フィーネ

 ユアンに連れられて、とある村を訪れたことがあった。なんてことのない、辺鄙な村で特に目新しいものは何も見当たらなかった。どうして彼がここに自分を連れてきたのか、フィーネにはまったく見当がつかなかった。


「ユアン? ここに何かあるんですか?」


 彼は答えなかった。まるで目的地など最初から決まっているかのようにフィーネの手を引き、さらに開けた場所へと案内する。


 どこまでも続きそうな緑の中、放牧されている牛や羊が草をはみ、今にも朽ち果てそうな小屋がぽつぽつと建っている。どこにでもあるような、ただの簡素で、みすぼらしい景色。


 だがフィーネはふいに自分が本当の場所へ帰ってきたような気がした。前世で生まれ育った、本当の故郷。もうはっきりと思い出せないのに、狂おしいほどの懐かしさが胸にこみ上げ、フィーネはその場に座り込んだ。


「うっ……くっ……」


 喉がひりつき、目に熱い涙があふれる。フィーネは堪えきれず、嗚咽をもらし、やがて大声で泣き始めた。


 どうして今自分が泣いているのか、フィーネ自身にもよくわからなかった。けれど遠い昔に何かを失ってしまった悲しみが、今になってはっきりと突き付けられた気がした。


 あの時、ニコラスがフィーネのもとへ訪れなかったら、レティシアによく似た少女を引き取りたいなんて申し出なければ、自分はいったいどんな未来を歩んでいただろうか。貧しい生活であったことに変わりはないだろう。彼に引き取られるより、ずっと辛い目に遭っていたかもしれない。


 それでも、誰かの代わりとして生きていく辛さは知らないままだった。


 両親に愛されていたとは言えない。ニコラスに与えられたものはたくさんある。身代わりでも、愛されていたことは確かだった。


 どちらの人生が幸せか、考えるだけ無駄だ。過去あの時には決して戻れない。戻れても、幼い自分にはきっと何もできなかったと思う。意味のないことだ。それでも、だからこそやるせないし、この気持ちをどうすればいいかわからなかった。


「フィーネ」


 後ろからそっとユアンが自分を抱きしめてくれて、フィーネは声が枯れるまで泣き続けた。


 失ってしまったもの。手に入らなかったもの。捻じ曲げて、道を間違えて、それでもまた自分は戻って来たのだと、彼女は思った。



 それからまた何回か季節が巡り、ようやく周囲の人間は見目麗しい青年と令嬢に好奇心の目を向けることに飽き始めていた。


 フィーネの嵐のような感情も静まり、穏やかなものに変わりつつあった。けれどその代わり、今度はぽっかりと空いた穴が自分を引きずり込んでいく気がした。


 ユアンに連れて行かれたあの場所、あの光景を見てから、何をしても身が入らない。どうして自分はここにいるのだろうという虚無感にフィーネは襲われる。


 それでも月日は当たり前のように過ぎてゆく。


 月の美しい夜だった。ユアンは窓を開け放ち、春のほんの少し寒い風を部屋の中へ招き入れた。


「フィーネ」


 本をめくっていた彼女は顔を上げ、ユアンを見つめた。


「美しい月ですよ。あなたもこちらへ来て一緒にご覧なさい」


 ユアンの言葉に、フィーネは本を閉じて椅子から立ち上がった。

 彼の言う通り、真っ暗な夜空にぽつんと月が浮かんでおり、煌々と輝いていた。太陽と違い、月は直接見つめても眩しくない。それがフィーネにはいつも不思議だった。


「本当に、とても綺麗な月ですね」

「……あの日、あなたは月を見ていました」


 窓から視線をそっと離し、琥珀色の瞳がフィーネの青みがかった瞳を優しくとらえた。


「フィーネ。俺は一つ、あなたに嘘を述べました」

「嘘?」

「ええ。レティシアのために、あなたに近づいたと述べたことです」


 ニコラスと一緒になりたいから、代わりにフィーネに近づいて欲しい。レティシアはそう婚約者のふりをしていたユアンに頼んだ。


「最初はたしかにそうでした。レティシアはお礼をしてくれると言いましたからね。対価に見合った働きはしないといけません」


「とてもよい働きぶりでしたわ」


 ユアンはフィーネの嫌味にも、笑みを深めるだけだ。


「俺は、あなたがあまりにも一途で、見ていて可哀そうになった。ニコラスと別れた後のあなたは、いったいどうなってしまうのだろうと思うと、自分がしてきた行いが、本当に正しいのだろうかと、不安にもなりました」


「そうは、見えません」

「本当ですよ、自分でも信じられませんが」


 ユアンの細い指が、フィーネの頬を撫でた。


「あなたが、あの男のために命まで差し出そうとして、それで怪我をしたとまで聞いて、俺は笑いそうになりました。どこまであなたは馬鹿なんだろうって。そんなことをしても、レティシアとニコラスが喜ぶだけでしょう。このままあなたをニコラスのそばにいさせたら、あなたは本当に壊れてしまいそうだと思いました。だから、俺の役割を打ち明けたんです」


 フィーネはユアンだって馬鹿だと思った。こんな自分に同情して、こんな自分を救うために、わざわざ憎まれ役を買うなんて、なんて愚かな男だろう。

 ここに住むのだって、彼が何を犠牲にして、捨てたのか、フィーネの頭ではとても考えられない。


「フィーネ。俺には、今のあなたの心情がわかりますよ。あなたは、今、とても怖いのでしょう? ニコラスのために必死に良い子を演じてきた自分が、とても空っぽに思えるのでしょう?」


「あなたは、本当に意地の悪い人ですね」


 ユアンは否定せず、その通りだと笑った。


「でも、間違っていないでしょう?」


「……ええ、あなたの言う通りです。私は今までずっとニコラス様のために、自分を作ってきました。言葉遣いも、服装も、趣味も、すべて。だから、ニコラス様から離れた自分が、これからどう生きていけばいいか、まったくわからないんです。自分を見失ってしまいそうで、怖いんです」


 ニコラスへの未練も何もかも消えてしまった時、フィーネという存在も一緒に消えてしまいそうで。


 手で顔を覆ったフィーネに、ユアンがかける言葉はない。きっと呆れたのだろう。まるで中身が空っぽの人形だと。いっそ笑ってくれればいい。


「大丈夫です。俺が教えてあげます。あなたという存在を」


 手をどけて、ユアンがフィーネに優しく微笑む。その表情が、フィーネにはどこか泣いているように見えた。


「俺が知らない部分があるなら、一緒にこれから知っていきましょう」


 ユアンの言葉は、魔法だ。彼が大丈夫だと言えば、本当にそんな気がしてくる。

 この先ユアンとずっと一緒にいれば、きっと自分は心穏やかに過ごすことができるだろう。けれど――


「わたしは、きっとあなたを愛せません」


 残酷に、フィーネは告げた。自分でもなんて酷い奴だろうと思う。

 けれど誰かの優しさを犠牲にして、自分を慰めたくはなかった。ユアンを傷つけるのが怖かった。いいや、きっと自分にはもう一生誰かを愛することはできないのだと思った。


「ええ、いいですよ」


 それなのにユアンはどこまでも優しく微笑んでくれる。


「永遠なんて、俺は信じません。あなたが愛してくれるまで、俺は待ちます。嫌っていうくらい、あなたのことを愛してあげます。あなたが泣いても止めませんので、どうか覚悟して下さい」


 馬鹿な男だ。こんな自分に絆されて、愛しているとまで告げた。

 フィーネは喉を震わせ、必死に涙を押し留めようとした。この男に出会ってから、自分は泣かされてばかりいる。ユアンが彼女を覆い隠すように抱きしめた。それに安心を覚えるようになったのは、いったいいつからだろう。


「大丈夫ですよ。誰も見ていませんから、思う存分泣いて下さい」

「っ、泣いてなんか、いません」

「おや、そうでしたね」


 とぼけたふりをするユアンの胸を叩いて、端正な顔を見上げた。琥珀色の瞳は、フィーネの存在を優しく照らしてくれる月のようだった。


「あ、あなたは、大馬鹿者だわ」


 フィーネは赤くなった目で、ユアンを精いっぱい睨んだ。


「だったらお似合いですね」


 ユアンは、フィーネの言葉に嬉しそうに答えるだけ。フィーネはまだ何か言ってやろうと頭を働かすが、にこにこと次の攻撃を待つ男に、とうとう根をあげた。


「……ユアン」

「はい」

「そばに、居てもいいですか」

「最初からそう言っています」


 額をコツンと合わせて囁くユアンに、フィーネはくしゃりと笑った。


 レティシアを演じていたフィーネはもういない。ニコラスを愛していたフィーネも、きっといつか消えてしまうだろう。


(さようなら、フィーネ)


 フィーネはそっと、別れを告げた。



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