら強くなれるのかしら)


 あてもなく歩いているうちに、いつの間にか川沿いの道に出ていた。


 フィーネは静かな水面を見て心を落ち着かせようと、さらに近づいていった。日の光を浴びた水面は、遠くから見れば輝いていて見えたが、近くではどっぷりとした暗さを映し出している。


(まるで自分の心みたい)


 そう思うと、またもや暗い感情が、ひょっこりと顔を出す。


 いったい自分はいつまでこうなのか。結局変わることなどできやしないのではないか。

 先の見えない未来がフィーネには怖かった。


 いっそ身投げでもしようか、とできもしないことをふと考える。だがすぐに首を振った。


(馬鹿なことを考えるのはやめよう)


 逃げ出したいなんて心が弱っている証拠だ。

 もう帰ろうとフィーネは水面から顔を上げ、もと来た道を戻ろうとした。


 だがその時悪戯な風が吹き、フィーネの帽子をさらっていってしまった。帽子は手の届かない川の水面に腰を下ろし、フィーネはなんてついていないのだろうと泣きたくなった。


 帽子は、諦めるしかなさそうに思えた。

 けれどあの帽子は、ユアンに買ってもらったものだった。一緒に街に出かけて、何気なく目に留まった帽子をじっと見つめていたフィーネにプレゼントだと言って渡してくれたもの。


(やっぱり取りに行こう)


 でもどうしようか。ユアンを呼んで来て、助けてもらおうか。


 フィーネは周囲を見渡す。すると、一艘の小さなボートが目に入った。


(いいえ。自分でなんとかするわ)


 フィーネは、自力で帽子を取りに行くことを決めた。


 ボートへ乗り移るのは、簡単なようで、意外と難しかった。ぐらぐらと揺れ、ひっくりかえってしまうのではないかとひやひやした。怖がる気持ちを抑え、どうにかしてやっと乗ると、フィーネはオールを漕ぎだした。これもまた重く、力加減が難しく、フィーネは四苦八苦した。


 自分でも、なぜここまでむきになっているのかわからない。今日一日があまりにもついていなくて、気分がどん底まで落ち込み、一周回って腹が立ったせいかもしれない。怒りが何かをやってやるぞという原動力となったのだ。


 ともかくフィーネは必死にオールを漕いだ。そして帽子のところまでなんとか漕ぎつけることに成功した。


(あと、少し……)


 手を伸ばして、触れたと思った瞬間、またもや突風がフィーネを襲った。帽子はフィーネの手を逃れ、追いかけようとした彼女はバランスを崩し、ボートがぐらりと傾いた。


 あっと思ったら、フィーネはボートからひっくり返るようにして水の中へ落っこちてしまった。

 ばしゃんという水しぶきをあげ、身も凍るような冷たさが全身を襲う。


 泳いだことなど、フィーネにはほとんど経験がなかった。


 それに服の重みのせいで、手足も上手く動かせない。このままでは溺れ死ぬと、焦ったフィーネは手足をがむしゃらに動かした。そのせいで水がばしゃばしゃと顔にかかり、ますます水の中へ引き込まれてゆく。息ができず、恐怖に支配される。


 ――死んでしまう。


 フィーネがそう思った時、誰かに腕を引かれた。身体を抱えられ、ぐいぐいとどこかへ連れて行かれる。


 濡れた衣服のずっしりとした重みを感じ、水の中から地上へ引っ張り上げられたことを理解した。大きくむせ、咳きこむフィーネの背を彼は優しく擦ってくれた。


「こんな季節に水浴びとは、なかなか度胸がありますね」


 溺れそうだった自分を助けたのは、ユアンだった。


「どうして……」


 ここに、とフィーネが視線を投げかけると、ユアンは濡れた前髪をかきあげながら答えた。


「今日のあなたはひどくついていらっしゃらないようでしたので、もしかしたら、と不安になって様子を見に来たんです」


 様子を見に来て大正解だったわけだ。


「大丈夫ですか」

「ええ。あなたのおかげで……」


 ユアンは、フィーネと同じくらいびしょ濡れで、酷い有様だった。


 二人は息を整えるのにしばらく無言になった。だがフィーネは、やがてぶるぶると震え出した。暖かな春先とはいえ、水遊びにはまだ早い時期だった。


 ユアンが飛び込む寸前に投げ捨てたであろう、濡れていない上着をフィーネに被せると、彼はそのまま横抱きに抱き上げた。視界がぐっと高くなり、フィーネは思わずユアンの首元に縋りつく。


「大丈夫ですよ。落としはしませんから」


 もう一度しっかりとフィーネを抱え直すと、ユアンは安心させるように微笑んだ。


「帰りましょう」


 帰り道、ユアンは何も言わなかった。フィーネは沈黙が気まずく、自分が彼に心配をかけ、面倒をかけたことを、ひしひしと感じざるを得なかった。


 帽子など放っておけばよかった。意地を張らずユアンに頼ればよかった。


「ごめんなさい」


 そしてとうとう、沈黙に耐えかねたフィーネは、ユアンにそう打ち明けた。


 彼はちょっと驚いたものの、すぐに目を細め、可笑しそうに笑った。今のは本当に可笑しいと思った笑みだ。


「なんだか悪戯して叱られた子どもみたいですね」

「……怒っていないんですか?」

「怒っていますよ。あなたを危険な目に晒してしまった自分にね」


 フィーネがなんと答えるべきか悩んでいる間に、家へと戻ってきた。


 ユアンは自身の着替えを手早く済ませると、部屋の暖炉に薪をくべ、風呂にお湯を入れてくると言った。毛布に包まれたフィーネの心は、今や情けなさと申し訳なさでいっぱいであった。


「溺れないようにして下さいよ」


 まるで生まれたての幼児が風呂に入るかのような表情で、ユアンはフィーネに注意を促した。彼女はそれに恥ずかしさを覚えながらも、素直に頷き、大丈夫だと言った。入浴の補助までされるのは、さすがにご遠慮願いたかった。


 入浴を無事に済ませると、待ち構えていたようにユアンが丁寧に髪を乾かしてくれた。心身ともに疲れ切ったフィーネは、もうされるがままだった。


「疲れたでしょう。しばらく横になって下さい」


 毛布をかけて、そのまま向こうへ行こうとした彼の腕をフィーネはとっさに掴んだ。目を丸くしたユアンに、フィーネは気まずくなり、目を逸らす。


 どうしました、と聞くユアンの声はどこか辛いところがあるのかと、心から心配している声だった。辛いところはない。けれど……とっさに引き留めたフィーネは何と言えばよいかわからなかった。


「あの、今日は本当にすみませんでした」


 それだけです、とフィーネは顔を隠すように毛布をかぶった。

 ユアンはしばらくそんなフィーネをじっと見つめていたが、やがて椅子を持ってきてフィーネの近くに腰かけた。気になって顔を出すと、彼と視線がぶつかり、さっと逸らす。


「もうしばらく、ここにいます」


 彼女は早く行ってしまえばいいと思う一方で、ユアンに行かないで欲しいと心から思った。ずっと彼にそばにいて、手を握っていて欲しいとも。


(わたし、子どもみたい……)


 強くならないといけない。

 そう思うのに、ますます弱くなっていく自分がひどく情けなかった。


「何を考えていらっしゃるのですか」


 ユアンが優しく尋ねる言葉にも、フィーネは答えなかった。いや、答えられなかった。


「まあ、だいたいわかりますけどね」


 ユアンはそう言うと、フィーネの額にかかっていた髪をそっと払ってやった。


「この頃のあなたは、ひどく焦っていらっしゃるようだった。初心者なら誰もが通る間違いすら許せず、落ち込み、苛立っていた」


 ユアンには何度もお見通しのようだった。


 わかっているならそっとしていて欲しい、とフィーネは少し恨めしく思った。そんな彼女の心の声が聞こえたようにユアンが微笑み、もう一度優しい声で言った。


「何を焦っていらっしゃるのですか」


 フィーネは観念してぽつりと言った。


「強くなりたいんです」


 ユアンはフィーネの答えに少し笑った。フィーネがむっとした表情で睨むと、すぐにすみませんと謝った。


「ニコラスとのことが片付いて、俺はあなたがこの世界に何の未練もないと思っていました。いつかふらりと消えてしまうのではないかと、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと、不安でたまりませんでした」


 目を伏せがちに、ユアンは静かな声で話した。


「だから最初は何が何でも目を離すまいと、気を張っていました。でも、あなたは、決して折れようとしなかった。傷つきながらも、それを必死に隠して、前へ進もうとした。俺が考えていた以上にあなたはずっと強いのだと、初めて知りました」


「強くありませんわ」


 そこで初めてフィーネは異を唱えた。

 川で溺れたのも、きっと逃げ出したいなんて思った罰だ。


 だがユアンはそんなことはないと、優しく否定した。


「強いですよ。たしかに頑張りすぎて、逃げ出したくなったかもしれませんが、本当のあなたは、すごく強い方なんです」


 そこで彼はちょっと肩を竦めて、器用に片眉を上げた。


「頑固とも言えますけどね」


 フィーネがむっとすると、機嫌を取るように彼は髪を撫でた。


「大丈夫ですよ。あなたは、自分で思っている以上に、強い人です。生きたいと、思っている人です。これからだって、きっと楽しいことがあなたを歓迎してくれます。そのためにも、今はゆっくりと休んでください」


「……楽しいことなんて、ありません」


 拗ねたようにフィーネがつぶやくと、ユアンはくすりと笑った。


「それでは俺があなたを楽しませてあげますよ」

「あまり期待できませんわ」

「ええ、覚悟の上です。何度でも、挑戦させて下さい」


 フィーネはじっとユアンを見つめ、やがてふいと顔を逸らした。


「くたびれたので、少し休みます。……それまで、そばにいて下さい」


 フィーネが差し出した手を、ユアンは愛しそうに見つめて、握りしめてくれた。


「はい、承知しました」


 身も心もくたくたで、大丈夫だと言われても、フィーネはちっともそうは思えなかった。


 けれど、ユアンがこうしてそばにいてくれれば、ゆっくりでも歩いていける気がした。手のひらから伝わる温もりに安心し、フィーネは微睡むように目を閉じた。


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