ほどかれた糸
「お前がフィーネを誑かしたのか」
「おやおや、ずいぶんとひどい言いがかりです」
酒を浴びるほど呑んだのか、ニコラスからは酷い臭いがした。男の嫉妬は見苦しいと言うが、本当だ。自分は決してこうはなるまいと、ユアンは掴まれて乱れた己の服装を直した。冷静な男だと思っていたが、こんなにも脆いとは実に残念でもあった。
ニコラスは落ち着こうとソファに座って、祈るように手を組んでいる。髪はぼさぼさで、髭も剃ってない。最初出会った時とはまるで別人の姿を、ユアンは冷たく見下ろした。
「あなたの方が、フィーネを先に捨てたのでしょう」
しかも目の前の男はいつでも引き返すことができたのに、その機会を自ら捨て去ったのだ。
「彼女をどうするつもりだ」
「それを知ってどうするんですか。あなたには関係ありませんよ」
「答えろ!」
まるでライノット伯爵みたいだ、とユアンは肩を竦めた。
彼には本当に驚かされた。まさかライノット伯爵がレティシアを追いかけ、ニコラスの屋敷にまで押しかけるとは……。レティシアはただの暇つぶしとして相手にしていただけだろうが、伯爵本人は骨抜きにされてしまったようで、手に入らぬならいっそ、と追いつめられるほど彼女の虜となっていた。
不憫ではあるが、痴情のもつれにフィーネを巻き込んだことは決して許せなかった。あの世へ連れて行くならよそでやれ、それくらいの覚悟なら最初から慕うなと殺意にも似た激しい怒りがわいた。
(なぜ彼女が傷つかなければならない!)
知らせを聞いた時は、頭が真っ白になって、生きた心地がしなかった。やはり何があっても離れるべきではなかったと、何度も後悔した。この男の元に、フィーネを置いていったことは間違いだったのだ。原因の発端となったレティシアも、そもそも彼女を屋敷へ招き入れたニコラスも、ユアンからすればライノット伯爵と同等か、それ以上に許しがたい存在だった。
「安心して下さい。彼女はあなたがいなくても、幸せになります」
ニコラスに口を挟ませず、ユアンはああと芝居がかった演技をした。
「それとも、彼女がいなくなったことを、世間にどう説明するか、という心配でしょうか? そちらも安心して下さい。きちんと脚本をご用意しておりますので」
ユアンは淀みなく話していく。
「フィーネ・ティレットは暴漢者であるライノットから、婚約者であるニコラス・ブライヤーズを身を挺して庇った。だがそのせいで彼女は取り返しのつかない傷をその体に負ってしまった。傷の癒えない彼女は、愛する婚約者から身を引くことを決意して、霧の深い国へと旅立つことを決意する。最愛の人の幸せをいつまでも望みながら――哀しみにくれるニコラスだったが、そんな彼に寄り添う一人の女性。レティシア・フェレルの登場だ。彼女は国へ戻ることもせず、懸命に彼を側で支え続けた。そしてその慈悲深い愛に、頑なだったニコラスの心も溶かされ、二人はめでたくハッピーエンド――という筋書きでどうでしょうか」
それとも、とユアンは笑顔で第二の脚本を提案する。
「婚約者に放っておかれた哀れなフィーネ・ティレットを、同じく婚約者に相手にされなかったユアン・マクシェインが慰め、二人はいつしかお互いを愛し合うようになり、ユアンはフィーネを国へと連れ去ってしまった。残されたニコラスは表面上哀しみにくれても、内心は意中の相手とようやく一緒になれると、泣いて喜んでレティシアと結婚した。めでたしめでたし。――こちらの方が日頃退屈な貴族の方にはお好みかもしれませんね。いえ、やはり先ほどの方がよろしいでしょうか。俺はどちらでも構いませんが、ニコラス様はどちらになさいますか」
ニコラスは呆気にとられていたが、やがて顔を真っ赤にしてユアンを睨みつけた。その鋭さといったら、人を殺してしまいそうだとユアンは貼り付けたような笑顔を崩さぬまま、相手を観察した。
「フィーネは、お前みたいなやつを愛しはしないさ」
「おや、それはわかりませんよ」
「知らないかもしれないが、私とフィーネは……」
「俺は彼女の前世を知っています」
ユアンはにこりと彼に笑いかけた。ニコラスは信じられないように目の前の男を見た。ただの口からの出まかせと思っているのかもしれない。
「疑っているようですね。でも本当なんです。彼女が亡くなってしまった令嬢の身代わりとして屋敷に連れてこられたことも、その令嬢とそっくりになるよう育てられたことも、死ぬ間際まで、そのことを伝えられなかったことも、すべて――」
知っているんです。
――多少、賭けに出た部分もあるが、問題なかったようだ。ニコラスの顔はわなわなと震えていた。
「嘘だ。フィーネは死ぬまで私の傍を離れなかった!」
「死ぬまでは、でしょう。あなたが死んだ後に出会ったんです」
ユアンはそんなこともわからないのかというように答えた。ニコラスは、しばし呆然としたようにユアンの顔を眺めていたが、やがてゆっくりと頭を振った。まるでフィーネのそばには、自分しかいなかったのだというように。
「たとえそれが事実だとしても、私がフィーネにとって大切な存在であることは変わらない。私がそうであるように……」
ほら見ろ、とユアンは唇を吊り上げた。
「左様ですか。それはレティシアよりもですか?」
ニコラスは目を見張ったが、すぐに怒ったように眉を吊り上げた。
「貴様にそんなことを言う必要はない!」
言えないのか、とユアンは内心思ったが、黙って男の醜態を眺めた。これ以上ここに居ても、無駄だろう。すべきことも済んだので、ユアンは帰ることにした。
「あなたは、レティシアを運命の相手として選んだ。ならば、もう彼女は解放してやるべきですよ」
ニコラスは、何も言わない。いいや、何も言えないのか。
(救い難い男だな)
それでは、とユアンは別れを告げて背を向けた。
「フィーネを、返してくれ」
喉の奥から絞り出すような声。先ほどの怒りはどこにいったのか、ニコラスは今や疲れ切った表情でユアンを見上げている。そんなニコラスを冷めた目で一瞥し、ユアンは今度こそ別れの言葉を述べた。
「お断りします。俺は、フィーネが好きですから」
自分でも、満面の笑みだったと思う。あのニコラスの頬が盛大に引きつったのを見て、ユアンは満足した心地で扉を閉めた。
部屋の外には、レティシアがいた。今までの話を聞いていたのだろうか。それとも、ニコラスのことが心配で様子を見に来ただけだろうか。ユアンにはどちらでもよかった。
ただ彼女とここで会えたのは、こちらから出向く手間が省けた。
「ああ、レティシア。ちょうどよかった。これ、どうか受け取って下さい」
そう言ってユアンはずっしりと重みのある袋をレティシアに握らせた。その中身が金貨だとわかると、彼女は怪訝そうにユアンを見た。
「なんのつもり?」
「祝い金みたいなものですよ。気にせず受け取って下さい」
それじゃあ、とユアンは手を振った。
「ちょっと!」
突っ返そうとした彼女の手を逃れ、ユアンは微笑んだ。
「大丈夫です。あなたが俺に渡してくれた金額と同じですから」
欲しいものを手に入れるには、お金を払う。奇しくもニコラスと同じやり方でレティシアは愛しい人を手に入れた。――いや、レティシアとしては真実の愛で彼の気持ちを勝ち取ったのだから、違うだろうか。
「どうか、お幸せに」
レティシアは固まったまま、その場から動かなかった。ユアンは振り返りもせず、屋敷を後にした。
帰り際、レティシアは窓からこちらの様子を見ていた。ひどく睨みつけるような、厳しいものだった。だがユアンが彼女に気づいたとわかると、さっと目を逸らして部屋の中へ引っ込んでしまった。
レティシアは、ニコラスの変化にどう思っているのだろう。フィーネという自分そっくりの、それゆえに価値のない女を失ったところで、どうして彼があれほど荒れているのか、記憶のない彼女には永遠にわからない。
そう考えると、レティシアも気の毒な女性なのかもしれない。
レティシアは、前世のレティシアとは違う。
当たり前と言えば、当たり前だ。生まれた時代も、育てられた環境も、微妙に違えば、違ってくる。けれど、その当たり前を、ニコラスは見落としている。
フィーネという特例な存在に出会ってしまったせいで、レティシアもそうだと疑うことなく信じてしまった。いいや、本当は必死に気づかない振りをしているだけかもしれない。
ニコラスとフィーネ。
お互いに記憶を持ち、巡りあえた二人。
ニコラスには前世も今世も関係なく、フィーネはフィーネのまま、その目に映る。またフィーネにとっても、ニコラスは前世も今世も関係なく、ニコラスはニコラスのまま。
自分自身が前世とどう違うかは意識しているにせよ、お互いの存在は間違いなく前世と同じまま、変わらぬ存在としてあり続ける。唯一無二の存在だった。
ユアンからすれば、二人こそが、お互いの運命の相手に見えた。
だがニコラスはフィーネではなく、レティシアを運命の相手として選んだ。
ニコラスが今さらどんなに欲しがったところで、ユアンは二度と彼女を手放すつもりはなかった。
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