断ち切れない想い

 忘れることなど、できなかった。離れていると、よりいっそうニコラスのことを思い出してしまう。時が経つほど、ニコラスとの別れを実感する。


 そして何もかも全てが、ニコラスを思い出させるようなきっかけに見えた。

 美しい花は、ニコラスの愛した薔薇を。窓から差し込む光は、彼の温かな微笑みを。楽しい冒険物語は、彼の声を。


 本当は忘れたいのに、ニコラスの笑顔が、声が、フィーネの心を強く揺さぶるのだ。帰って来いと、きみがいる場所は自分の隣だと。

 フィーネの魂に強く刻まれたニコラスの全てが、フィーネという存在を糾弾する。


「まだ、愛しているんですか」


 わからないとフィーネはかぶりを振った。


 ニコラスへの想いは、フィーネ自身にも理解できない、歪んでねじれ曲がったものだ。綺麗で透明な気持ちは、きっともう残っていない。


 好きだ。嫌いだ。

 幸せになってほしい。幸せになんかならないでほしい。

 愛しい。憎い。愛しい。


 矛盾した感情が、フィーネを襲い、心が引き裂かれそうになる。

 愛したいという感情は、本当は憎しみともいえる歪なものなのかもしれない。


「彼は今ごろ、あなたを取り返そうと必死に画策しているでしょうね。あるいは、あなたが帰ってくるのを待っているかもしれません」


 フィーネはじっと、痛みに堪えるように目を瞑った。


 彼女は、今ならニコラスが自分を引き取ろうとしたその心情を理解してやることができた。失くしたものを取り戻す。彼は、本当にレティシアを愛していたのだ。この苦しみを紛らわせてくれるものがあるのならば、人は禁忌とされた手段にも手を伸ばしてしまうのだろう。


「愚かな人だ」


 ユアンの囁きは、まるで悪魔の言葉のように甘く、フィーネの心を暴く。細く長い指がフィーネの髪をするりともてあそんだ。


「可哀そうなことにあなたは今でもあの男の虜。魂を握られている」

「やめて。それいじょう、いわないで」


 涙を流して許しを請うフィーネを、ユアンは妖艶な笑みで見つめた。跪き、彼女の手を握りしめる姿は、一見迷える子羊を導く神父のように見える。


 だがその瞳の奥に見えるのは、熱に浮かされたような欲の塊。


「安心してください。俺が、あなたをあの男のもとへ帰したりしません」


 ぎしりとソファを軋ませ、フィーネをゆっくりと押し倒したユアンは、壊れ物を扱うかのような手つきで彼女の白い頬を撫でた。


「あなたの魂の半分があの男のものだというなら、俺の半分をあなたにあげます。それであなたは、俺と完全に一つになれる」

「それは、」


 どういう意味だ、と聞こうとした言葉は彼の口づけによってかき消された。触れるだけの、優しい口づけだった。顔を離すと、ユアンはフィーネをじっと見つめた。


「フィーネ」


 自分の名を呼ぶ男の声が愛していると聞こえて、フィーネの頬には一筋の涙が零れ落ちた。


 ユアンはフィーネが一人悲しみに浸ることを許さなかった。わざと彼女が怒るようなことを言い、涙を流させる。ニコラスへの想いも、憎しみも、すべて吐き出させようとする。


「あなたには、わかりませんわ」


 フィーネは震える声で、ユアンに八つ当たりした。

 自分がいかに最低な人間であるか自覚しておきながら、彼女は子どものような癇癪を彼にぶつけた。


「ええ、わかりません」


 ユアンはフィーネの苦しみや悲しみにも、ちっとも動じる素振りを見せず、ただ全てを受け入れるかのように彼女の言葉に真摯に耳を傾けた。


「どうしてあなたがあの男をここまで好きなのか。別れを告げてもなお想い続けているのか」


 はらはらと流す涙を、ユアンは少しも目を逸らさず見つめる。そこにはいつもの揶揄する表情は少しもない。いいや、こちらに来てから、彼は気味が悪いほどフィーネに優しく接して、それがまた彼女をよりいっそう困惑させるのだ。


「だから、教えて下さい。苦しみも悲しみも、俺にぶつけて下さい」


 その言葉のなんと甘いことか。フィーネは耐え切れず、縋るように、この男の胸で泣き喚いた。慰めを求めて誰かに縋るのは、初めてだった。


「私には、あの人しかいない。あの人を失った今、もう、どこにも行けない。私という存在は消えてしまう!」


 真っ赤な目で、フィーネはユアンを見上げた。


 フィーネは誰かに助けて欲しいと思った。そしてその誰かは、この男しかいないように思えた。


「私が、今まで周囲の人間に何と言われてきたか、あなたはご存知ですか?」

「ええ。レティシアによく似た人形だと」


 そうだとフィーネは笑った。


「あなただってそう思って、今まで私と接してきたのでしょう」


 ユアンは何度だってフィーネに馬鹿だと言った。それは自分の存在を笑ったからだ。

 子どもが駄々をこねるような理屈で、フィーネはユアンを責めた。


「俺はあなたをレティシアと同じだと思ったことは一度もありませんよ」

「嘘です」


 フィーネがにべもなく答える。ユアンは嘘じゃありませんよと彼女の顔を自分の方に向かせた。


「あなたは見かけによらず意地っ張りだし、すぐに内にため込んでしまう。決して人に弱みを見せようとしない。見せてもすぐに隠そうとする。何でもないふりをするのが上手で、とても下手です」


 それから、とまだ続けようとするユアンの口をフィーネは乱暴に塞いだ。


「もう、いいです」


 だがユアンは彼女の手を掴んで、優しく微笑んだ。


「とても寂しがり屋だ」


 フィーネは涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せまいと、彼の胸に押し付けた。

 ユアンはそんなフィーネをいつも痛いほど強く抱きしめる。彼女が消えてしまわないように、繋ぎ止めるように。そして最後に決まってこう言うのだ。


「フィーネ、あなたは、あなたです。誰かの代わりでも、都合のいい人形でもありません。自分を、見て下さい」


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